前
ケンは本当に度肝を抜かれて額縁に入ったその絵を手に取った。A3よりも少し大きいほどのキャンバスに描かれているのは吸血鬼の親子だった。
「うっそだろ。残ってるもんなの」
「あ、やっぱり君だった。面影残ってるものだねえ」
──あ、そうだ。お前に用があったんだった。
辻野球拳を未遂で妨害され、VRCの収容もヨモツザカに拒否されて引っ張って来られたロナルド吸血鬼退治事務所で、吸血鬼野球拳大好きことケンは思わぬ再会をする。
キャンバスをためつすがめつ眺めて、ケンはため息を吐いてソファーに腰掛ける。ヌーとジョンがお茶を出してくれるのをありがたく受け取る。
「これどこで?」
訝しむケンの視線を飄々と受けてドラルクが答える。
「この前吸血鬼向けのオークションに潜入したときにちょっとね」
「こっちは全うな競売だったから、普通に競り落とせたんだよな」
こっちじゃない方はいったい──と好奇心に駆られそうになってケンは首を振る。もっと面白い場所で詳しく聞きたいものだ。
「何個か競り落とさなきゃいけなかったんだよ、美術品の部で」
「ゴルゴナ叔母様の絵は競り負けてしまったよ。クソヒゲのやつは嫌がらせに競り落として送りつけてやったが」
「あんな値段するもんなんだな。びっくりした。一番高かったアレ、Y談おじさんだったよな?」
「古い血の吸血鬼の肖像画は箔がつくからわりと価値がねえ」
などと二人が歓談を初めて、ケンはため息を吐く。
「で、これを買えって?」
「あ、違え違え」
ロナルドが慌てたように手を振る。その横でドラルクが身を乗り出し、楽しげに口角をつり上げる。
「ええー? 君いくら出せるんだい? 買ってくれるなら是非ドラルクキャッスル再建の資金──」
あくどい顔をしたドラルクにロナルドの拳がうなり、ジョンが泣く。さすがに見慣れているのでケンも今更驚くことはなかった。ロナルドは拳を振って塵を払い落とす。
「俺の金で買ったわけじゃねえから、別に金はいらねえよ。だけど、これお前たちじゃねえかってドラ公が。いらねえなら美術館にでも寄贈するし、一応聞いとこうと思ってさ」
「わざわざ?」
ロナルドが首を傾げる。
「だってそれ家族写真みたいなもんなんだろ? ……あー、その、迷惑だったか?」
思わず目を瞬かせそうになってケンは慌てた。最大光量の懐中電灯を直接向けられたような眩しさ。そうういう善性をこの退治人は退治すべき吸血鬼にも等しく向けている。普段はそう意識することもないが、こうまっすぐに向けられると生来の享楽主義が疼く反面、罪悪感が沸く。
よくもまあ、これと平然と付き合い続けていけるものだとドラルクをちらりと見れば、わかりきったような顔で使い魔とともに薄い肩を竦めた。ジョンがヌシャッと含み笑う。
ケンは頭巾越しに頭を掻いた。
「いや……そんなことはねえよ。この時代の絵が残ってるとは思わなかっただけで。……もらっていいのか?」
「おう」
ほっとした顔をしたロナルドは屈託なく頷く。
「……ありがとな」
受け取ったキャンバスに視線を落とす。
「この年頃のあいつらの絵一個も残ってねえから。懐かしいよ」
その絵は精細な筆致で吸血鬼を描いている。
美しい女吸血鬼が椅子に座り、首も据わらぬ赤子を抱いている。その傍らに女吸血鬼とよく似た少年が背筋をぴんと正しており、その逆側に一世紀は前のまだ幼さの残る時分の己が立っていた。
よく描かれているが、あの頃の自分はもっとやぐされていたような気がする。
これを描かれていた時を思い出す。
「まだかよ?」
「ケーン。素描までは我慢しなさい」
嘆息する母の声が蘇るようだった。
「ほら。御母様の目を見て。お前は強い子なのだから、あと少し頑張れるね?」
あの頃にはもう軍靴の音が聞こえていた。珍しく上機嫌な母は渋々と頷いたケンに満足げに笑いかける。
虚ろな目をした画家が鉛筆を走らせている。
元号が変わった年の頃だった。
あれ以来肖像画を描いた覚えはない。
**
美しい女であったことは確かだ。
雪のように白い肌。線の細いあごさき、つんと尖った小さな鼻先、切れ長の目に収まった紅玉の瞳。冷え冷えと澄ました花のような美しい女だった。それが自分に目を向けて微笑む喜びに狂った身なりのいい人間や、母に見初められて拐かされてきた哀れな人間が、いつでも屋敷に屯っていた。
