SKELTON IN THE TOYBOX 一話

一話 A bolt out of the blue青天の霹靂

 

Oh, Timothy!! I miss youああ、ティモシー! 会いたかった
 無垢な少女のような笑みを浮かべて、そのひとはティムをすっぽりと両手に抱きしめて涙を浮かべた。
 薄い金色の髪を長く背に靡かせて、その瞳は夢見るように蒼く濡れている。いつも隣でみている相棒とよく似た色彩の女性は、ティムを抱きしめて離さない。
 白昼堂々、平和な高校の下校中に起こった椿事はひどく衆目を集めた。
「あ、あんた誰?」
 いきなり妙齢の女性に抱きつかれたティムは当然のように尋ねる。共に帰る途中だったザ・チルドレンの四人と松風。火野たちパンドラの面々、それから東野と花井といったいつものグループの面々がぎょっとその女性に足を止めた。
「覚えてマセンか? ワタシ、あなたのお母さんヨ!」
 コメリカ訛りの日本語で発した衝撃の言葉に、ティムだけではなく自分も、他のメンバーも言葉を失った。
「は? はぁ……?」
 あまりの言葉にティムは呆然と呟き、眉根を寄せてその人を見上げる。ティムに両親は居ない──居ないことになっている。
 バレットとティムにはザ・チルドレンに救われた日より前の記憶はない。東野と花井以外は知っていることだ。
 漸く彼女の言い分を理解したティムの顔がさっと憤りに染まる。振り払って彼女を睨み付ける。
「冗談だろ! 一体なんだって──」
 ティムの動きを止めたのは、彼女の涙だった。振り払われたのがショックだったのだろう。はらはらと涙をこぼして、袖口で拭っている。その様子があまりに弱々しく、嘘泣きである様子にはどうしても見えなかった。
「……ティム、この人、嘘を吐いてるつもりはないみたい」
 さっと彼女の背を撫でるふりで接触感応サイコメトリーで透視した紫穂が困った顔で答える。
「本当に、あなたのことを息子だと思ってるわ」
 レベル7の紫穂がそう言うのなら、彼女は嘘をついていないということになる。彼女は本気で、ティムを息子だと思っているのだ。
「でも、その人ティムのことティモシーって呼んでたで?」
「ティムはティモシーの愛称よ」
 葵の疑問に、パティが答える。オタク趣味だと、ついつい愛称と本名の関係調べるよな、とバレットは内心で頷く。ジャンルは違えど彼女は同志である。
「あなたは一体……。どうしてティムのことを知ってるの?」
 悠里の詰問に、女性はふ、と息を吐いてスマートフォンを開いた。
「このMovieのナカにあなたがいたの」
 大手動画投稿サイトの中、映っているのは一ヶ月ほどまえの大規模災害の予知対策にかり出されたザ・チルドレンの様子だ。
 ザ・チルドレンの顔は分からないし、遠目の動画だが、その端、招集されて待機しているシャドウ・オブ・ザ・チルドレンが映っていた。待機任務で私服だったから良いようなもの、制服を着ている時だったらと思うと苦い顔になる。
 出動に関する動画を全部消してしまえれば楽なのだが、そうすると陰謀論やら反エスパー論者のいい的になるのだ。
「これだからパンピーのリテラシーはクソ」
「それな。半年ロムれ」
「毒吐きネットマナー三百個回れ」
 低い声でパティと吐き捨てる。顔の見えるものをネットの海に流すとろくな事が無い。バレットも心底同意して頷いた。
 それに加えて、彼女が胸元のロケットをあける。
──金色の髪、蒼い瞳の赤ん坊が白いおくるみに包まれてこちらを向いている。
 それを覗いたティムの顔が歪む。
「この子、ティモシー、あなた」
「……似てる、けど……」
 澪が呟く。
「なあ、奥さん。本当にティムがあんたの息子なのか?」
 東野が先ほどから黙りこくっているティムを庇うように肩を引いて前に出る。
 彼女は力強く頷いた。
「間違いナイわ! ああ、ティモシー……!」
 彼女は感極まったようにティムに抱きつく。バレットたちは顔を見合わせた。
 そのときに、ティムがどんな顔をしていたか、バレットはどうしても思い出せない。

