「キセキの世代の青峰大輝くん?」
ウィンターカップ会場に観戦に来ていた青峰の前に、一人の男性が現れた。古びたハンチングにくたびれた黒いコート、瓶ぞこのような黒縁メガネ、中肉中背で、顔は青峰の胸の辺りだ。手にはメモ帳と鉛筆を後生大事に握りしめている。
「ちょっとお話いいかなア。ボクは○○新聞のものなんだけどね」
にこり、と人好きのする顔で微笑んだ男に、青峰は舌打ちしそうになるのをなんとかこらえて、身を翻そうとした。しかし、器用に壁際に寄せられていた青峰は、男性の前から逃げることができない。
にこにこと笑う男性の目が怖くて、青峰は動けなかった。
「――何スか」
「いやいやそんなに身構えないで欲しいな。別にとって食おうってわけじゃないんだから。幾つか聞きたいことがあってね、答えてくれないかな」
返事も待たず、貼り付けられた人好きのする笑顔のまま、記者は矢継ぎ早に質問を繰り出した。
その質問自体は悪意があったものではなかっただろう。ただ、大衆の望むだろうと信じた、下世話な質問に過ぎない。
まさかの一回戦敗退という結果に終わった、無敗伝説を誇る“キセキの世代の点取り屋”という称号に対しての、いくつかの単純な質問に過ぎない。
しかしそれは、青峰大輝という高校一年生を打ちのめすには十分に心無い質問だった。
答えることもできずに青峰は口を戦慄かせる。
殴らなかったのは、帝光時代に黄瀬に聞いたメディアの恐ろしさと、そして部活動への影響を天秤にかけたからだ。
「どうしたのかな?答えてくれないかな?」
口を引き結んで睨む青峰など意にも介さず、鉛筆の先を舐めて記者は笑って促す。
真っ先に敗北した今の気持ちは?――キセキの世代と呼ばれて持て囃されておきながら。
チームメイトに言いたいことはあるか?――君のせいで負けたチームメイトに。
どう婉曲し、慎重に分けて質問したところで、この記者はそれが聞きたいのだと、青峰にすら解るほど明白に匂わせていた。
青峰に答えられるわけがない。
真っ白に焼け切れたような脳みそで、なんとかこの記者を躱そうと視線を巡らせるが、助けなど居なかった。そこに居る観客たちは、視線を逸らし、関わり合いにならぬように避けていく。嘲笑を浮かべるどことも知れぬ他校の生徒もいれば、憐れむような視線の大人もいた。
桐皇学園の制服を着た生徒は何処にも見当たらず、青峰はぐ、と奥歯を噛み締める。凶悪な顔が更に凶悪に見えた。
「で、そろそろいい加減に聞かせてくれないかなア。オジサンもあんまり暇じゃないんだよねエ。ほら締切とかあってね」
少しだけ苛立ちをにじませた声で、記者が急かす。
戦慄く唇をなんとか押し隠し、口を開こうとした時だった。
その記者の横から、聴き馴染んだ声が滑り込むように嘴を挟む。
「うちの青峰に何や用でっしゃろか」
地面を滑る蛇のように低く、怒気すら滲んでいるような声に、青峰は勢いよく顔を上げた。見慣れた制服と、見慣れた顔に、青峰はぎくりと肩を強ばらせた。
「今吉、サン」
今吉は青峰の腕をつかんで引き寄せ、記者に問う。
「インタビューなら学校通して依頼して貰えませんでしょうか。――○○紙サンですか。こちらで把握しておきますので、どうぞ、学園にご連絡を」
流麗な標準語の慇懃な言葉の奥底ににじむ迫力に飲まれ、記者は頷く。
「ま、まあその方がきっとリラックスして答えてもらえるだろうしね。すまないね、時間を取らせてしまって」
「いいえ」
今吉はニコリと微笑い、会釈をして青峰をの腕を引っ張った。
「ほら、行くで青峰」
青峰は一瞬びくりと身を強ばらせたあと、いつものようにふてぶてしく「おう」と頷いた。
今吉はひっそりと忘れられたような更衣室に青峰を連れ込んだ。あかりのついている其処には、桃井を始めとした桐皇学園の見慣れた面子が揃っている。
何故此処に――と問う暇もなく、駆け寄った桃井が青峰を見上げる。
「大ちゃんが絡まれてるって噂してるのの聞いて……。手出してないよね?」
「出してねーよ。暴力沙汰はNGだっつって念押したのさつきだろーが」
そんなに信用ならねーか、と凄んでも幼馴染には通用しない。そういえば、人前で大ちゃん呼びはやめるんじゃなかったのか、と下らないことを言いそうになって口をつぐんだ。
「青峰、大丈夫か?」
「あ? 何がだよ」
妙に心配そうな顔の若松に睨むが、更に若松の眉間に皺が寄った。
今吉は掴んでいた腕を離すと青峰をぐい、と覗き込むように見上げる。細い目を更に細めて笑う今吉に、青峰はふっと肩の力が抜けた。力が抜けたことで、青峰は今まで強ばっていたことを悟った。
「大丈夫ならええんや。ごめんな、試合直後やなかったさかい、マナーのなっとらんブン屋が出てくるとは思わんかってん」
ぽんぽん頭を撫でられ、青峰は振り払う気力もなく受け入れる。
「安心し、ちゃーんと、社名も名前も控えといたで!な、桃井」
「はい!ちゃーんと調べました!」
何故か自慢げに胸を張る今吉と桃井に、諏佐が問う。
