そのときは嘘じゃなかったけれど

ありがとう、もう大丈夫です。
 ハスティナープラの王宮でビーマはにっこりと笑って給仕にそう告げた。そう言うと給仕は皆一様にほっとした顔で皿を下げる。ドリタラーシュトラ王に引き取られ、王宮で暮らし始めてから七日も経たない頃だった。
「もういいのかい、ビーマ」
「ええ、もちろんです義父上ちちうえ、ひとの二倍もいただいているのですから」
「おお、二倍も! ビーマはきっと立派な勇者になるだろう」
「ありがとうございます!」
 先日までの大食いを知っているドリタラーシュトラ王は心配そうにビーマを気遣ったが、ビーマはことさら明るくからりと彼に応じた。
 王宮に来て早いうちに、自分がいかに人に比べて大食らいなのかビーマは気がついていた。そしてじっとりと背中に汗をかくような不吉な予感でもって、それは家族を決してよい方へ導かぬとも悟った。
 ビーマが食べたいだけ食べていると、いつのまにかひそひそと風に乗って声が聞こえるようになった。
 倉庫の食料がなくなってしまう。
 王に養われているというのに。
 やはり、人の子ではないから。
 食べたいだけ食べることが出来るのは、あの森で自分たちで食べるものを採っていたからだ。王宮では、気ままに自分の食べたいだけ食べることは許されない。
──本当は、本当は。
 これっぽっちの料理でビーマの腹は満ちない。人の五倍は食べるのがビーマだ。できることなら何度でもおかわりをして、腹がくちくなるまで飽くほどに食べたい。狼腹ヴリコーダラめと父が笑ったように、腹が唸りそうになるのを気力でもって止める。クシャトリヤとして嘘はついていない、お腹いっぱいだとは言っていない。
 大丈夫だと言っただけ。
 ユディシュティラをちらりと窺えば、彼はひどく驚いたような、悲しげな顔でビーマを見つめていた。嘘じゃない、と声もなく笑えば、彼は落ち込んだ顔で皿に手を伸ばした。
「ビーマ兄様?」
 小さな囁き声にユディシュティラから反対の隣を見る。
 幼くともすでにクシャトリヤとしての鋭い見識をもつアルジュナの黒い目がじっとビーマを見つめていた。ビーマの揺るぎない笑みを受けてふと俯いた。アルジュナの様子をみて、ナクラとサハディーヴァも止まっていた手を動かす。
──優しい弟たち。
 人の五倍は食べる自分が、人と同じ分だけを腹に収めて、人と同じように食べ終わる。それがどういうことか兄弟だけが分かっている。
 けれど、ビーマの狼腹まで計算してくれていた父はもういない。母一人で五人の息子を養うことは出来ない。
 王宮で人と生きていくということは、きっとそういうことなのだと、ビーマは苦い薬を飲み込むようにそう理解した。
 ビーマはにこにこしたまま食事を終えて下がる。
 その背を誰かの視線がじっと見ていることなど、腹が鳴らぬように堪えていたビーマが気がつくことはなかった。