***

 自分たちが特務エスパーであることを教えていない東野と花井には松風と帰ってもらい、バレットたちはとりあえず皆本に連絡をとった。
 流石に面食らった様子で皆本はすぐに帰ると答えた。
「とりあえず、君たちが特務エスパーだと知られているわけじゃないみたいだから、それは伝えないように。とりあえずうちに連れてきなさい。僕と賢木とすぐに向かうよ」
 皆本家うちがほとんどオープンスペースのようになっていることには誰もつっこまず、彼女をうちに連れて行く。
 流れでなんとなくパンドラの三人もいるのが困りものだが、今は人が多い方が良いだろう。
 駆けつけた皆本は彼女の訴えに困った顔をした。賢木も一瞬当惑しているように見えたが、流石にすぐに彼女に手をさしのべる。
「これは美しい奥様。もちろん、お話を聞きますよ」
「……君たちは席を外しておいで。ティム、君も」
 賢木が女性の気を引いている間に、皆本がバレットたちを子ども部屋に追い立てる。ティムは一瞬躊躇う様子を見せたが、皆本に背を押されて部屋に押し込まれる。
「……こっちに残したままってことは、話は聞いていいってことだよ」
 と、薫が呟き、子どもたちはおおむね同意した。彼らの会話は概ねコメリカ語で取り交わされていたが、幸いこの場は通訳に困らなかった。
──彼女の名前はイサベル・ムーア。普通人ノーマル。コメリカ首都郊外に住んでいる。夫は美術商であまり家に帰ってこない。十年前に超能力者エスパーだった息子を何者かに誘拐され、ずっと探していた。貴方たちが誘拐犯だと言うつもりはないが、息子を帰してほしい。
 彼女が涙ながらに訴えたことはおおむねそのようなことだった。
「ワタシはあの子の母親です。わからない筈がないでしょう!」
 彼女はどうにもティムを息子だと心底信じているらしく、DNA鑑定の依頼書まで持参していた。
「本気やん……」
「DNA鑑定ねえ」
 葵がおののき、カガリが肩を竦めた。白黒付ける事に怖れもないのだろうか。
「ティム?」
 悠里が気遣わしそうな声を掛ける。
 声がしないと思ったら、ティムは椅子の背もたれを抱えながら、ぼうっとした目でドアを見つめていた。
「大丈夫か?」
「ああ……うん別に。今更母親だって言われてもなあって思ってる」
「お前さ、あの人が本当に母親だと思う?」
 澪の問いかけに、ティムは首を傾げた。
「分かんないよ。俺、昔の記憶ないの知ってるだろ。黒い幽霊の手先だったころのことはぼんやりと覚えてるけど、それ以前はさ……」
 言葉を濁してティムは深く溜息を吐く。悠里がおろおろとしていたが、結局言葉にはせずに床に座り込む。
「あの人が親だったらさあ、アンタ、あの人と一緒に暮らすのかな」
 ぽつりと呟いたのはカズラだった。
「優しそうな人だけど」
「母親かあ」
 カズラに応じた澪がぼんやりと宙を見上げて呟く。
「ティムはどう思う?」
 薫に尋ねられて初めて、ティムは不審げな顔を露わにした。
「え、だって僕は……」
──ティム。こっちへ。
 突然差し込まれた皆本の声に、バレットたちは弾かれたようにドアを向いた。
 ぐっと、息を詰めてティムが立ち上がる。
「えっ、皆本たちなんて言ってた?」
「ごめんなさい、薫ちゃん……。聞いてなかったわ」
 パンドラの三人もうっかりした顔をしていたので、聞いていなかったのだろう。かくいうバレットもティムの様子を見ていてドアの向こうに耳を傾けていなかった。
「……はぁい」
 あ、とバレットは冷や汗が滲むのを感じた。大変不機嫌な声だった。この相棒が留守録を取り忘れていたときとか、最近よく聞くストレスが溜まって苛々している時の声だった。
──本当はめちゃくちゃ苛々してたんじゃないか、ティム!! ごめんな、そうだよな! 本当は今日帰りに秋葉原アキバ行く予定だったもんな!
 少しでも解してやろうと呼び止める前に、ティムはさっさと部屋を出てしまう。
「あ、あわわ……」
「ど、どしたんバレット」
「葵どの……その」
「あ、もしかしてティム……」
 葵にはかねてより相談していたこともあり、察しの良い彼女はバレットの様子に閃くものがあったらしい。
「こらあかん、様子を──」
 彼女がドアを丁度開いた瞬間に、地を這うようなティムの声が部屋の温度を下げた。
 ザ・チルドレンの前では絶対に見せない顔で、皆本を睨んでいる。バレットは飛び出してしまったが、ティムの剣幕に他の子どもたちは驚いて部屋の入り口にたむろった。
「その”お母さんマム“のところに出て行けって!?」
 ティムの低い声に、皆本が険しく眉間に皺を寄せる。
「そんな事は言ってないだろう」
「そうですかね」
「当たり前だ。君がしたいようにすればいいんだ。イサベルさんは、君を息子だと思っているのは確かなようだし」
