死霊の夢が叶う夜 - 1/2

嘘のように優しい世界にて 

「ひっ」
 吸血鬼下半身透明こと、トオルは目覚めた瞬間に目の前に座り込んでいる異形の娘に思わず声を上げた。異形の娘は目を覚ました兄貴分を見つめて首を傾げる。
「おに いちゃ ん?」
 たどたどしい心配の声に、トオルは目を丸くして娘を見つめる。
「……あっちゃん?」
「う ん。お きた!」
 喜色を露わにする異形の少女に、トオルは打ち覆いの下の目を丸くして、すぐにほっと緩めた。打ち覆い越しに頬を搔いて、口元をにんまりと吊り上げる。
「……なるほど……、ふふ、あっちゃんか。あっちゃんなんだね!」
「う ?」
「アマルガムっぽいじゃん! 畏怖い! いいねえ」
 楽しげにけらけらと笑ったトオルは寝床から飛び起きて、ううんと伸びをする。棺桶の置かれた部屋には窓がない。恐る恐る外を見れば、細い月が昇っていた。くるくると周りを見回して、トオルはしたり顔で頷く。
「矢部病院には間違いないな。うんうん、いいね。ってことはここは新横浜か。あっちゃん、散歩行こう」
「おば け やしき は?」
「ん? んー? お化け屋敷?」
 首を傾げたトオルに、あっちゃんが示すチラシに、トオルは感嘆の声を漏らした。
「お化け屋敷なんだ……? うーん、悪いんだけど、今日はお休みって事で」
 寝乱れた着物を着付け直し、臨時休業と引っ張り出した紙に書いて入り口に貼り付ける。
 運良く開店前だったのか、誰も並んではいない。トオルはあっちゃんの手を引きながら鼻歌でも歌いそうな心地でふらふらと道を行く。
 机の上に置きっぱなしだった財布を懐にしまうのも忘れない。
「どこ いく の?」
「どこ行こうね」
 トオルはきょろきょろとあたりを見回す。
「凄い、凄いな」
「すご い?」
「うん」
「人間も吸血鬼もいっぱいいる」
 ぽつり、とトオルが呟く。あっちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「……俺も病院の外に出れるし、夢みたいだ」
 中天に浮かぶ細い月に手を翳して、トオルは打ち覆いの下の目を細めて笑う。
「あっちゃん、ありがとう」
 あっちゃんが何かを言う前に、トオルが屋台を指さす。
「何あれ──ブラッディ・タピオカ?」
 タピオカ屋に突撃して吸血鬼用のタピオカを買い求める。タピオカがくるくると宙を舞うタピオカ屋に、あっちゃんがはしゃぐ。トオルも目を輝かせてブラッディ・タピオカ・ミルクティーを啜り込んで目を丸くした。
 呑んで初めて、喉が渇いていたことに気がつく。甘美な血が喉を潤して満たされる。
 ほう、とトオルは吐息を漏らした。
「甘いし、美味い! ちゃんと血! ねえ、タピオカってこれ? めちゃくちゃ美味しいなこれ!」
 はしゃぐトオルに、店主は吸血鬼は呆れた顔をする。
「そう。その黒いのがタピオカだよ。吸血鬼向けのだから血を加えてるのさ。アマルガムの嬢ちゃんにはおまけね」
 あっちゃんのプラコップの中にふわふわと浮いたタピオカが増量されていく。
「よかったなぁ、あっちゃん」
 あっちゃんの頭を撫でるトオルに、店主が声をかける。
「アンタも満足したらちゃんと﹅﹅﹅﹅帰りな。帰り道分からないなら送ってあげるよ」
「分かってるって!」
 トオルは肩を竦めて笑った。
「ちゃんと目が覚めたから多分もう帰るよ。ね、あっちゃん」
 あっちゃんは少し考えた後で、こくりと稚く頷く。
「つれ てく よ」
「……ならいいけどね」
 古き血の匂いのする吸血鬼は、炎の色をした目を細めてトオルを撫でる。
「若き同胞よ、今宵ばかりは良い夢を」
 それを拒むのも諦めて甘受したあとで、タピオカ屋に別れを告げる。
「あ、半田くんだ」
 一つ向こうの通りで大きな蚊のような吸血鬼を叩き潰しているダンピールを見かける。その近くに居るのは吸血鬼退治人バンパイアハンターだろうか。