「うちの監督に連絡は?」
「スミマセン諏佐先輩!僕が済ませておきました!」
「顔覚えたんで、うちの校内には入れねッス。今最上先輩にブラックリスト更新頼みました」
桜井と若松の言葉に、青峰は目を見開いた。
「え、インタビューしねえでいいの?」
てっきり、また根掘り葉掘り、針のむしろのようなインタビューを学校で受けなければならないのかと思っていた青峰がぽろっと溢した言葉に、若松が奮然と鼻を鳴らす。
「ったりめーだろ何言ってんだテメエ! 俺はてめーが嫌いだが、うちのエースにンな顔させるような奴を近づける訳ねーだろ!アホミネ!頭使え!」
罵倒されて青峰は咄嗟に言い返す。だが、直後にその意味を察して首を傾げた。
「誰がアホミネだッ!……って、マジでいいのかよ」
雑誌に載るというのは、桐皇にとって良いことだろうとは察していた。
言葉足らずな彼が言いたかったのは、名前の知れた看板を勝手におろしていいのか、という事だ。
「ええよええよ、あんなクソゴシップ紙にうちの後輩が載るとかないわ。――ほんま腸煮えくり返るわ。うちのエースにこないな顔させてからに……やっぱり一発殴っとくべきやった」
小さくぼそりと付け加えられた言葉がよく聞こえずに、青峰は首を傾げる。
その様子をちらりと見た今吉が、打って変わって明るい声で腕を振り上げた。
「……ほな行こか!そろそろ試合も始まるやろ!一緒にみようやせっかく集まったんやし」
「一緒に見ましょう、青峰くん!スミマセン!」
「何に謝ってるかわかんねえよ桜井。青峰も見てくんだろう?」
「お、おう」
歯切れの悪い青峰に、焦れたように若松が指を突きつける。
「いいか!お前はうちの最強なんだよ、誰がなんて言おうと、三年間はてめーがうちの絶対唯一のエースだ。……負けたってそりゃてめーの所為なんかじゃねえ。勝利も敗北も、てめー一人の所為だなんて事ァ絶対にねえし、俺が言わせねえ。わかったか!」
青峰は、夢から覚めた瞬間のような呆然とした顔で若松を見た。
コートでも耳を塞ぎたくなるような掛け声を放つ若松らしい、狭い更衣室で空気を震わせるような大声だったが、いつもなら反射的に出る反論が、青峰の喉につっかえたように出てこなかった。顔を真っ赤にして言いたいだけ言ったらしい若松は、ぎくしゃくと青峰に背を向けて、更衣室のドアを開ける。
「行くぞ」
少し薄暗い更衣室に、廊下の光がさして、青峰を照らした。妙に眩しく感じて目をしばたかせる。更衣室から動かない青峰を、彼らは怪訝そうに振り返る。
「行こう、大ちゃん」
隣の桃井が見上げて実に嬉しそうに笑う。
青峰は、す、と息を吸い込むと、凍りついていたような足を地面から引き剥がしてドアに一歩進んだ。
“帝光中学のキセキの世代”
バスケ界に突如現れた黄金のような才能の塊は、センセーショナルにスポーツ誌業界を賑わせた。
バスケ専門雑誌の月バスだけでなく、大なり小なりのスポーツ雑誌、新聞、などのあらゆるメディアが、彼らの動向を目をかっぴらいて見ていたと言っても過言ではないだろう。
いつの世も人々が望むのはエンターテイメントだ。
ロマンチックでハラハラドキドキ、山あり谷ありの艱難辛苦。乗り越えるものや膝をおるもの、一人の人間が崖を転がり落ちる様でさえエンターテイメント。
大衆という絶対正義に、供物を捧げることこそ、彼らの至上命題だった。
そんなこと百も承知だった。
自分たちだって女優のゴシップで一喜一憂していたって、それでも。
先輩として。
同級生として。
この手で守れるのならば、守ってやりたいと思うのは、決して特別なことなどではない。
今吉は、大慌てで駆けつけて、声をかけた瞬間の後輩の顔を苦々しく思い出す。
(もっとはよう、助けてやれればよかったわ)
傲岸不遜な殻を無理やり引き剥がされつつある後輩が、自分の顔を見て取り繕うこともできずに見せた怯えた表情と、幾ばくかの安堵に、今吉は、嘘でなく腸が煮えくり返る思いをした。
負けたのは青峰の所為ではない。
そんなこと、試合に出た者なら誰だって分かっているはずだ。青峰だって、分かっているだろうと思っていた。
なのに。
今吉が目に入った瞬間。青い目が見開かれて、その奥の瞳孔が開かれた。唇は可哀相なほど震えて、手は白くなるほど握り締められ、体の後ろに隠されていた。
一瞬、取り繕えなかった怯えた顔に、打ちのめされたのは今吉の本心だった。
(まさか怯えられるとは思わんかった。ワシらが責めるとでも思わされたんか、青峰のせいで負けたとでも言われたんか――)
若松の怒鳴り声のおかげで未だキンキンする耳を抑えながら、今吉はぺろりと唇を舐めた。
「うちの子をよお泣かせてくれたもんや」
「許されねえな」
「はい。絶対許さない」
「うす。しおらしいアイツとか気持ち悪いッスからね」
「お手伝いします」
青峰は不思議そうにしていたが、試合並みに気合の入った桐皇学園の纏う剣呑な気配にすれ違う人が尽くぎょっと振り返っていた。
END