「俺にその記憶はないって、知ってるッスよね」
「ティム、僕は何も無理強いなんてしようとは……」
「いいよ、別に」
 皆本に悪意などないのは、傍目に見ているバレットにも分かるのだから観察眼に長けたティムに分からないはずがない。
 それでも、最近のティムの様子はバレットから見てもどこかおかしかった。何かに追いかけられるようにデコイ作りに没頭したかと思えば、ゲームやアニメを見続ける。それで皆本に叱られると酷く嫌そうな顔をするのだ。
 それを察して皆本もティムに話しかける頻度が下がってきている。
 反抗期──そう決めつけてしまえば簡単だ。実際、ティムの年齢を考えればおかしくはない。
 だが、ティム自身が自分の衝動をコントロール出来ていないことがバレットには気に掛かった。
 皆本に反発した後は、酷く傷ついた顔をして余計に何かに逃避するようにのめりこむ。
 自分の中の何かと、彼は戦っていた。それは反抗期ともいえるものかもしれないし、彼自身の失われた過去や、自分たちの暗く汚い過去といえるものかもしれない。
 それでも彼が自分の中で何かと戦っているのを知っていたから、皆本も賢木も真正面から彼に向き合っていた。
「どうせ俺の事、いらないってアンタも」
「ティム!」
 様子を黙って窺っていた賢木がはっと声を上げてティムを叱責する。真剣な声がティムを諫める。その言葉が、皆本よりもティム自身を傷つけるナイフだと知っているからだ。
 水の中に落ちた子犬のような傷ついた色が一瞬ティムの表情を閃いて、すぐに無表情に変わる。
「ティモシー。お母さんのトコロに来るのはイヤ?」
 行き場を失ったティムの両手を包み、イサベルは完爾と微笑んだ。ティムはなんと答えることもなかったが、その手を振り払うことも無かった。
「イサベルさん」
 諫める口調の皆本に、イサベルは不思議そうに首を傾げた。
「母親ですもの、この子を一番幸せにできるわ」
 握った手を離さぬまま、イサベルは皆本と賢木を振り返る。コメリカ語のその口調はどこか勝ち誇っていて、挑戦的な視線を皆本に向けていた。
「私はティモシーを世界で一番愛してるの。いらない子だなんて絶対に思わせはしない、当たり前だわ」
 彼女のあまりな言葉にバレットは思わず皆本の顔を窺った。彼は黙ってその心ない謗りを受け止めていた。
 ティムは彼らのその顔を見て、顔を逸らした。
「お前……!」
「落ち着いて、薫ちゃん!」
 小学生の頃のような口調が思わず飛び出した薫を悠里が引き留める。三人の鮮烈な怒りの波動は物理的な圧力すら持ちかねないものだったが、普通人である彼女には暖簾に腕押しだった。
 白く細い腕が、皆本から顔をそらしたティムの頭を包み込んだ。
「一緒に暮らしましょう、私の愛しい子マイ・ベイビー
「…………皆本さん」
 視線を上げぬまま、ティムが尋ねる。皆本は小さく溜息を吐いて苦しい微笑を浮かべた。
「ティム、君はきみはどうしたい?」
 皆本のその言葉は、ティムを落胆させたようだった。
「やっぱり……こういうときでも、ここに居ろって言ってくれないんだね」
「……ティム」
 手を引く彼女に逆らわぬまま、ティムは床を見つめて呟く。その声には深い寂寥が滲んでいた。ぎ、っと皆本を睨めつけて吐き捨てる。
「行けば良いんだろ、出て行けばさあ!」
「ティム、待て、ちゃんと話を──」
 皆本の制止には耳を貸さず、逆にイサベルを引きずるようにティムはマンションを出て行く。
「学校には行くんだぞ! 夜更かしせずに、早く寝ろよ、ティム」
「分かってる!」
 ぱたん、とドアが閉まる。
 途端静まりかえった部屋の中、皆本が椅子を引いて座る。ロダンの彫像を思わせる表情に、軽々しく声を掛けることはできなかった。
「み、皆本。ティム、コメリカ行っちゃう?」
「いや……、DNA鑑定の結果が出るまでは国外には出ないように話をしてる。ムーアさんもそこまで衝動的ではないだろう」
「なんでティムを行かせちゃったの? アンタあいつの上司じゃないの? 勝手に家出なんてさせなきゃいいじゃん。あいつだって、そう言って欲しかったんじゃないの」
 澪の怪訝そうな声に、薫と紫穂と葵、そしてバレットが複雑な表情で苦笑した。
「何?」
「アタシたちは家族じゃないからさ。そういうの、難しいんだよね」
 どんな形であれ、内外共にこの繋がりを”家族”と当てはめるパンドラにはぴんとこない話かもしれない。家族だから、と許されることも、許されないこともあるだろう。
 自分たちは未成年特務エスパーの保護観察をかねて同居しているだけの、現場運用主任と、その部下の特務エスパー。自分たちが互いにどう思っていようと、その繋がりは脆くて薄い。