当時の横浜の居留地にはそういう外国から流れてきた吸血鬼が商人に混じっていくらか住み着いていた。
緊張が絶えないヨーロッパからケツをまくって逃げ出した吸血鬼や、コミュニティから弾かれて居場所をなくした吸血鬼。母もケンもその中の一人だった。
南下してくる大国と退廃の古き王国に挟まれた半島からこうして小さな島国へと足を踏み入れた。
──ケーン。こんな鄙びた国に住まねばならないなんて、なんて屈辱だろう。何、すぐにヨーロッパに戻れるさ。真祖さんも、あいつらも私が居なければきっとすぐに困るはずなのだからね。
月夜にケンを抱いて港から降り立った母は鼻を鳴らして豪語していた。まだ母の腰元に届かぬほどだったケンの頭を撫でて、強く明るい目で笑っていた。
けれど、母の思惑の通りにはいかなかった。
「どうして……」
隣の棺桶から聞こえる泣き声で目覚める夜が増えていき、ケンはよく耳を塞いで眠ったふりをした。
母が幾度海を越えて電報を送れど、あらゆる使い魔を飛ばせど、迎えの船が横浜の港に来ることはなかった。
母の恋しがる大陸の乾いた風をケンはとんと覚えていない。この小さな島の港に吹き抜ける醤油と味噌の香りがする潮風の方がケンには好ましかった。
日本に渡ってすぐに弟が生まれた。
生まれたときは黄金で、すぐに血色に染まった瞳の小さな小さな弟は、ケンの腕の中でよく泣いた。小さくて柔らかくて、初めて知る母以外の血族をケンは飽きず抱き上げた。
「ミカエラ、ミカ」
血族を重んじる吸血鬼であるからか、それとも血を分けた弟だからだろうか。どうあってもケンにとってはいとおしい弟だった。
その子の名を、母は祈るように名付けた。
自分の名、神の言葉を伝えるものと同じように、竜を殺す熾天使と。
母と共に揺り籠であやし、ケンが襁褓を換えた赤子は、確かに天使のように可愛らしいが、ただの吸血鬼の赤ん坊にしか見えなかった。
ちょっと親ばかなのかな、と思っていたケンを尻目に母は上機嫌だった。三人を画かせた絵手紙をどこかへ送って、ミカエラごとケンを抱き寄せて笑う。
「さあ、迎えの船が来るよ、ケーン、ミカエラ。準備をしていようね」
しかし、とうとう迎えの船は来ることはなかった。やってきたのは幾人かの暗い目をした吸血鬼と、彼らの携えた断絶状だった。
「どうして……お真祖様」
異国の──ケンにとっては母国の筈だったが、異国と言う方がすでにしっくり来ていた──手紙が返ってきた日に、きっと母は何かを諦めたのだろう。
何かから逃れるように、古き血の催眠能力を使って人間を侍らせ享楽に耽るようになったのは、その頃からだった。
東欧風の屋敷の大広間では毎日のように蓄音機から流行りの曲が流れ、享楽に目が眩んだ男や女が紫煙を燻らせながら母に侍っている。
シャンデリアに照らされた母に心酔する僕には髪が黒いのもいれば、赤いのも黄色いのもいたのを覚えている。耳が長いのも短いのもいた。
赤子だったミカエラが立って歩く頃にはもう、そういう光のない目をした輩が屋敷を我が物顔で歩き回り、母の目はもうかつてのように情愛を持ってケンとミカエラに向けられることが少なくなっていた。
首都に飛んでいくのならいいが、こうして集めた人間と遊んでいる夜もある。
ケンはそういう日は母が拐かしてきた使用人の血をちょっぴり頂いた後で屋敷を飛び出して、母の目を盗んで遊び回ることにしていた。
今夜もそうしようとミカエラの部屋を開ける。
「ミカエラ、夜だぜ」
「うん、兄さん。おはよう」
目を擦りながら起きてきた弟と目があう。よそ行きの着物を着付けたケンを見て、ぱっと目を丸くする。
「兄さんどこか行くの?」
「えーっと浅草にすっか。ミカエラもいくだろう?」
「いく!」
母とよく似た顔をほころばせてミカエラが飛びついてくる。細くて軽い弟を抱える。赤子の頃よりも軽く感じるのは同様にケンの背も伸びているからだろう。二階の窓を飛び出し伸びた枝を伝って着地すると、面白かったのかきゃらきゃらとミカエラが笑う。
「兄さんもう一回!」
「また明日なぁ」
自分を素直に慕う弟が、ケンは可愛らしくてしかたなかった。こんなにかわいいのだから、母はもっと弟を見てやれば良いのにと思う。
「花やしき行こうぜ。豆汽車乗ってみてえっていってたよな」