 高笑いが聞こえて目をこらせば、赤いマントを纏った退治人に向かって歯をむき出して楽しそうな半田が見える。
 ふと足を止めて、トオルはずッとタピオカの残りを啜り込んだ。
「半田くん、元気だな」
 その声が聞こえたわけではないだろうが、半田がぴくりと顔を上げ、此方を見る。
 トオルがひらりと手を振ると、彼は首を傾げたように見えた。
 話しかけてみようか、と過ぎった考えを首を振ってかき消す。彼はダンピールだ。今日は止めておいた方が良いだろう。
 賑やかな音のする方へ、あっちゃんの手を引きながら歩いていく。
「あれ、トオル? あっちゃんも」
 振り返ると特徴的なTシャツ姿の青年がトオルとあっちゃんに駆け寄ってきていた。
「二、三日見なかったけど、大丈夫か?」
 あっちゃんがにこにこと笑いながら青年に手を伸ばす。慣れた手つきで小さな手を取ってくるくる回っている男を、トオルは知っていた。
「……武々夫?」
「おう! 今からマナーとゲーセンとゲーセン行くんだけど、お前も来る?」
 指さした先にあるのは、夜でも煌々と明るい繁華街だ。立ち止まっている若い吸血鬼二人がこちらを振り返って待っている。煌々と明るい店の看板には、”ゲームセンター”と書かれている。
 人と吸血鬼がともに楽しめる娯楽の密集した街角が目の前に広がっている。
 思わず誘いに頷きそうになって、トオルは慌てて首を振った。
「……いや、今日はいいよ。また誘って」
「そうか?」
 武々夫はそう言うとじゃあまた次な、あっちゃんもまたな、と言ってあっちゃんの手を離す。
「いい の?」
「うん。もうちょっと他の所も見たい」
 適度に暗く、賑やかで、細い道の向こうに闇が広がる新横浜の街を歩く。
 血の流れる音も匂いもない。平和で、安楽で、夜でも賑やかな街。誰も息を潜めて、声を殺さなくても良い街。
 久しぶりに血で潤う身体を感じながら、トオルはゆっくりと街を見回した。
「会えるかな、会いたいけどな」
 ぽつりと呟く。
 人通りの中に、会いたい人たちの姿はない。
 彼らがどこに居るのかも、今のトオルには分からないのだ。
 月は陰りつつある。もうあまり時間は無い。

 ※※

「トオルが居ないッ! ど、どうしよう兄さん、トオルが、トオルが……っ」
 殆ど泣いているような顔で、ミカエラがケンの羽織に縋りつく。
「……落ち着けミカ」
「だっだが、もう三日、寝たままだったのだっておかしかったんだぞ! 目覚めて連絡もないなんて」
「分かってるって」
 目にいっぱい涙を溜めているミカエラを宥めながら、ケンは周りを見回す。
 いくら見てもトオルの棺桶は空っぽだ。それに心臓が嫌な軋みを立てるのをなんとか堪えながら息を吐く。吸血鬼の嫌な所は、死ねば空っぽの柩がのこるだけである所だ。空の柩にミカエラの恐怖が倍増してしまったのだろう。
「臨時休業の貼り紙もあった。あっちゃんも居ねえし……」
「っ、さ、財布も無い!」
 鼻をすすり上げながらもしっかり周りをみた弟の背を叩いて頷く。
「どっか出かけてるんだろ。探しにいくか」
 ミカエラは漸く泣き止んで、先陣を切って病院を飛び出した。
 まずは大通りでも、と繰り出した道で、二人はすぐに呼び止められる。
「あ、野球拳の坊主、丁度良かった」
「タピオカ屋?」
 タピオカのキッチンカーの中にいた吸血鬼が二人を手招く。
「今、タピオカ呑んでる暇ねえんだけど」
「違う違う。お前達、弟探してるだろう」
「トオルを見たのか!?」
 キッチンカーのカウンターに身を乗り出すミカエラに、タピオカ屋が頷く。
「アマルガムのお嬢ちゃんとゲームセンターの方に向かったよ。もう時間がないから、急いでいってやったほうがいい」
 行こう、と袖を引くミカエラに引っ張られながら、ケンはタピオカ屋を睨む。
「時間が無いってどういうことだ」
