じゃああと千年生きていて

 ついこの間に故郷へJターンした友人からのヘルプメッセージにドラルクは細い顎を摩った。半分は依頼で、半分は近況の報告だった。書きぶりをみれば大変困り果てているというわけではないようだが、高等吸血鬼に困っているとは穏やかではない。
 ドラルクの思案顔をよそに、口元の飴玉を揺らす壮年の男が目を細めて笑っている。
「久しぶりだよなぁ、ショットに会うの」
「最後に会ったのは君が転化する前だもんねえ」
 ジョンが頷く。
「転化したことは伝えてるけど、ショットにはなかなか直接会いに行けなかったからな」
 福井と新横浜は割と遠い。福井の吸血鬼退治人組合ハンターズギルドでマスターをしていた忙しい彼がこちらに来ることも、こちらから福井に出向くこともなかなかできなかった。

 

 その不義理を気にしていなかったと言えば嘘になる。ロナルドはすっかり出向く方向に考えを固めている。ドラルクも文句はない。
「ショットには世話になったしさ」
「そうだね」
 ぽり、と頭を掻く男は照れたような顔をする。その耳は尖り、飴を挟むのは白い牙である。表情は歳を重ねた余裕を含んでいるのに、張りのある皺のない顔。銀の中に白髪の交じっていた髪は鮮やかに銀の艶を取り戻している。
 このアンバランスな姿を見る度に、ドラルクの心に暖かなものが満ちる。共に過ごした時を包括した彼と、これからも過ごしていける安堵にも似た喜びだ。
 彼が──吸血鬼退治人バンパイアハンターロナルドが吸血鬼に転化して、つい先日一年が過ぎた。
 転化による後遺症も殆ど見られず、御真祖のお墨付きで以て竜の一族へと迎え入れられた。
 父母に手伝ってもらいながらの手続きや様々なものを終えて、漸くロナルド吸血鬼退治人事務所の再会の準備を始めるかと相成った矢先の、ショットの依頼。
「そうだね。丁度良い機会になるのかな」
 ドラルクは携帯をスワイプして返事をする。
「ショットさんのお見舞いに行こうか」

 

 

 

「本当に若い時のロナルドじゃん! 無事に転化できたんだな、おめでとう」
 闊達な老人の笑い声が病室に響いた。
 福井駅からほど近い病院は吸血鬼専用の面会時間を設けており、事前に申し込んでいた二人と一匹はスムーズにショットの部屋に案内される。
 三階の東向きの個室。
 ノックをして、招かれて入る。ドラルクもロナルドも、招かれなければ部屋に入れない。転化したての真新しい血のロナルドは特にそうだ。
 吸血鬼に転化したての人間は吸血鬼の特性が鋭敏になる傾向があると母や女帝から聞いている。年経るごとに克服したり落ち着いたりと折り合いをつけていくそうだ。
 カーテンの掛けられた窓際にベッドがある。案内されたそこには入院着を着たショットがベッドの上で上体を起こして二人を待っていた。点滴の刺された腕がベッドの上に投げ出されている。
「あ、ああ。ありがとな」
 ロナルドがなんとか返事をするが、二人は入り口で立ちすくんでいた。
 ベッドと入り口までは十歩もない場所で動かない二人に、ショットが苦笑する。
「悪いな、わざわざ来てもらっちまって。あ、こっち座れるぞ」
 覚えているよりも随分皺の増えた顔。しゃがれ掠れて低くなった声。それでも昔と変わらぬ気安さで二人と一匹を手招く。
 窓際に丸いすが据えられていた。
 彼の口調に福井のアクセントが滲んでいて、新横浜の退治人だったときの彼との違いをまざまざと突きつけられる。
「おう……」
 おそるおそる、といったようにロナルドが歩を進めようとして、首を振る。
「いや、無理だろ」
「ほっといていいぜ」
「いや、寝てんの?」
「寝てません」
 そこで漸く第三者の声が挟まれる。さらさらと長い金色の髪をベッドに広げ、ショットの手を握っていた男の高い声だ。鼻声でかすれている。顔をショットの腹のあたりの布団に押しつけて喋るのでくぐもって聞き取りにくい。
 ドラルクたちが入り口で立ちすくんだのも、この先客がいたからだ。
「なんで此処にいるんだよ、へんな」
 ドラルクは一瞬奥さんでもいたのかと思ったが、よく見れば見慣れた──何十年かの付き合いで多少見慣れることになった──吸血鬼の後ろ姿だった。
 吸血鬼へんな動物こと、フォン・ナ・ドゥーブツ。
「退治依頼ってこいつのことかよ!」
 小声で叫ぶという器用な真似をして、ロナルドが漸くそれに言及する。がばりとベッドから漸く顔を上げた男が澄んだ紅い目を丸くする。目の端が赤いのは泣いていたからだろう。
「退治ってなんですか!」
「お前以外にいるかよ」
 ショットがため息を吐いて金髪の美青年の頭を叩く。
「ひどいっ」
 そのままショットが困った顔でドラルクたちを見上げる。
「こいつ、シンヨコに連れて帰ってくれ、ってのが俺の依頼だ」
 ドラルクは少しばかり口を閉じて同胞とそれにまとわりつかれる友人を眺めた。
 老境を越え、既に福井の退治人組合ハンターズギルドのマスターも後任に譲ったとと数年前の年賀状で知った。彼が新横浜を飛びまわっていた時の事などまるで昨日のことのように思えるのに、自分と彼の間に流れる時は異なっている。
 それは当然だというのに、ドラルクはいつまで経っても慣れない。
 ドラルクたちは二人と一匹で顔を見合わせた。
フォンはショットの言葉に涙を散らして噛み付いた。その宣言を、ドラルクはさして驚きもなく受け止める。
──まあ、そういうことだろうな。
 ドラルクとしては、彼が此処にいる時点で予想できたことだ。

