Order For Us! 後編

ローは手始めに、と呟いて長身を屈める。膝に肘をついて二人の目を見つめる。
「”立ってこっちに来い”」
 ベッドに腰掛けていた自分とペンギンはその言葉通りに立ち上がった。 ローの両脇少し前に立つ。ローは満足げに頷いた。わずかにローの目が細められる。
 ぴり、と背筋にくすぐったいような感覚がしてシャチはは身震いした。
「よし──、次は嫌ならセーフワード使え」
 そう前置きして、静かな低音がシャチとペンギンに命じる。
 まるで懇願するような響きだった。

「”跪け﹅﹅“」

──それは驚きだった。
 ずっとそうしたかったような不思議な気持ちで、自然とあるがままの姿であるかのようにシャチはローの目の前に叙勲を待つ騎士のように跪いた。ペンギンも同じように自分自身に驚いたように自然に彼の前に膝を突いていた。
「……ふ」
 柔らかな笑みがこぼれた音がして、思わず顔を上げる。視線を上げた先に、目を細めて満足げなローが口角を上げていた。両手が広げられる。
「上手じゃねェか」
 跪いたまま呆然としているシャチの頭を帽子越しに撫でる。反対側の手がペンギンの頭をかき回していた。その熱い手のひらがシャチに触れる度に心臓がどきどきとする。
ぐら、と頭の芯が揺れるような感覚にシャチの息が上がっていく。
「は、あ……」
「ほ、ほんとうに出来た……」
 シャチに負けず劣らず、はふはふと息をするペンギンの驚きに、ローはくつくつと喉の奥で笑う。
「素直でいいな、ああ良い気分だ──じゃあ次は」
 ローの視線が次の指示を探そうとして部屋を巡り、ヘッドボードに置きっぱなしになっていたマグカップに注がれる。ベッドを使おうと思えば邪魔だろう。
「あ、マグ片付けてねェか……」
「片付けてきますよ、ローさん」
「いいよ、おれが見落としてた」
 ローはひらりと手を振って立ち上がる。それでふと思い立ったらしく、跪いたままの自分たちに囁く。
「……ああ、”待ってろ﹅﹅﹅﹅“」
 ほんの数歩の間だ。ヘッドボードに置いてあるマグカップをテーブルにでも戻すだけの、十秒にも満たない時間。
 だというのに、この恐怖は何だろう。シャチは混乱と焦燥に乱れた息を吐く。それはとなりのペンギンも同じだった。青ざめた顔で陸に揚げられた魚のように震えている。
 先ほどまでの高揚感が、真冬の海にたたき込まれたようにぞっと引いた。
「えっ……!?」
「あ、え……は、ァ……ッ」
「シャチ、ペンギン!?」
 マグカップを避けただけのローがいきなり乱れた呼吸音にハッとした顔で振り返る。跪いた姿勢のままつっかえたような息を繰り返す自分たちに、ローは慌てて床に膝を突いて二人の背を撫でる。
「どうした……! ドロップか?」
 どうしよう、と、ここまでなのか、と二つ三つといろいろな感情が駆け巡ってぐるぐるとシャチの頭を駆け巡る。
「は、は……っ、ごめ、ごめんなさ……おれ、やだ、待つの、……う゛う゛……ッ!……ッ!」
 ここまでにしたくない──そんな気持ちが確かにあるのに、感情がままならない。
「だ、だいじょ……ぶ。ローさん……! う、あ、あ゛あ゛ッ」
 ペンギンがローの腕を握りしめている。額に浮かぶ脂汗を拭いながらローは眉間の皺を深め、落ち着かせるように二人の背を叩く。
「使え。大丈夫だ。”セーフワード”を使ってみろ」
「ッ!…………でも!」
 シャチの抵抗にローは静かに諭す。
「おれを信じろ」
 そう言われてしまえば、もう従う他に無かった。
「……”ヴォルフ”」
「ス、”スワロー”」
 吐き出したセーフワードに、がくりと二人が崩れ落ちる。荒い息を吐く自分たちを、同じタイミングで息を詰めたローがねぎらう。
「……悪ィ。嫌だったか。おれが悪かった。無理に頑張ってくれたな、ありがとう」
 ローが床に座り込み、ソファーにもたれかかって天井を仰いだ。
 力の入らないシャチとペンギンの腕を引いてローの肩にもたれさせる。シャチとペンギンがローの両肩にもたれかかるような形になって、三人で床に座り込んだ。