「言葉通りだよ。夜明けには帰るだろうから、それまでに見付けてやんな。……んん、そうだな、私もそんなに詳しいわけじゃないんだが」
 袖を引くミカエラの腕を押さえて、ケンは怪訝な表情を隠さずにタピオカ屋を見上げる。
「私がこんな風にタピオカを売っていられなかった道も、お前達が兄弟三人で暮らせなかった道も、存在するってことだ」
「は?」
「いいから! 早く! この愚兄!」
「分かった分かった! 袖が千切れる!」
 ミカエラに半泣きで引っ張られて、ケンは漸くトオルがよく行くゲームセンターの方に歩き出す。
 振り返れば古き血のタピオカ屋がひらひらと手をふって此方を激励していた。
「何だってんだ」
「おい。吸血鬼野球拳大好きと吸血鬼マイクロビキニだな」
 闇夜に映える吸対制服の半田が、ビニールに詰めた下等吸血鬼の塵を提げながらケンとミカエラを呼ぶ。
「わ、吸対の兄ちゃん、今日はVRCに行くつもりはねえぞ!」
「透君、様子が可笑しくなかったか?」
 突然出てきた弟の名前に、ケンとミカエラは顔を見合わせた。
「さっき吸血鬼マナー違反にも聞かれてな。あっちゃんと散歩しているのを見かけたんだが、そう言われると少し違う感じがしてな」
 自分の鼻を指して半田が眉を寄せる。彼は吸血鬼を察知するダンピールだ。吸対のエースとして働く彼の感覚は鋭い。
「これをなんと言えば良いか分からんが……。透君には間違いないが、気配が微妙に違う。マナー違反は『違うヤツが入ってるみたい』だとか言っていたが」
「俺たちも探してんだ。何処に向かったか分かるか」
 ケンとミカエラの表情に半田も神妙な顔で指を差す。
「公園の方にたぶん透君の吸血鬼の気配がある」
「ありがとよ。今度野球拳しような」
「マイクロビキニを贈ろう」
「いらんわ、馬鹿どもめ!」

 ※※

 歩き疲れて、トオルは公園のベンチに座った。真夜中の静まりかえった公園の端にも、吸血鬼の親子がブランコを漕いでいる。
「良い街だねえ、あっちゃん。あっちゃんはこの町好き?」
「おに ちゃん いる」
「俺がいるから? へへ、ありがとう」
「おにい ちゃんは ?」
「俺? 俺はねえ……」
 飲み干したタピオカのプラカップを公園のゴミ箱に丁寧に詰め込んで空を見上げる。
 いつの間にか月は沈んでいる。東の空の端に、ぞわぞわとする恐怖を感じる。そうだ、この町では夜が明けるのだ。朝におびえるなんて何百年ぶりだろう。
「きっと俺は好きだったとおもうよ」
 あっちゃんが心配そうな顔でトオルの顔を覗き込む。
 息せき切った声が公園に響いたのはそのときだった。
「──見付けたあッ!」
 その声にトオルが弾かれるように顔を上げる。
 見たこともない変な手のひらの模様の入った着物を着込んだ男と、とんでもない格好をした男が険しい顔でトオルを睨んでいた。
 男達はトオルを見ると、ぎょっとした顔で立ち止まる。トオルは何も言えずにその男達を見つめた。
「吸対の兄ちゃんとタピオカ屋の言ったとおりだな」
「だ、だがトオルにしか見えんのだが……」
「あっちゃんもそう思ってるみたいだしな……いやでもなんか違えよ……」
 それでもその声はトオルが記憶の中に残す人の声だ。忘れることのできない人たちの声だ。
 最後に聞いたその声は、悲鳴のように自分の名前を叫んでいた。そんな風に呼んでもらえる暗いには思われていたのだと知ったときの幸福感と、悲しませる罪悪感を抱えて目を閉じたのを、つい昨日のこととして覚えている。
 寂れ朽ちた廃病院の中で、どれだけ二人の名前に縋っただろう。
 決して返ることのない返事を待った孤独な日々はまだトオルには生々しく血を流す傷跡だ。
「……ケン兄、ミカ兄」
 喉が閊えるような声で、彼らを呼ぶ。
 自分に名を呼ぶ権利なんてないと分かっていながらも、彼らの姿を見ればそうするほかになかった。
「……っ」
