雨が降っている。
アジトのロナルドたちが示し合わせたように姿をいつもの服から地味で質素なものに変える。
「ああ、市が立つんだね。武々夫くんが居ないはずだ」
ドラルクの声が雨模様の空と同じほどにどんよりと曇った。ロナルドはそれに頷く。いつもの紅いカソック姿ではなく、黒い襤褸を纏い、髪を隠すようにローブを被っている。
「雨だからな」
ドラルクがため息を吐く。
「別にあそこにいかなくたっていいだろうに」
「あそこも役には立つ。今日は俺とショットで行くけど、ドラ公どうする」
「私は良いよ。流石に何度も行くと足がつく」
「じゃあ俺行く」
声を上げれば、案の定ロナルドが怪訝そうな顔をする。隣に座っていた兄もぎょっとした顔で自分を見る。
「地下鉄の雨市でしょ」
「知ってんの」
「流石に暗渠からしか行ったことないけど」
頷けば退治人たちが顔を見合わせた。
「俺たち構内から行くけど」
「あんたたちとなら大丈夫でしょ」
「……ふうん」
ショットが鼻を鳴らして目を細めた。
「いいじゃねえかロナルド。連れて行こうぜ」
「待て、なんだよ。その……雨市? って」
ケンが口を挟み、それに自分は驚く。自分よりも早く家を出たのだ。とっくに知っているものだと思っていた。自分の方が知っている場所があるとは思わなかった。
「え、ケン兄知らねえの」
「普通、夜を裏切るものが行くのは月市のほうだよ」
ドラルクが答えれば、ケンもそちらは知っているようで頷く。自分は月市のことは逆にあまり知らない。
首を傾げれば、ケンは少し驚いた様子だったが、ミカエラの方が詳しいか、と呟くに止まった。
「じゃあお前も準備して五分後な」
「ショット!」
ぎょっとした顔のロナルドがショットの正気を疑う目を向ける。ショットは心外そうに肩を竦めた。
「いいだろ。弟が知ってンだし。こいつらの力があれば何かあっても自力で逃げれんだろ」
「でも」
「でもじゃねえよロナルド。ドラルクの時も言ったよな」
ロナルドが困った顔でケンとショットを見る。ショットは首を振る。自分としてはショットの意見に賛成だった。
「ロナルド君。私は良いと思うよ」
知るというのは痛みを伴う、と呟いてドラルクが後押しする。
ロナルドは一瞬悲しげな顔をしてため息を吐いた。
「耳と牙を隠せ」
もちろん自分はいつもそうしている。
「構内から入るのは初めてだな。ね、あっちゃん」
あっちゃんがこくりと頷いて笑う。あっちゃんたちは普通の人にも吸血鬼にも見えない存在だ。だからこそこういう場所をよく知っている。
いつもの棺掛けではなく色の暗いものを被って服装もそれに合わせる。ケンも今回はいつもの黒装束の飾りを抜き、揃いの棺掛けを被っている。
「ケン兄、落ち着いて。あんまりきょろきょろしないで」
「お、おう」
「お前が落ち着いてんのも不思議だな」
「いや、市行くときはいつも緊張してる」
ショットの目が面白そうに細められた。あまり笑わない青年だが、少しだけ雰囲気が和らいだ気がした。
「それが良い。貼り付けられたくねえもんな」
朽ちた駅のホームを潜る。ロナルドがランタンを付けた。もうとっくの昔に機能を止めた改札口を潜って地下に潜る。錆びて朽ちた看板。割れたタイル。響くのは靴音とあふれてしたたり落ちる水音だ。
「地下鉄のホームか」
「雨降ってると吸血鬼が来ないから、昔から市が立つのは雨の日だ。でも俺たちがガキの頃からは大分少なくなって、今じゃ此処くらいだな」
暗い駅と駅の間。蜘蛛の巣のように張り巡らされた線路のどこか、耳を澄ませば喧噪が聞こえる。 人の喧噪。ぽつぽつと灯が見える。
ランタンやどこからか調達してきたらしい電球がぶら下がるほの明るい市場。腐ったような饐えた匂いがする。においの元は天井からぶら下がって腐っている人間だろうか。「親吸血鬼」だの「泥棒」だのと殴り書かれた看板を吊った首から提げている。この見せしめが入り口だった。
「いらっしゃいいらっしゃい」
「栄光の手だよ」
「酒だよ。たばこだよ」
すすけた顔をした人間たちがぼそぼそと呟く。どこからかレコードの音まで聞こえるが、それは途切れ途切れで鬱々としていた。じっとりと湿った地面はぐちゃぐちゃと音をたて、足下を駆け抜けるのはでっぷりと太った溝鼠だろう。足下に気をつけなければ枕木に足を掛けて転ぶ。ここでこけた人間は三日も持たずに傷口から毒が入って死ぬという。
「お、珍しいな。タバコじゃん」
「ロナルドか。また生きてたか」
落ちくぼんだ目をした男がロナルドにたばこを投げ渡す。代わりにロナルドは酒を渡す。兄が屋敷から持ってきたものだ。
「武々夫来てるか」
「あいつはあっちだよ」
指さした先の壁に、ケンが体を強張らせた。