 まるでスワローのヴォルフの家にいるような姿だというのに、吐く息が凍るかと思うほどの寒さをシャチは感じている。
 がたがたとペンギンが震えているのが分かる。自分の体も雪の中にいるように震えていた。
「ごめ、なさ……キャプテ……」
「謝るな。息、できるか」
「う、うう……できなくて、ごめんなさ……」
 謝るほどにばちばちと目の前が明滅する。腹の底から湧き上がってくるこの恐怖は、今まで感じた何よりもよほど恐ろしいものだった。首を絞められて死を想っても、寝返りを打てないほどに背を撲たれた夜よりも怖い。打ち上げられた魚のように息を吐きながらローにすがる。
「っ、おれ、おれ出来損ないで……!」
「違う!」
 ローの荒げた声が、そんなはずが無いのにいつかの誰かとオーバーラップする。
「ひっ」
「……っ!」
「あ……悪ィ」
 シャチとペンギンが咄嗟に身を竦めてローの手を払う。その反射的な防衛にきっと一番傷ついたのはローだった。

 

 強ばって一瞬逃げを打とうとした体をローの腕がもう一度絡め取る。頭の上に上がった手と手を絡めて、ゆっくりと下に降ろす。それでもなお身を固く、床を見つめるシャチとペンギンをローは見つめる。その視線の温度は二人には分からない。
 けれど、宥めるように繋いだ手が揺れる。この人でしかみたことのない物騒なタトゥーがシャチの視線の先で揺れる。医者の嗜みだと几帳面に切りそろえられた器用な爪先。
「シャチ、ペンギン……。おれがわかるか」
 芯のある静かな声に、まるでつり上げられるように平穏が戻ってくる。世界の誰を忘れても忘れるはずの無い人だ。
 細い声でペンギンが応える。
「……キャプテン……」
「ああ。おれはお前らの船長だ」
「もちろん」
 ペンギンが頷く。
「だろ。悪ィ、無茶させた。セーフワード使わせて悪ィ」
「そんなことねェよ、キャプテンとずっとプレイしてみたかったんだおれたち」
 ぽろりとこぼれたシャチの本音に、ローが意外そうな顔をした。
「……本当か?」
「うん、キャプテンになら何されたって良いと……思ってたんだけどなァ」
 あの恐怖は一体なんだったのだろう。あの一瞬だけの”待て”がまるで永遠のように長く、喪失感さえ伴っていた。肌寒ささえ感じるそれを頭から振り払おうと頭を振る。
「……まずおれとのプレイが嫌じゃねェならいい」
 安堵の滲む微笑みがローに浮かぶ。
「おれァお前らにひでェことはしねェよ」
「そうだけどさ」
 と、ペンギンが口をとがらせる。
「子分は守るもんだ」
「キャプテン、たまにガキ大将みたいなこと言うよな」
 普段よりもテンポが緩やかな会話。それでも徐々に体の力が抜けていくようなそれに、シャチも肩の力が抜けていく。緊張の糸がほどかれていくようなふわふわとした気持ちが心地よかった。
 とん、とんと一定のリズムで指先がシャチの手の甲を叩く。指遊びのようなそれにこそばゆくなりながら、ローの言葉に耳を傾ける。ローの声は聞き慣れた医者としてのそれに近づいてきていた。
「ドロップしやすくなってンのかな、やっぱりどこかで精密検査するか」
「んー……」
「艦降りるのはいやだなァ」
 ぽつぽつと転がり出る心からの返事に、ローの言葉がふと止まる。彼の頭の中が色々と動いているのだろうと分かる沈黙だった。
「そうか……、じゃあプレイの見直ししてみるか。今までのプレイでこれが良いと思ったことあるか? 今後使えるプレイの契約書書いてやるよ」
「これが良い?」
「うーん……、プレイ、おれたち基本嫌だもんな」
 ペンギンの応えにシャチも頷いた。できればプレイなんてせずに済みたいというのが本音だ。痛くて苦しいばかりのそれは自分たちがS性でなければと思うばかりの苦行だった。いっそ拷問の修行のつもりで行っている。
 ローの目がわずかに開かれる。
「……”指示コマンド“が嫌か? なら操船とか戦闘のときのコマンドが……」
「あっ違う違う!」
「キャプテンの指示コマンドは別! すげェきもちーよ」
 ペンギンと一緒に思わず身を起こして手と首を振る。それは全くの勘違いで、勘違いされたくなかった。