「うん! 覚えててくれたの兄さん」
「当たり前だろ。お前の兄ちゃんだぞ」
はしゃぐミカエラの手を引いて裏の勝手口を出ようとしたときだった。
ガブリエラ邸の正門に黒い馬車が滑るようにこちらに近づいていることに気がついた。御者は真っ黒いシルクハットにサーコート。豪奢な欧州風のそれは、ケンたちの屋敷の前で止まる。
「……誰だ?」
見たことのない馬車に、ケンは首を傾げる。馬車の中の声が聞こえる位置に近づけば、男と女の会話が聞こえた。
「……ラさんは待ってて。はじめは俺が……」
「だが……」
渋る女を押さえて、馬車から降りてきたのは背の高い吸血鬼だった。艶のあるビロウドのマントに身を包む姿は影をそのまま人にしたようだった。御者がするりと闇に溶けて、吸血鬼に溶け込む。
──分身だ。
母から聞いたことのある、吸血鬼の能力の一つだ。実際にケンが見たのは初めてだった。
背の高い吸血鬼は、降りてすぐにケンとミカエラを見つけて赤い目を丸くする。
「あれ? 坊主たちはガブリエラの子か?」
門の前に隠れもせずに立っていたのだから当然だが、呆然していたところで急に声をかけられてケンは思わず一歩後ずさる。
「あ、ああ」
人見知りのミカエラがぎゅっと背中にしがみついてくるので、ケンはぐっと踏ん張ってそれ以上下がるのを止めた。ミカエラの前では兄らしくありたい。
男はコウモリのようなマントを翻して身をかがめ、赤い目をほころばせた。すると尖った雰囲気が途端に霧散する。
「そうか。エラ……お前たちのお母様は屋敷にいるか?」
「母さんの客?」
「古い馴染みだよ。御母様と話がしたい。会えるかな」
ケンは少し考えて頷いた。母に会いに来る客は最近はひっきりなしだったので、彼もそうだろうと思っていたのだ。
「今日は広間にいると思うよ」
「そうか、ありがとう。引き留めて悪かったな」
男はミカエラと自分を雰囲気よりも柔らかになで回すとそのまま屋敷の前にばさばさと飛んでいく。変身だ、とケンは再度驚く。
「お母さん、大丈夫かな」
ミカエラが不安そうにその吸血鬼の背を見送ってつぶやく。
「大丈夫だろ」
母が強い吸血鬼であることを、ケンは疑ったことがなかった。
ケンはミカエラの手を引いて駆け出す。夜は短く、ケンは遊びたい盛りの子供だった。
花やしきから帰って玄関を開けた途端、甲高い金切り声と破壊音が広間から聞こえてきてケンは咄嗟にミカエラを背に隠す。
「に、兄さん……」
「大丈夫、兄ちゃんがいるから」
音がするのは大広間だった。ミカエラを背に隠しながら大広間に向かい、戸を微かに開ける。カーテンの裏に隠れて中を覗けば、母が顔を上気させて、誰かに向けて罵っていた。
「母さんなんて言ってるの?」
ミカエラが首を傾げる。
──貴様に何が分かる!
二人が話しているのは、東欧の言語だった。ケンにはもう途切れ途切れにしか分からないが、母がひどく憤っているのが分かる。
はじけるような念動力に、がしゃんとガラスが砕ける音。シャンデリアが砕けて落ちる。
「あぶねっ、ミカ。兄ちゃんから離れんな」
とっさにミカエラを抱えて最近覚えたばかりの結界を張る。まだぴったりとするキーワードが決まらない所為で不安定だが、氷雨のように降り注ぐクリスタルから弟を守ることはできた。
ぐす、ぐすと泣きだしたミカエラを抱き寄せて、その背をあやした。物陰の子どもに気づかぬ吸血鬼たちのせめぎあいはより勢いを増す。
──エラ、落ち着けって! 分かってんだろお前も!
ケンたちの居る場所からは男の姿は見えなかったが、スラング混じりの男の声は、出かける前の母の客人に違いなかった。
──分かってる! 貴様が、貴様の真祖が、お真祖様をたぶらかしたんだろう! あの人が私を捨てるはずがない!
──ちげぇよ! 違う、俺は止めたんだ! エラ、聞いてくれよ。英国と手を組んだのは知ってるだろう、この国だって安全じゃない! これから退治人が欧州から渡ってくるんだぞ! むざむざ杭を打たれるつもりか!
その言葉が母の琴線に触れてしまった。燃え立つような怒りに染まったは、まるで節分の日に街でみる鬼のようだった。とっさにミカエラの耳を塞ぐ。雷のような怒号が大広間に響いた。
──このガブリエラを侮辱するか!
──エラ……!