 重苦しい空気を裂いたのは、賢木の明るい声だった。
「……ほらほら、薫ちゃんたち。そろそろ家に帰らないと夕飯食いっぱぐれるぜ!」
「センセイ」
 薫の縋るような声に、賢木は気安く笑う。
「な?」
──今日のところは、帰った方が良い。
 子どもたちは顔を見合わせた。
「帰ろ。カガリ、カズラ、パティ」
「ええ」
 澪を皮切りに、パンドラの面々がお邪魔しました、とベランダから去って行く。
 いつもなら玄関から出ろ、と威勢良く掛けられる声が力なく後ろから追いかけた。
 ザ・チルドレンの薫、葵、紫穂が小さく見える背中を叩く。
「元気出して、皆本さん。私達はティムの気持ちも分かるけど、皆本さんの気持ちも分かるわ」
「せやせや。あんまり落ち込んどったらティムも帰ってきにくいやろ」
 皆本は落ち込んでない、と呟いたが、その力なさの方が余程雄弁だった。
「……皆本」
 超能力で浮いた薫が皆本の背中に上からのしかかる。
 重い、と皆本の口から文句が零れた。
「……アタシたちはみんな皆本に救われたよ。皆本みたいな大人に会えたのは、アタシたちの一番のラッキーだった」
 紫穂と葵が照れくさそうに同意する。
「それだけ、それは忘れんなよな」
 そう言い捨てて、ザ・チルドレンの四人は葵のテレポートで姿が消える。
 残ったのは、皆本とバレット、それから賢木だった。
「……皆本さん、聞いて良いですか」
 賢木が勝手知ったるキッチンで珈琲を淹れはじめ、バレットは漸くソファーに腰掛けた。
「うん」
「……なんであの人と一緒に行かせたんですか?」
「バレットも、ティムを無理矢理にでも行かせない方がいいと思ったかい?」
 頷く。薫の言うように、ただの現場主任には難しいことなのかもしれないが。
「ここに居ろ、って言ったやった方が良かったように思います」
 ティムはきっとそう言って欲しかったのだ。
「……そうしたら、命令になるだろう?」
 賢木から珈琲を受け取って、皆本は黒い水面に視線を落とした。自嘲気味に笑うのは、この人には珍しいことだった。
「僕は君たちの上官で指揮官だ。僕が言えばきっと君たちは従うだろう」
 それは、ザ・チルドレンも影チルも分かっていることだ。それでも、と思ってしまうのは甘えだろうか。
「……皆本さんは、ちょっと俺達にスパルタですよね」
 バレットの好きな酸味の強い珈琲の香りが鼻を擽って、口元が微かに弛んだ。
 つられて皆本が苦笑する。
「そうかな……」
「皆本さんの言いたいことは分かりました。俺たちにはちょっと難しいですけど」
「あの人が、本当に母親でも、そうじゃなくても、ティムに”家族”をくれるのは間違い無いからな……」
 賢木が自分のマグで珈琲をすすりながら、軽く手を振る。最初にイサベルに握手をしたときにでも透視んでいたのだろうし、三人で離しているときに、そう確信する何かがあったのかもしれない。
「あの人がティムに向ける感情は、何処にでもある母親としてのそれだよ。我が子への愛ってやつだな。それが本物だったから……」
 賢木が口ごもって溜息を吐く。
 だからこそ、彼らは強く彼女を強く突っぱねる事が出来なかったのだろう。この女性が、ティムに家族を与えるに足る人間のだと、賢木は透視よんでしまった。接触感応能力者サイコメトラーのそういうところは、同じ超能力者の中でも随分と生きにくそうだと思う。
──それでもティムはきっと、命令で以てここに居ろと言って欲しかったのだ。
 バレットも同じだから分かる。自分で自分の居場所を定めるのは、自分たちのような人間にはとても難しい。命令だからここに居ろと言われることがどれだけ優しいことだろう。
 だが、彼らはそれ以上を望んだ。
 宛がわれた揺籃から出て、自分で選ぶ時期にさしかかっているのだ、自分たちは。
 居ても良い場所を、居場所を、ティム自身が選び取れと告げる。自分たちはここで必ず手を広げているから、と。
 自分で自分の居場所を選んで良いと。
 あまりに厳しく、容赦が無いのに、優しくて、力強い肯定だった。あまりに眩しくて、幽霊の子どもが怖れてしまうような。
「あ。俺宿題しないと……」
 ぐ、っと目元が熱くなりそうでバレットは顔を背けて逃げるように部屋に戻った。
「夕飯が出来たら呼ぶよ」
「はい」
 少し鼻声になっていたのは、きっと聞こえなかっただろう。