「ショットさんが吸血鬼に成るって言ってくれるまで帰りません!」

「はぁ!?」
 一人驚いたロナルドの素っ頓狂な驚愕の声と、ショットのため息が重なる。ドラルクとジョンは顔を見合わせて眉を下げた。
「何言ってんの、お前!?」
 ロナルドの純然たる疑問に、フォンはさめざめとすすり泣く。嘘泣きではないので、ロナルドはぎくりと戦いた。彼がこうまで──エッチなこと以外でという但し書きは付くが──感情を露わにしているのは本当に珍しいのだ。
「ショットさんが吸血鬼にならないって言うんです」
 ねえ、ショットさん、とショットを見るフォンにショットはほとほと困った顔で応じる。
「そりゃ言うだろ。急に。吸血鬼になるつもりはねえよ俺」
「何でですか! 私の血族になったら変身し放題ですよ!」
「お前見てて変身し放題って思わねえよ」
「うちだってわりと古い血の家ですし、絶対不自由はさせません。ロナルドさんだって竜の一族になったことですし、いいじゃないですか」
 フォンの手がショットの皺だらけの手を握る。美男子が、老爺にさめざめと泣いて縋る様子はまるで古い映画の一幕のようだ。
 そこで、ドラルクは漸く隣の男があまりに静かであることに気が付く。丁度そのときに、ずっ、と鼻を啜る音がした。
「ヌヌヌヌイヌ、ヌヌヌヌヌン」
 横を見れば、ジョンが小声でロナルドを慰めている。
「ロナルド……?」
 ドラルクと同じようにショットもロナルドの様子に気がついて苦笑する。
「どうしたよ、泣くなって」
「ショットも吸血鬼になろうぜ……」
「んん……?」
 べそべそと鼻声で非常に聞き取りにくい涙声でショットの入院服の袖をロナルドが握る。
「いいじゃん、俺も一緒だし……。ショットぉ……」
 ショットがぎょっとしてロナルドの顔を手ぬぐいで拭う。
「止めろロナルド、どんどん若くなるな」
 変身能力の暴走なのか、ドラルクも見たことのない若い少年と青年の間くらいの姿のロナルドがべそをかいてフォンと逆側に縋る。
「ああー、これもしかして逆効果だった?」
 ショットが両脇に美男子を侍らせて泣かせながら、ドラルクに助けを請う。
 見た目だけなら、シルバーグレイの色男が金銀の美青年を両脇に侍らせている非常に耽美な光景だが、ショット本人は困り切って冷や汗を垂らしている。慌てているのか、よしよしと頭を撫でて泣き止ませようとしているが、その様子にジョンまでショットの薄くなった胸もとに縋り始める始末である。
「吸血鬼って執着心の擬人化みたいなところあるからね。転化したてだとねえ。まだ魅了チャームはしてないみたいだから安心して」
「まだ……?」
 転化したての吸血鬼が吸血衝動を抑えきれなかったり、変身等の能力が暴走したりするのは当然周知の事実だが、実のところはそれだけではない。今のロナルドのように吸血鬼特有の執心が暴走することとてもちろんある。今ならロナルドの靴下を奪ったら苦しむ事だろう。
「なあドラルク、分かってたなら……」
「いや、私だって吸血鬼だし。同胞が増えるのは大歓迎だが? 特にショットさんなら異論は無い」
 ぎょっと目を開くショットにドラルクは肩を竦めた。