 できればそれだけで済ませてしまえればどれほど良いだろうと、ペンギンと夢を呟くほどに、彼からの指示は甘美なものだった。
「……そうか」
 食いつくような自分たちの否定にローはシャチが思うよりも安心したような息を吐いた。シャチは思わずペンギンと顔を見合わせた。
 今なら言える、と思ったのはペンギンも同じだったらしい。口を開いたのはペンギンが先だった。
「……船にいるときは、キャプテンの命令に従ってたらなんともなかったんだ」
「キャプテンの命令きいて、ちゃんとできたらそれで満足してたし。キャプテン、できたことに褒めてくれるから……。もう少し足りないなってときはたまァにプレイバーで軽くプレイしてたんだけどいっつも失敗して、吐きそうになるんだ。最近妙に頻度多くなっちまってさァ」
「だから、プレイあんまり好きじゃねェ」
 ローの目が途端に険を帯びる。静電気を帯びたような張り詰めた空気は、ロー自身が首を振って続きを促して霧散する。
「……プレイバーで毎回、オチてるってことか……」
「そう、だと思う。前はそんなに頻度高くなかったンだけどさァ」
「ああいうの苦手なんだ。ガキのときから」
 思い出すのはあの叔父たちの屋敷だった。第三次性徴で自分たちがS性の特徴が現れたとき、お互いにゾッとしたのを覚えている。
──犬。獣性。お前達はそれしか価値がない。従わせてやってるんだから喜べ。
 殴打の音と共に吐き捨てられ、蹂躙される記憶に強ばった体は、ローの淡々とした声でゆるゆるとほどけていく。
「ガキの頃ってことはスワローか。第三次性徴のときそんなこと言ってたか? おれが先生の助手したはずだが」
「言わねェよ! 恥ずかしい」
「なんだよ。お前らの主治医だぞおれァ」
 ローの指がとんとんと考え事をしているときにままあるように揺れて手の甲を叩いていた。
「おれたち、おじさんとこにいるときに、従性はいい兵隊になるって言われてさ。お前らはサブにするからって」
 初めて吐き出した記憶をローは鼻で笑い飛ばす。
「ベースの内性は先天性だし、S性が良い兵隊になるってのは、ただの噂程度の話だ。実際は海兵でも半々だし、訓練次第で切り替えられるスイッチできるやつも多い。高度のS性の将校も多いし、逆もそうだろ」
「そうなんだァ」
 ローの蘊蓄に耳を傾けながらシャチはのんびりと感嘆した。この人の知らないことはひとつなぎの大秘宝ワンピースのありかくらいじゃないだろうかと思う。
「おれだって最高度のD性だが、別に支配欲偏重ってわけじゃねェ。お前らだって別に被虐欲求偏重っつうわけじゃねェし。オジサンどもは節穴だな」
「え、ローさんそうなんだ?」
 ペンギンがのんびりとした感嘆を上げた。シャチもすこし驚く。そんなに高度だったとは知らなかった。
「まァな……」
 ローが突然すっくと立ち上がった。そのまま自分たちの手を引いてベッドにぼすんと仰向けに転がった。三人とも足がベッドサイドに飛び出る。まるで子どものような行動に驚いていると、どうやらローは自分たちに顔を見せたくなくてそうしたようだった。
「お前らが嫌がってると思ってたし、おれが怖かった」
 シャチからは口元しか見えない船長を見上げる。
「……口出し、しねェほうがいいと思ってたんだ。四皇を引きずり落とす──どころか、七武海ドフラミンゴを討ち果たす途中で死ぬ可能性が高かった。そのリスクを負ってもやりたいことがあったから」
 この人は自分が永遠に居なくなった時のことを考えて生きてきたのだと思う。自分がいなくなってもつつがなく回るシステム。
 ペンギンとシャチだけではなく、クルー全員に対して全幅の信頼と愛を注いでいながら、彼がいなくても生きていけるように作られた海賊団が、ハートの海賊団だ。
 それが正しいことなのか、悲しいことなのかシャチには分からない。でも、何よりの彼の愛だった。
「……ああ」
 ペンギンが顔を背ける。シャチは彼を見上げたまま頷いた。
「知ってた」
 シーツの海にこぼれおちるローの告解めいた告白を二人で受け止める。ローの口元が歪んだ。
「……だから、おれのせいだ。おれが出来ることから目を逸らしてた」