**  

「バレットはもう寝たかな」
 夕食を終えて暫く。食器を片付けながら皆本がふと呟く。バレットの部屋からの音が途絶え、皆本が漸く口を開いた。透視してみれば、バレットの睡眠時のバイタルを感じる。
「ねてるよ。ぐっすりと、な」
「そうか」
 ふ、と息を漏らして、皆本はゆっくりと動く。手元を拭いながら賢木の横に腰掛けた。
 その表情。
 大人として格好を付けたい子どもたちには絶対に見せない、弱りきった表情に賢木は眉を下げた。自分より二つも年下で、まだ三十にも満たない青年は、それでもその天才的ギフテッドな頭脳でもって保護者をしている。
「……よく我慢したな」
 肩を労ってやれば、ぼろ、と皆本の目元から堪えきれなくなった水塊がテーブルを濡らした。
「なんで……」
 彼の喉奥から言葉にならない嗚咽が漏れた。
──なんで、僕は彼が望む言葉をかけてやれないんだろう。黒い幽霊ブラック・ファントムに操られていなかったら、あんな風には。
 自責、義憤、悲しみ、慈しみ、そんな感情がぐるぐると皆本の身体に沸き上がって渦を巻いている。肉の器をはじけ飛ばしそうな激情を、彼は歯を食いしばって押さえつけている。
 命令でもって居場所を与えられることに安堵してしまう子の歪さを、皆本は泣く。
 これが初めてではない。
 失われたはずの記憶の残滓に、彼らの不遇を垣間見た折に、堪えきれぬ情動が襲った。
 人の闇を人の何倍も見てきた賢木でさえ、弟分と思う彼らの境遇へ、憤りと憐情で気が狂いそうになるというのに、この優しく賢い男がそう思わぬ訳もなかった。
 賢木もまた、今日の騒動は随分と堪えていた。
「飲むか?」
「明日に差し障るからだめだ」
 でも、もう一杯珈琲を淹れてくれ。
 皆本は目元を拭いながら顔を上げた。悲憤から切り替えることにしたらしい。
「彼女の事を少し話たい。DNA鑑定の結果が出るのは七日後だ」
「そうだな。……Mr.ムーアにも連絡つかねえみたいだし」
「あの人の言い分が本当であれ、間違いであれ、僕らは準備をしておかないと」
 ず、と鼻をすすり上げながら呟くので全く格好は付かないが、賢木は見ない振りで応じた。

**

「可哀想に、バレット。また胃を痛めんとええけどなあ」
 髪を乾かしながら溜息を吐く葵に、薫が首を傾げる。
「バレット?」
「最近、ティムが皆本はんによう突っかかるんやって」
「最近頻繁にやりとりしてたの、もしかしてバレット?」
 悠里が神妙な顔で尋ね、葵が頷く。
「おん、相談乗っててん。似たような子が多いから、パンドラにも聞いとるみたいやけど」
 テレポートでスマホを取り寄せ、届いたメッセージに眉根を寄せる。
「皆本はんも賢木センセイもだいぶ堪えとるみたいやな」
「あの人達、基本甘やかしたがりの頼られたがりだものねえ」
「ティム、今ごろ何してるかなあ」
 薫が遠くを見上げる。
「お母さんって名乗られても、今更よね」
「あの人の愛情自体は本物だったから、私も賢木センセイも何も言えなかったのよ」
「お母さんよって、名乗られても知らない人なのに……。知らない人と勢いで出て行ってしまって大丈夫かしら、ティム」
 悠里の疑問には、ゲームにログインした薫が応じる。
「あ、でも今日のクエスト、バレットもティムも来てるよ?」
「……あんまり心配しなくてもいいかしら?」
 紫穂は少し呆れたように呟いた。