 瞬間、ケンの顔がひどく歪む。思わずと言った様子で一歩を踏み出そうとして、それでも警戒心が足を止めてしまう。
 逆にトオルの声に放たれた弓のように飛び出したのはミカエラだった。
「トオル!」
 ほとんど素っ裸のような格好で駆け寄ってきたミカエラは、ベンチに脱力して座るトオルに視線を合わせて、膝が汚れるのも構わずに跪く。
「ああ、やはりトオルだな。どうした、何があった我が弟よ」
 冷たくて細い指が打ち覆いの下のトオルの顔を撫でる。そうすればトオルの憂いを取り除けると信じているような懸命さに、トオルは思わず目を閉じた。
「可哀想に、泣くんじゃない」
「ミカ兄、ミカ兄だ」
 いっそ幼いような顔で、ミカエラは首を傾げる。この人にこんな風に愛しむ目を向けられる弟を、トオルは心から羨んだ。
「うん?」
「……会いたかった」
 ミカエラの頬がぽっと染まる。
 はあ、と重たい溜息に顔を上げれば、いつの間にか近づいていた複雑そうな顔をしたケンがじっとりとトオルを見下ろしていた。
「ケン兄、怖い顔だね」
 複雑な顔をしたケンが尋ねる。
「……お前がトオルなのは、わかったよ」
「トオルはトオルに決まってるだろう、愚兄」
「そりゃ、そうかもだけどよ。……でも、違うんだよ」
 がりがりと頭を搔くケンが、気まずげにトオルを見下ろしている。
「あいつは、俺たちのことをそんな風に呼ばねえよ。もっと、あたりまえみたいに呼ぶ」
 大事に大事に呼ぶようなものじゃない。三人の日常で、当たり前の事なのだから。
「……それは、羨ましいなぁ」
 トオルは漸く、ほうと息を吐いて笑った。
 ミカエラの手を外して、心配そうにきょろきょろしているあっちゃんを宥めて立ち上がる。
「ケン兄の言うとおり、俺は俺だけど、多分この世界の俺じゃない」
 きょとんとする二人に、トオルは破顔した。
「この世界の……?」
「うん。俺も夢だと思ったんだ。それか夢吸いとか? ちょっと俺の知ってる姿じゃないけどあっちゃんがいるし。でも、武々夫も半田くんも元気そうだし、机のメモに三人で食べる鍋の具があるのが一番びっくりした。で、多分、俺は弾かれたなって」
 ぎょっとしている二人の顔を焼き付けるように見つめて、トオルは笑う。
「死んだ後に、神様が粋なご褒美見せてくれてるんだと思ってた」
「し、死んだって」
 顔を歪めて狼狽えるミカエラを落ち着かせるように肩を叩き、ミカ兄寒くないの? と笑う。
「大丈夫、この身体はなんともないよ。でも俺は……」
「トオル……」
 目にいっぱいに涙を溜めたミカエラがトオルを抱き寄せる。
「ああ俺死んだ、って思って目を閉じて、目が覚めたらあっちゃんが居てびっくりしたよ」
 三人から目を向けられたあっちゃんがつたなく頷く。
「たすけて って いわ れて」
「エ、じゃあ、あっちゃんが連れてきてくれたの?」
「おに ちゃんも いいよ って」
「この世界の俺も同意済みだったんだ!?」
 トオルが目を丸くする。
「流石に下半身ぶっ飛ばして、支配と洗脳無理矢理ぶっちぎったら、身体も精神も死んでると思うんだけど。大丈夫か……? いや、大丈夫だから俺此処にいるんだと思うんだけど。血呑んで回復してる気がするし……?」
 衝撃的な言葉に、遂にミカエラの涙腺が決壊した。トオルの肩に縋り付いて嗚咽を漏らすミカエラを宥める。
「……トオル」
 黙ってトオルの話を聞いていたケンが低く呟く。
「お前を殺したのは、俺たちか?」
「え」
「は……?」
「俺たちがお前を……? 結界でお前を吹き飛ばして、俺たちの洗脳で……?」
 吐きそうな顔で口元を押さえて、ケンが呻く。それを見て、トオルは心底深々と溜息を吐いた。
「……なんでそう……ケン兄。いや俺だって死ぬつもりはなかったけどね」
 トオルを護るように抱きしめているミカエラの涙で着物の肩口はもうぐっしょりと濡れていた。