「そんなことねェよ。おれたちだってキャプテンに言わなかった」
「おれが言わせなかったんじゃねェか」
「そんなことねェよ! 踏み出せなかったのはおれたちもだ。おれたちが嫌がってるって思ってくれたんだろ?」
 嫌じゃない、とはっきりと念を押すとローはわずかに眉を下げた。
跪く﹅﹅ことだって、おれもペンギンも苦手だったのに、するっと出来て嬉しかった」
 ペンギンも黙って頷く。
「……そういや苦手っつってたな」
 そんなふうには見えなかった、とローは呟く。きっとローだからだろうな、とシャチは思っているがそれを伝えるのは今更気恥ずかしい。
「でもなんか、“待て”だけすげェ怖くてさ。胸がぐっと締め付けられそうで息ができなくてさァ。な、ペンギン」
「そう、だな」
 思い出すと背筋に寒気が走る。息苦しいような、見捨てられるような焦燥感はいままでのそれの比では無かった。
「こわい? さっきも待つのは嫌って言ってたな……”待て﹅﹅“がダメなのか」
「嫌だ、うん、嫌だった……。もう待ったもんおれたち……もう、待つのは……」
「落ち着け、今のはコマンドじゃねェし、もう待たなくていいか……ら……」
 自分たちを宥めていたローの言葉が唐突に途切れた。何かを考えている沈黙の後に、繋がれていた手が離れる。その様子に思わず彼の様子を窺う。
「キャプテン?」
「……そう、か。だからか。クソッ馬鹿かおれは……」
 両手で目元を隠すように覆ったローが呻く。
「やっぱり……おれのせいだ」
 呻くような声には懺悔めいた色が滲んでいた。
 ローはおもむろに身を起こす。その間際に見えた横顔が悔恨の色に染まっていて、ぎくりとする。
 シャチもペンギンもローが一体何に気付いて傷ついているのかてんで分からない。
 けれど、いつだって我が物顔で海を往く自分たちの王様のそんな背中を放っておくことは出来なかった。
 殆ど反射のように跳ね起きたペンギンがローの背中を励ます。
「そんな顔するなよ、何か分かったら言ってくれ」
 シャチも上半身を起こしてローの顔を見上げる。何か考え込んでいる顔でローは二人を見ている。
「ローさん?」
「……もう一回、プレイしてもいいか。試してェことがある」
 ペンギンと顔を見合わせる。ペンギンがこくりと頷いた。
「いいよ!」
「キャプテンがいいなら」
 ローが頷いて立ち上がる。先ほどと同じように自分たちがベッドの前に立ち、ローは離れたソファーの前に立って向き合う。
「……少しキツいかもしれねェ。セーフワードは限界になったら使え。おれもなるべく使わせねェように気をつける」
「アイアイ」
「セーフワードはさっきと同じで良いな」
「良いよ」
 淡々と話しているのに、ローの緊張がわずかに伝わる。
 彼の指がパチンと鳴る。
「……二人とも”跪け﹅﹅“」
 すとん、とまるで自分の体が彼のものになったかのように膝が折れる。片膝で床に跪く二人に、ローは神妙に頷いて”良くできた”と囁く。
「ペンギン、シャチ」
 彼の目が自分たちの視線を絡め取る。揺れ動く光彩まで見えるような錯覚の中、眉を顰めて苦しげな顔をしたローが”命令”を下す。

「”待機﹅﹅“だ、おれが戻るまで……待ってろ」

 バチ、と目の前が白く爆ぜた。
「あ゛……!」
 自分かペンギンか分からないあえかな音が喉を揺らした。
 覚えている。思い出した。
──待機、だ。おれが戻るまで。ゾウへみんなを連れて……待ってろ
 同じ言葉を聞いたことがある。
 ローがパンクハザードに残ると言った日だ。
 行ってくるとも、帰るとも言わなかった船長に二人で食い下がって漸く引き出した言葉だった。突き放すような声のそれを、彼がそもそも言うつもりも無かったのだろうと分かっていた。
 背筋が凍るような恐怖。頭の中をぐるぐると渦を巻く焦燥感。目の前が暗くなるような喪失感。全部が全部サイクロンの中に放り込まれたように自分たちを襲う。跪いた姿勢を崩さないようにする意識と、地面の上下左右さえ覚束ない感覚が乖離してクラクラとする。
「あ……ッう゛……」
「……ッ、……あ゛」
