「たとえ彼が悪人でも、人を傷つけることは正しいことではない」
幼い少年の肩を握り、膝を地面に付けて目を合わせてそう告げる吸血鬼対策課の破天荒な男に、ツラヌキは一瞬頭が真っ白になった。背後に立っていたツラヌキの顔は彼には見えていないだろう。
少年に向けて諭すような口調が、ツラヌキの胸中に名を付けられぬひっかき傷を残す。見下ろす彼の細面は真剣に少年に向けられていた。
――そんなこと。
知らなかった。知っていた。
咄嗟に浮かんだ言葉がどちらなのか、ツラヌキ自身にも分からない。
彼が自分に振り向こうとした気配がして、ツラヌキは咄嗟に路地裏に駆け込んだ。彼の前にさらせる顔を自分がしている気はしなかった。着るものなど後で考えれば良い。
なんとか服を取り戻し、いつもの廃ビルに駆け込んで、ツラヌキはマットレスに崩れ落ちるように横たわった。埃が巻き上がってすこし咳き込む。なんだか今夜は妙に疲れた。もうそろそろ日が昇るだろう。ぎゅっと目をつぶって、ツラヌキは小さく呻いた。
――たとえ、彼が悪人でも、人を傷つけることは正しいことではない。
男の声がぐるぐる脳裏を巡る。耳を塞ぐ。それでも止まない耳鳴りのようなその声。それをかき消すようにツラヌキは声を上げる。
「でも、俺は悪人をやっつけただけであります」
そうだ、自分はヒーローとして悪を懲らしめただけだ。すり切れたビデオテープのように微かな記憶で、自分はずっとそうなりたくて。
「俺はガンダマンみたいに、悪を倒すヒーローであります。悪いやつをやっつけて……」
そうでなければ、そうでなければこの力はなんなんだ。
「違う、違う。俺はヒーローで、悪いやつを倒すだけであります。そういう……あいつらは悪いやつなんだ、悪いやつだから……悪いやつだからやっつけて当然なんであります」
ツラヌキはぼろぼろのマットレスの上でぶつぶつと呟きながら、ヒーローマントを体に巻き付けて小さくなる。
おれは正義のヒーロー、と呟く声が弱々しく揺れていることをツラヌキばかりが知らぬままであった。
串刺しツラヌキは夢を見た。
狭く散らかった部屋の中で、ブラウン管テレビから音がする。見終わったら巻き戻してはじめから。巻き戻しのやり方は母が教えてくれた唯一のものだ。それしか音がするものがなかったから少年はずっとそれを見ていた。言葉はそれで覚えたようなものだった。少年はもう空で覚えてしまったオープニングを一緒に歌う。
「行け、行けガンダマーン」
テレビの向こうの正しい世界の歌。
日が暮れても、夜が明けても、少年の世界は、小さな散らかった部屋と、伸ばせど届かぬブラウン管の向こうの正しい世界だけだった。
串刺しツラヌキはわからない 了