──お前はいいさ、男で、真祖の直系、吸血鬼の奥方をもらって、息子もできた! 竜の一族というだけで! 私はこの鄙びた国で、ひとりぼっちなのに!
男の胸ぐらを母が掴みあげる。紅い目が月よりも明るく輝いて、人間はおろか、吸血鬼をも支配する眼光が彼を突き刺そうとする。
「お前も、お前の妻も、妹も私のものにしてやろうか。なあ、白銀の狼、傲慢なる竜の子よ。そうすれば、お前も私の気持ちが分かるだろう!」
そのときのケンは、当然のようにその吸血鬼も母の支配に下るのだろうと思っていた。それで母に血を吸われて、母も溜飲を下げるだろうと。
しかし、吸血鬼は悲しげに項垂れ、ゆっくりと母の手を自分のジャボから外した。
頑是無い子どもを諭すような声で、母の催眠をあっさりとはじき返して叱る。
「ガブリエラ……。落ち着いてくれよ」
目を見開いた母はしおれた花のように見えた。年を取らぬ吸血鬼だ。だが、その瞬間、ケンは彼女の面差しに初めて重ねた長き年月の疲労を見た。疲れきった声で、母は男に背を向けた。
ケンはその夜、生まれて初めて母の強大さを疑った。
母は無敵でも最強でもないと知る。
足下が崩れていくような価値観の崩壊!
ぼろっと不可解な涙がケンの頬を滑り落ちた。 ミカエラが目を丸くしてケンを見上げていた。
「兄さん……? 兄さんどうしたの、兄さん?」
訳も分からぬままケンは息を殺してしゃくり上げる。驚いたミカエラが必死にケンを抱きしめていた。その小さな体が崩壊する足下の寄る辺のように思えてならなかった。
吸血鬼に背を向けた母の疲れた声が、がらんとした大広間にさみしく響く。
「……帰れ。もう疲れた」
「分かってくれるか?」
「帰れ。お前と話すことなどない。何も分かってない。竜の一族もおしまいだな。誇りを失い、吸血鬼は衰退していく。……その前に人間を支配することの何が悪い……」
顔を上げた母が初めてカーテンの影にミカエラとケンがいることに気がついた顔をした。
母の瞳が妙に変な色をして輝いた。
「ああ、そうだ。紹介してなかったな」
とっさにミカエラを抱いて隠れようとしたが、母の目を見てしまえば動けない。
ケンは慌てて目元を拭った。
「なぁ。私の胎から生まれた子だよ。私の血を継いだ、強い血の吸血鬼だ。お前に息子ができたときいてな」
「は……? 俺の子が何だって?」
なぜかどれだけ嫌でも母の言うことに逆らえた試しはない。。
「おいで。ケーン。ミカエラ」
ケンはミカエラの手を引き、うつむいて足を向ける。ミカエラの小さな手がケンの手を助けるように力を強くする。ケンはその小さな手を縋り付くように握りしめた。
「兄さん……」
もう自分よりもぼろぼろと泣いているミカエラがあんまりにもかわいそうで、ケンは歯を食いしばって笑って囁く。
「大丈夫、兄ちゃんがついてるからよ」
「うん……」
一歩足を踏み出すごとに、男吸血鬼のぞっとするほどの恐ろしげな力を感じてケンは奥歯をかみしめた。
自分が怯えていれば、ミカエラがどれだけ怖がるだろうと思う。それでも顔が上げられず、ケンとミカエラはその吸血鬼の磨き上げられて鏡のような靴の甲を睨んだ。
二人の様子に吸血鬼が驚いた声を上げた。
「お前まさか、血を与えてないのか!?」
「そんな必要ないだろう。……なあ、この子たちがお前たちに牙を立てる子だ、竜の子。お前たちが愚かしい人間どもに牙を折られても、私は屈しない」
見上げた母の顔は氷のように張り詰めていた。それなのにぎらぎらと燃えるような目をしてその男を睨み付ける。
「すごいだろう? もう結界を使えるんだよ、ケーンは。ミカエラも私にそっくりだろう? きっと強い強い支配者になる。これからももっともっと……強い子が生まれる」
ガブリエラはうっそりと微笑み、ケンとミカエラに頬ずりした。
その頬の冷たさにケンは胃の腑が冷えるような心地がした。母の手を怖いと思ったのは初めてのことだった。
敵意を露わにした母が吸血鬼に吐き捨てる。
「お前たちの指図は受けん。分かったら帰れ」
「……何かあれば、連絡しろ。俺が嫌なら、ノースとかゴルゴナにでもいいから。人間を誘拐するのはもう控えろ。な?」
母は今夜初めて口元を不格好にゆがめた。
「お前のそういうところが嫌いだよ」
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