 ぐう、ぐうと鳴る腹を抱えて地面にしゃがみ込む。誰もいない場所でようやく壁に背を預けて呟いた。ひとと同じように食べるようになってから、食事の席が終わっては王宮の隅でぐったりとするのが常になっていた。五兄弟のために設えられた房室では家族に心配されてしまう。
「はらへったぁ」
 食事の席では必死に我慢しているものが誰もいなくなった場所でようやくけたたましくうなりを上げる。ぐうぐうと狼が唸っているようだ。だから父は狼腹ヴリコーダラと呼んだのだろうか、となどとぼんやりと考えが浮かぶ。
 空きっ腹を抱えて空を見上げる。広大な王宮の壁がそそり立ってビーマを見下ろしていた。
 ジャスミンの白い花のその向こうに鳥が見える。
 アルジュナなら弓で落としてくれるかも、焼いてまるごと食べたいな。と考えて慌てて首を振る。
──我慢しなきゃ。
 これからずっとこの王宮で暮らしていくのだから。ビーマが我慢しなければ、家族が暮らしにくくなってしまう。一人で狩りにいけるまでは──。
 はあ、とため息をついて腹を抱える。ぽろりと情けなさに涙が零れては袖で拭った。
「──やっぱり足らんのではないか!」
 突然に澄んだ少年の声がビーマを射貫く。ビーマは矢に打たれた兎のように跳ね、目元を拭って振り返った。
「おまえ、えっと、ドゥリーヨダナ……だよな」
「ようやくおれ様の顔を覚えたか!」
 にや、と片手を腰に手を当ててビーマを指さすのは従兄弟のドゥリーヨダナであった。ようやく最近全員の顔と名前がそろい始めた百人以上いる従兄弟たちの長男。クシャトリヤとしての鍛錬が始まって、ビーマがよく手合わせをするのもこの王子だった。
「最近毎日前の半分も食べんで出て行くだろ。なんだ貴様、ハスティナープラの富を侮っとるのか」
「そんなんじゃねえよ。ただ、食べ過ぎたら悪いだろ」
 ふい、と首を背けるとと鼻を鳴らしてせせら笑う音が聞こえる。
「貴様が人の何十倍食べようと父上の財産のほんのわずかでも減るもんか。指南役だって貴様がへなちょこになったと言ってたぞ」
「そのへなちょこに昨日ぼこぼこにされたのは誰だよ。だいたいあの指南役だってアルジュナに負けてた」
「昨日は結局おれとはお相子だっただろうが! アルジュナに負けとったのは……父上が新しい師を探しとる!」
「その前は俺の勝ち越しだろ」
「ええい口の減らん奴め! へなちょこの貴様を負かしてもつまらんと思っただけだからな! べそっかき!」
「泣いてねえっ!」
 ドゥリーヨダナが後ろ手に抱えていたらしい葉の敷かれた籠をビーマに投げつける。
 受け取った籠から食欲をそそる香りが漂ったことに、ビーマは目を丸くしてドゥリーヨダナを見上げる。たっぷりと揚げたてのサモサにマンゴー、他にもたくさんの食べ物が山に盛られていた。
「──おまえ」
「万全の貴様をたたきのめしてこそ、おれ様の完全勝利だ」
「い、いいのか?」
「ふん、別に貴様のためじゃない。父上の富を侮るのは我慢ならん」
 胸を反らして堂々と笑うドゥリーヨダナに、胸にこみ上げたのは暖かな喜びだった。ぱくぱくと食べて、じんわりと満ち足りた心地がする。
 ドゥリーヨダナはふてくされたような顔のまま、それでもずっと隣でビーマが籠の中を平らげるのを眺めていた。
「──ありがとう、ドゥリーヨダナ。美味しい!」
 それが、ビーマが彼に向けた心からの感謝の最初で最後だったのだと、そのときの二人は知るよしもなかった。

 

──ああ。
 体が動かなくて、頭がぼおっとする。手足が痺れて、まぶたが重い。
 ドゥリーヨダナたちが笑っている。あのときのはにかんだような笑顔と、全然違う顔で。
 だんだん彼らに憎まれているとなんとなく気がついていたけど。
 でも、あのときもらった気持ちがうれしくて、同じ料理だと思ってしまって。
「毒入りのサモサは美味しかったか? ビーマ、狼腹め」
 ドゥリーヨダナの吐き捨てるような声がする。
 川底に蹴り入れられて、落ちる間際に空が見える。美しい空だった。
──美味しかった。
 あの日の籠の中に詰め込まれていた暖かなものが、冷たい王宮でひとりぼっちのように思えてならなかったビーマを満たした。でも、ああ、食べるべきではなかったのだ。きっと、あれは練習で、こうして殺すためのものだったのだ。
 あの暖かな満ち足りた気持ちは全部嘘だったのだ。
 もう二度と、あの暖かなものがビーマを満たすことはない、とビーマは目を閉じた。

──うそじゃなかったらよかったのにな。

 蛇の満ちた川に落ちる寸前にそう過った思いは、水しぶきに混ざった涙に溶けてもう誰も覚えていない。 

 

 

3/27 #ドゥリビマ版ワンドロライ 『うそつき/花』参加作

参考文献:山際訳 マハーバーラタ

2024年4月9日