「……まだ殺してねえの」
ロナルドが肩を竦めた。落ちくぼんだ目をした男はぎらぎらと目を輝かせて乱ぐい歯を覗かせた。
「殺すものか。あいつがたまに元気になって殺してくれという度に俺は嬉しくなる」
壁に標本のように貼り付けられた人間がいた。人の形をしているのが辛うじてわかるほどの――いや、あの状態で生きている人間はいないだろう。故に吸血鬼だ。銀の杭で四肢をコンクリートに貼り付けられている。その周辺でも人は店を出していた。
「割とながく持ってるぜ。なあ、アレが塵になっちまったらお前ももってこいよ。買ってやるからよ」
乱ぐい歯がにたにたと薄気味悪い笑みを浮かべてロナルドに強請る。
「生け捕りは苦手だ。殺しちまう」
ロナルドは肩を竦めて踵を返す。
――前に見たやつと変わってるな。
初めて見たときには吐きそうになったが、この市場ではそう大して珍しいものでもない。血族主義の吸血鬼だからこそ慣れはすれ、積極的に見たいものではなかった。
「殺してくれ、殺して……」
近寄れば吸血鬼は小さく呻いていた。ケンが目を反らす。自分が初めて見たときはあまりに恐ろしくて吐いてしまったものだが、流石に兄は気丈だった。
「半田を連れてこれない意味、わかっただろ?」
「……ダンピールは」
「これよりひどいよ」
ショットが皮肉げに吐き捨てる。ロナルドの指先がそっと動いて、布の下で音もない柔らかな銀弾が吸血鬼の息の根を止めた。塵になる同胞が安堵のため息を漏らしたのを見る。
周りの人間たちが根性なし、だの聞くに堪えないスラングを並び立てて灰に還ることのできた吸血鬼を罵った。
「優しいねえ」
思わず呟くと、ロナルドは口元をゆがめた。
「殺すしかできねえから」
「そうでもないと思うけどね」
そう呟けば、ロナルドは苦笑した。
「ガキどもいるか」
線路の端のなにやらのへこみにロナルドが声を掛ける。その声に合わせてひょこっと三つ、小さな頭が暗がりから飛び出してくる。まだ頼りない体躯に大きな目の少年たち。
「ロナルドだ!」
「ショットだ!」
こんな場所で場違いなほどの朗らかな声にロナルドとショットの表情が少し緩む。ぼろきれのような服だが、頬は痩けすぎてもなく、病気もしていないことにほっとする。自分にも見覚えのある顔だった。
「生きてたか」
「おう!……って、あ、幽霊の兄ちゃん」
「久しぶり」
「久しぶり! あっちゃんもいる?」
「居るよ。まだ見える?」
トオルの布の下からあっちゃんが顔を覗かせる。あっちゃんたちが少年の前で手を振るが、三人の少年は目を見合わせて首を振った。
「もう見えないね」
『よかったね』
『げんきになったね』
「そうだね」
あっちゃんたちがどこか寂しげに、それでも嬉しげに少年の頭を撫でる。少年たちはそれには気付いていない。
「知り合いだったのか?」
ショットが首を傾げる。
「怪我して病院に来てたことがあったんだよね」
「退治人の兄ちゃんが病院つれてってくれたの」
「あの人今どこに居るんだろうね。すげー強かったよ」
口々に話す少年の言う退治人を、ロナルドたちも知らないようだった。長身瘦軀で、紅い刃を操る退治人のことは自分も知らない。時折病院に放り捨てられていた子どもの内、幾人かはその退治人に連れてこられていたらしいが、トオルが姿を見たことはなかった。
ロナルドたちは彼らになにやら買い物を頼むようだった。名高い退治人が後ろにいる。それが彼らの守りになっているのだろう。
退治人たちが危険ばかりの雨市にくるのは、彼らが理由の一つなのかもしれなかった。
「キックボードのガキは?」
「リーダーは十子と月市の偵察!」
「無茶はするんじゃねえぞ」
ショットが呆れたように少年を小突く。
「月市なら、もし何かあればミカヅキくんのとこにいきな。俺の手伝いしてるっていえば良い」
ロナルドがメモに名を走り書いて少年に渡す。
――こういう人ばかりならば、あっちゃんたちが此処にいることもなかっただろう。
トオルはふ、と息を吐いて首を振った。
この退治人たちの側に立つようになってから考えても仕方が無いことを考えることが増えた。
「ロナルドさん、ちょっと寄るところあるんだけど。ケン兄連れて行って良い?」
「良いぜ。でも気をつけな。先に帰るなら武々夫に言っといてくれ」
「騒ぎを起こすんじゃねえぞ」
「了解。行こうケン兄」
この雨市の歩き方を自分は知っていると判断されたのだろう。あまり引き留められることなく行動を許される。
兄の手を引いて枕木のぬかるみを渡る。女が吸血鬼の塵を売っている横を通り、変に甘い白い煙のくゆる並びを抜け、魂が抜けたように青ざめた人間の横たわる穴を過ぎて横穴を曲がる。