 明滅さえしているような視界の中でローを見上げる。彼もまた、海の中に居るような顔をしていた。
 頬を伝うのは一体なんだろう。
 荒い息が自分の息なのかももう分からない。ただ一つの思考がシャチの頭を占める。
 早く、早く、早く──帰ってきてくれ。
「ロー、さ……」
 ペンギンがローから目をそらしかけた時、ローの鋭い声が飛ぶ。
「”もう良い﹅﹅﹅﹅“!」
 その言葉が耳に入り、頭に届くよりも前に体が傾ぐ。
 シャンブルズよりも早いんじゃないかと思うほどの速さで、ローが床に崩れ落ちる前の自分たちを抱き留めた。ぐっとたくましい腕が自分たちを強く抱擁する。
「もう待たなくて良い。……待たせたな。良く待っていてくれた」
「うん……」
 おそるおそる伸ばした手が彼の肩に触れて彼のハートの刻まれた背中にすがりつく。逆側の肩では、ペンギンが彼のタンクトップの袖を握りしめていた。
「ローさん……待ってたよ」
「ああ。待たせたな、ペンギン」
「……みん、みんな、無事だよ」
「ありがとう、シャチ」
 噛みしめるように囁かれる言葉の一つ一つが自分たちの焦燥や恐怖や喪失感を解かしていく。代わりに生まれるのは安心感と熱い炭でも飲みこんだのかと思うほど熱くなる胸だ。
 ぐす、と鼻を鳴らす音がして彼のタンクトップの胸元を濡らした。
「……ああ。待たせた。ありがとう。よく、一人も欠けねェまま、おれを待てたな。良くやった。さすがはおれのクルーだ」
 ぐしゃぐしゃにかき混ぜるようにローの手のひらが自分たちの頭を撫でる。
「良かったァ……」
 ほう、と息を吐いた音がして、頬を赤くしたペンギンがくったりとローの肩に額を押しつけた。シャチも子どもの頃のようにローに抱きつく。ペンギンと目を合わせて、ずっと言いたかった言葉を掛ける。
「おかえり、ローさん」
「……ああ。ただいま」
 ローは一瞬驚いた顔をしたあと、くしゃりと珍しいほど無邪気な笑みを浮かべた。
 良かった、帰ってきた。おれたちはちゃんと待てたんだ。
 暖かな湯に浸かっているかのようにじわじわと染み渡る安堵感と幸福感が、先ほどまで冷えていた体を温めていく。
 ほーっ、と胸の奥から熱い息を吐いた、その瞬間シャチはびくりとローの肩にすがりついた。
「あっ……?」
気が抜けたのが良くなかったのだろうか?バチバチと頭が真っ白に弾けて、視界が明滅する。先ほどまでじんわりと体を温めていたものが、燃え上がって甘い心地よさでシャチをの頭を白く焼く。
 熱い静電気が絶え間なく流れているように体がビクビクと震えた。
「ひ……ッ?」
「どうした?」
「えっ、あれ!?」
 シャチの反対側で、ペンギンも目を丸くしている。
 お互いに目を見合わせて、カッと顔が熱くなる。ペンギンの真っ赤に染まった目元が見たこと無いほどとろとろとしていた。たぶん、自分もだ。
「お、おい、どうした」
「わ、ッ、わかんな……ッ」
 ペンギンが大慌てで首を振る。自分も一体自分に何が起こっているのかとんと見当が付かなかった。それでも深刻になりきれないのは、お湯に浸かっているかのような心地よさのせいだ。
「なにこれぇ……っ? あ、ッあたま、ふわ、ふわ、する……っ。まって、ローさ、見ないで……」
 恥ずかしさにローの目を隠そうとした腕を取られる。
 一瞬狼狽えたローは、シャチの顔を見た途端にニヤリと笑って自分たちの手を引いてベッドに上がる。導かれるようにベッドに這々の体で乗り上げて、シーツに溺れる。
 はふはふと息継ぎをしながら震える自分たちを両脇に侍らせ、両足を投げ出したローがとんとんと背中を叩く。
「だ、だめだってローさん、これなんか、変ッ」
「なんで我慢してるんだ。いい子にしてたんだから。なァシャチ、ペンギン……、おれを信じろ」
 くつくつと満足そうに喉で笑いながら、ローの囁き声が耳元で響く。
 何を今更!とあげようとした声が喉の奥で上擦って掠れる。
「ひァっ♡」
 上ずった声がシャチの口からこぼれる。慌てて口を押さえてももう遅かった。
「ンッ♡」
 シャチの失敗を参考に口を押さえたペンギンの声もまた甘ったるくなっている。