 むしろ、そこに思い至らないショットの方が薄情なのではないだろうか。数十年来の友人だと思っていたのは私だけかね、と皮肉を言えばショットが絶句する。
 さめざめと泣いているロナルドの髪とジョンの頭を交互に撫でてやりながら、二の句を継げずにいるショットを見つめる。
 人間とは、どうして吸血鬼の執着を甘く見るのだろう。
「なので私も立候補しようかな。今ならロナルド君の弟だね。竜の一族もドゥーブツ家には負けず劣らずだと思うよ」
「おいおい……」
「だめです……」
 鼻を啜り上げたフォンがショットの腕を握る手を強める。
「ショットさん」
 涙に潤んだフォンを呆然と見つめて、ショットは観念したようにため息を吐いた。
「泣くなよ、へんな」
 白磁の頬を伝う涙を拭って、縺れて絡まった金色の髪を手で漉く。孫をかわいがる人間の仕草だった。ロナルドの肩も叩いて顔を上げさせる。ジョンがドラルクの腕に戻る。
「お前が嫌いで断ってるわけじゃねえのは分かってるだろ?」
 へんなが頷く。
「熱中症で入院してるってSNSで流したらすぐにお前がとんできて、吸血鬼になってくれ、って急に言うからさ」
 そんな感じだったのか、とロナルドと顔を見合わせる。それはショットも驚いたことだろう。
「ロナルドも。急に決めらんねえのはお前も分かってるよな」
 ロナルドが頷く。いつの間にか変身が解けて全盛期の姿になっている。泣いたのがはずかしかったのか、尖った耳の先まで赤らんでいた。
「分かってる……」
 ロナルドの相談にショットが親身になって乗っていたのはドラルクも知っている。ドラルクも随分世話になった。だからこそ、ショットが短慮に断っている訳ではないことは分かっているのだ。
 フォンが項垂れる。けれど、ショットは苦笑しながらフォンの肩を叩く。
「でも、俺が死ぬまではお前らにつきあえるからさ」
 ショットの軽口にフォンの肩が揺れる。ついでにロナルドとジョンの目が潤む。ドラルクは口元をひん曲げた。苦虫をかみつぶしたような吸血鬼達と使い魔の顔に、ショットは驚いた顔をした後、ケラケラと笑った。
「老人ホームでは馬鹿ウケなんだけどな」
「吸血鬼相手にはナンセンスだよ」
 ドラルクが肩を竦める。
 フォンが彼の手を握りしめて、祈るように呟く。
「じゃあ、あと何百年生きてくれますか」
 それは、幼いわがままだったが、ドラルクとて身にしみて理解できる願いだった。
 ロナルドに、幾度そう思っただろう。ロナルドが転化に頷いてくれたのだって奇跡のようなものだった。その奇跡を享受できる吸血鬼が少ないことも分かっている。
──人は吸血鬼になり難い生き物だ。
 目元の笑い皺を深めてショットがケラケラと笑う。本気ですよ、とフォンが声を荒げる。
 ドラルクは一人、目を細めてショットとフォンを見つめていた。フォンに加勢するロナルドはまだ気付いていまい。吸血鬼としては若いから。
 人間ひとよ、その祈りは吸血鬼の切なる祈りだ。
 ドラルクはわずかに目を伏せて二人の同胞と自分の使い魔に絡まれている友人を見つめる。
 いつか死ぬのなら、いつか別れが来るのなら。
 ああ、友よ。
 じゃああと千年、生きていて。

 

じゃああと千年生きていて  完