**

「なんか、ティムのやつ最近ツレねーよな」
 と、駅前のベンチで東野が紙パックのジュースを啜りながら口を尖らせた。
 今日は帰りにゲームセンターに遊びに誘ったのに、また今度な、と断られてしまった。ティムに断られてゲームセンターに行く気が削がれ、東野とカガリとで駅前広場にたむろって居る。
 ティムが家を飛び出してからずっと、バレットともあまり話せていない。
 超度七レベルセブンの特務エスパーの緊急出動が必須の任務も最近は少なく表向きは平和だった。シャドウ・オブ・ザ・チルドレンの出動もない。
 いっそ任務があれば無理矢理にでもティムと話ができるのに。
「……そう、だな」
「だろうな」
 バレットが歯切れ悪く呟き、カガリが応じる。
「あの”母親”のところに今居るんだろ? この間から」
「うん……」
 はあ、とバレットは思いっきり肩を落とした。
「ど、どうしたよ」
「相棒が自分に頼ってくれなくてショックなんだと」
「あーね」
 東野は同情を湛えた表情でバレットの肩を叩いた。
「三宮たちもそうだけど、お前等も仲良いよなあ」
「……そう見えるか?」
「趣味一緒なんだろ? アニメとか漫画の話してるときめっちゃくちゃ楽しそうだぜお前等」
 朗らかに東野が笑う。
「ま、頼ってくれなきゃ寂しいってちゃんと口で言えよ。言葉しないで伝わってるって思っちゃうの、良くないもんな」
「なあそれ、花井さんとの実体験か?」
 日直当番から追いついてきた松風が嘴を挟む。くすくすと笑いながら聞かれた東野は、うるせえ! と顔を赤らめる。カガリがしみじみと頷いた。
「……お前、たまにめちゃくちゃ格好いいよな……」
「俺はいつでも格好いいだろ?」
 胸を張る東野が妙に眩しくて、そうだな、と三人で口を揃える。三人でからかっていると思ったらしいが、正直、普通人ノーマルでそう思えるこいつが一番格好いい気がする。彼女が精神感応能力者テレパスであるからこそ、そう言えるのだろう。
「皆本さんの料理、そのうちフレンチのフルコースになりそうなんだよな」
 皆本の癖を知っている松風が苦笑する。カガリと東野は首を傾げた。
「でもほら、家族なんだから、遠慮しすぎも良くねえよ」
「でも、血が繋がってるわけじゃないし」
 東野がぴくりと眉を上げた気がしたが、彼は何も言わなかった。
「うちだって血が繋がってる方が珍しいぜ? でも少佐のことも、澪とか葉兄たちのことも家族だと思ってる。俺が思ってるからそうなんだって──俺こないだも言ったな?」
「ああ、言ってたな。大事なことは二回言うってやつだ」
「たまにパティと同じようなこというよなお前」
 パンドラのメンバーで相談するといえば、やはり同性だし年の近いカガリが話しやすかった。
 何回か相談に乗ってもらっているが、そのときにも似たようなことを言われた。
「もう、六日か」
 松風が呟く。
「明日には、コメリカの研究所から結果が返送されてくるよ」
 彼が自分で決めた道を、バレットも尊重するつもりでいる。
 けれど、もし、コメリカの両親の元に行くというのなら、バレットはそれを歓迎することができるのか不安だった。
 それに、不安な事はもう一つある。
 彼があまりに静かなことだ。
 紫穂が透視しようとして、やんわりと止められたらしい。高レベルのエスパーであるティムの思考は、リミッターのついている紫穂の透視を阻んだ。
 そのときのティムの表情が、少しだけ黒い幽霊ブラック・ファントムの人形だった頃を思い出させてバレットの不安を煽った。
──何を、押さえつけているんだろう。それを伝えてほしいと、俺は言うべきだったんだろうか。
「ティム、どうするつもりなんだろう……。俺は何をしてやれるんだろう」
 ぽつりとバレットの口から零れた言葉に、友人達はその背を叩く留めた。
 それを聞きとがめた人間がいた。
「いま、ティムと言ったかい!!」
 片言の日本語で、バレットの肩を掴んだのは、シルバーブロンドに仕立ての良いスーツを着た、青い目の男だった。

 

二話に続く

2022年6月7日