「な、なにぃ……?」
 耳慣れない甘ったるい声が部屋に転がって、恥ずかしさに余計に顔が赤くなる。だというのにローは随分と楽しそうに自分たちを見つめていた。
「おれを見ろ﹅﹅
 柔らかな指示が自分たちの視線を絡め取って離さない。
 今更、この人以外誰を見るというのだろう。
 指示に従ったペンギンとシャチの二人分の視線を彼の視線が悠然と絡め取る。彼の灰金に揺れる目がうっそりと細められて、まるで喉をならす豹のようだった。
「ペンギン、シャチ。良い子だ」
「あい、あい……♡」
 褒められて髪を梳かれる。頬をタトゥーの入った手の甲で撫でられ、喉や耳をくすぐられる。
 めいっぱいに彼に褒められている。
 そのことを実感する度に、頭の中がとろけてふわふわしていく。吐息も声も自分の喉からしているのが信じられないほど甘ったるい。一時間でも水の中で息を止めていられる自分たちが、まるで陸に上がった魚のようだ。
「なにこれ♡ しらなっ、しらないぃ♡」
「これなに、なに?♡んん〜〜っ♡」
「ほら、入ってこい。おれはここにいる。大丈夫、大丈夫……可愛いことしてんなお前ら」
 楽しそうなローの声に導かれるように、とぷんと一段、何か深い場所に落ちていく感覚がシャチを襲った。すがりつくローの背中、その背中越しに繋いだペンギンの手を握る。
 それさえあれば世界の全てがこの手にあるような喜びと、幸福と、安心感。ワンピースとは実はこれのことじゃあ無いだろうか。
「ばーか、スペース入った位で大げさだ。ほら、ゆっくり息しろ……」
「う、うん♡ でもおれこれ、はじめてでさァ……っ♡」
「……そりゃシャチ、お前らにとっておれ以上のDがいねェからだ。これからは覚えてろよ。ペンギンも……泣くなよ」
「うれし、あっ♡ ローさ、んッ、ロぉさん……っ、いる?」
「ああ、おれはここだ」
 ローが小さく呟いて、何もかも投げ出すような深い息を吐いた。
 そのままベッドの海に三人で身を投げ出す。体を触れあわせたままふわふわとした自分たちを抱え込むようにして囁く。
「……此処にいるよ」
 ローの小さく祈るような声が聞こえたと同時に、シャチはすこんと眠ってしまったらしかった。

※※※

「悪かった……」
 ペンギンが目を覚ますと、目の前のソファーでローがうなだれていたので驚いた。
 いつかベポが楽しみにしていたかき氷のトッピングを全部食べてしまったときでもこんなに憔悴していなかった気がする。
 聞けばパンクハザードで別れるときの言葉が、随分と強い”命令オーダー“になっていたことを説明される。命令不足ではなく、ケア不足だったらしい。
「……お前らを殺すところだった」
「そんな大げさな」
「おれたちが無理矢理言わせたようなもんでしょ」
「だが、あれがおれの……」
「ローさん、アンタの所為だけじゃねェだろ」
 生まれて初めてのスペースでふわふわとしたまま、項垂れるローをシャチと二人がかりでベッドに引き倒す。
「ベポなら『おあいこだね』って言うぜ」
「……ふっ」
 シャチのお得意の声真似にローが漸く笑みを浮かべる。
 ペンギンがシーツにころがったまま、ローを見上げる。
「キャプテン、来てくれて嬉しかったよ」
「……おう」
「もういいんだろ?」
 もう、自分たちを置いて行く用事は無いんだろう?
 自分への返事の代わりに頭の上にぐりぐりと手を置かれて押し込められる。
「いててて!」
「いっでェ!」
 つむじを押されて悲鳴を上げながら見上げると、少し顔を背けた彼の耳の先がわずかに赤い。
「本心だったから、”命令”になっちまったんだ」
 シャチと目を見合わせて、それからまたローを見上げる。じわじわとタンクトップのうなじが赤い。つられてこちらも頬が熱い。
「もう離してやれねェからな、お前ら。いやだっつっても、おれの艦からは降ろせねェし、もう二度と他のやつの命令は聞かせねェ。お前らの船長は誰だと思ってやがる!」
「望むところだ!」
 シャチとともに元気に拳を上げる。ローは耳とうなじを赤らめながらも、フンと鼻をならして見せた。