壁に掛けられた灯が絶えたところで、トオルは手燭を吹き消した。
灯の通らぬ真っ暗闇の地下は、人間には暗すぎる。曲がりくねったこの道は、吸血鬼を排除する雨市にあって吸血鬼の立ち入りを暗に許している場所だった。
元々は何だったのかは分からない。何処かのビルの地下に繋がったのかもしれないし、何処かの地下商店街の一角なのかもしれない。それとも、地下水道の一部か。
ともかく此処は、小さな広場だった。真ん中には小さな元々は噴水だったらしい水たまりがあり、それから水が溢れて床をじっとりと濡らしていた。 肌にまとわりつくじっとりとした冷気がこの広場に足を踏み入れた途端にトオルとケンを襲う。
「ここは?」
ケンが呟く。結界を使うか迷っているのを止めて、トオルは黙ってもう一度手元のろうそくを付ける。
「あっちゃんたち。友達を連れておいで」
ろうそくの明かりが、壁に影を映す。
ケンは息を呑んだ。
影は二つではなかった。トオルの腰ほどの子ども達のものが、おびただしい数でもって広場の壁に映ってている。
「これは……」
「んー、溜まりやすい場所なんだと思う」
トオルも詳しい訳ではない。ただ、広場の端にある小さな白いものや壁に彫られた像などで此処は昔は墓地だったのではないかと予想しているだけだ。噴水が壊れて破棄したのかもしれない。
ただ、この場所はいつからか子ども達の遊び場になっていた。新横浜近辺にいくつか残された場所の一つだ。
「ケン兄」
「ん」
兄を見上げれば、ケンの目が静かに自分を見下ろしていた。目をそらしてあっちゃんと戯れる影を目で追う。
「この子たちは一体誰なんだろうね」
小さな姿。自分の姿も、名前も、何もかも忘れ果てた子ども達。
トオルの問いかけの真意を測りかねているらしいケンは黙ってトオルの言葉を待っている。
「退治人に殺された吸血鬼の子? それとも工場で動くこともできなかった養殖の子?」
「……何がいいたいんだ?」
「それとも吸血鬼に殺された人間たち? 自我を喪った人? 人間に殺されたダンピール? 俺は、大人の死霊を見たことがない。吸血鬼の霊もだ。この子達は自分の名前も、姿も、過去も、何もない」
ケンがじっと自分を見下ろしている。
「ケン兄ぃ」
トオルはしゃがみ込んで、頭を抱えた。
ずっとずっと考えていて、誰にも言えなかったことだ。この告白で、ケンの自分に向ける目が変わってしまうのが恐ろしい。
「人も、吸血鬼も、ダンピールも、一緒なんだ。全部同じなんだ。この子達に区別はない、生きてる前のことは全部死ねば何もなくなるんだ。吸血鬼と人に何の区別もないのに、どうして互いに殺し合うんだろう」
ケンが頭上で短く息を吸ったのが分かった。
当たり前だ。トオルと違い、ケンはガブリエルの嫡男。吸血鬼の世界のために戦うことを定められ、それに反発して出て行った男だ。家を出てもなお、人と吸血鬼は別種だという意識は根深い。別種であれ、手を取り合うことができると考えた男だ。
トオルは違う。
使えるのは身を隠す微弱な催眠だけで、強力な能力を持つ偉大な兄二人の影に隠れて生きてきた。誰にも期待されず、兄たちのように徹底的に教育を受けたわけでもない。透明人間のように育った。
あっちゃんに出会ったのもほんの些細な偶然の産物だ。
だが、その出会いがトオルの運命を変えた。
「ケン兄は俺をおかしいと思う?」
――彼にそう言われたら、きっと自分は深く傷つくだろう。
分かっていながらも、彼にだけは自分の考えを伝えたかった。
「あー」
ケンが吐息とも言葉ともつかぬ音を漏らして、自分の横にしゃがみ込む。がりがりと頭を掻く音と共にケンがトオルの被っていた布を剥がす。
おそるおそる横を見れば、兄は笑っていた。
幼い頃、まだ三人と母と屋敷で穏やかに暮らしていた頃と同じ顔をして。そのことに、トオルの強張っていた肩の力がすとんと抜ける。
「正直な、俺ァそういう風に考えたことはなかった」
「うん」
「“昼”と“夜”の縄張り争いはさ、別種の生物の生存競争みてえなもんだ、って思ってた」
「そう、だよね」
「でも、それが正解っつーのは違えわな。俺はあっちゃんたちの事も知らなかった。人と手を組めるとも思ってなかった。考えもしなかった」
ケンの大きな手のひらがトオルの背をゆっくりと摩る。
「一人でたくさん考えたんだな。偉かったな、トオル」
トオルはぽかんと間の抜けた顔でケンをふり仰いだ。
背を撫でていた手はトオルの頭に移動して、まるで小さな子どものように撫で回される。
それを、トオルは振り払うことはできなかった。
水音が一つ、二つと広場の音にまぎれていく。
あっちゃんたちがそろそろ帰ろうと袖を引くまで、トオルはケンの横でしゃがみ込んでいた。
雨市 終