「もう、ほんと……ミカ兄ってそんなに泣き虫なの知らなかったし、ケン兄がそんなに察しがいいのは知らなかったよ」
 ケンが頽れるようにしゃがみ込み、ミカエラごとトオルを抱き寄せる。トオルはその大きい背中を宥めた。
 吸血鬼の戦火に飛び込んだのは殆どトオルのわがままだった。兄たちの殺し合う姿などみたくなかったのだ。吸血鬼よるの覇権も、人間ひるの叛逆も何もかもトオルには関係が無かった。遙か昔の夜のように、三人で仲良く静かに暮らしていければそれだけで十分だった。
 ミカエラの首を落とさんとする不可侵の結界とねじ伏せようとする催眠、ケンへの憎悪と執着を詰め込んだ吸血支配。その全てをその身に受けて、トオルは一度死んだはずだった。
「こんなアイデアロール成功したくなかったっつの……」
「俺の冗談だって思わねえの? 催眠とか」
「お前は俺にンな嘘吐けねェだろ。つーか、俺に催眠かけたかったら、Y談のおっさんレベルじゃねえと無理だよ」
「Y談?」
 長兄の催眠能力も結界能力もこの平和な世界でも衰えるものではないらしい。それでも、それを戦いに行使せずに過ごせているのだろう。
「はー……」
 ぐ、っとトオルをきつく抱擁したあと、ケンが鼻を啜りながら立ち上がって目元を拭う。気恥ずかしさからか珍しく耳を赤くさせていた。
「あー、お兄ちゃんかっこ悪い……。もう夜も更けてるし、いっぺん帰ろう。ほれ、ミカも立った立った」
「腰が抜けて立てない……兄さん」
 真っ赤に泣きはらした顔で泣きつくミカエラを呆れ顔のケンが両脇を抱えて引っ張り起こす。
「お前ねえ」
「あ、家って病院でいいの? それともガブリエラの屋敷?」
「「は?」」
 ぎょっとした二人の声が揃ってトオルが首を傾げる。
「ちげーの?」
「ち、違えけど。つーかガブリエラ?」
「えっ、もしかして親父じゃねえ?」
「親父!? あっ、だからガブリエラなんだ!? 」
 凄えソレ一番異世界感ある、とケンが口角を引きつらせ、ミカエラもこくこくと同意した。

**

 夜明け前に戻った病院の宿直室で四人は机を囲む。
 なんとなく状況を理解しているらしいあっちゃんの言うことを解読すれば、どこかのあっちゃんのお願いをこの世界のトオルが叶えた形になるらしい。
「つまり、トオルは、此処に居るトオルの世界に、幽霊みたいな形で行っちまったと。一回……崩壊した精神を再構築するのに、ここが丁度良かったから。ね」
 ケンはきつく眉を寄せながら、纏めた紙を眺めて溜息を吐く。怒っているような顔だが、怒っているわけではないことは分かる。
「我がことながら、大丈夫かな、ここの俺」
「賢弟のことだ、何か策があってのことだろう」
 多分、きっと……とミカエラが納得させようと
ぶつぶつと呟いているのを見ながらトオルが苦笑する。
「まあ、俺の事だしあっちゃんたちに頼まれてホイホイ付いてった可能性もなくはないけどね」
「トオルはあっちゃんに甘いからな……。まあ、様子見て、今晩VRCに行ってみようぜ」
「あのサイコ所長に借りを作るのは業腹だが、仕方ないな」
「いや、そんなに時間は掛かんないよ」
 兄たちの視線を受けて、トオルはひらひらと袖を振って自分を指さす。
「だって、俺今精神崩壊してるように見える?」
「──見えねえな」
「ね。目的自体は達成してんの。俺の目が覚めてるからね。身体の方は分かんねえけど、こっちの俺がほいほい行ってる時点で多分大丈夫、そっちも回復したんだと思う」
 ケンが漸く肩の力を抜いて、くしゃりと顔を歪めて笑う。ずっと張っていた肩肘の力が漸く抜けたようだった。ひしゃげるように机に突っ伏す。
「なんだ……、良かった」
「心配掛けて、悪い弟だねえ」
 トオルがくすくすと笑う。
「ということは、お前も、こっちのトオルも無事に帰ってくるんだな」
 ミカエラもほっと顔を緩める。
「うん──ほら来た」
 心臓に針を引っかけられたような差し込む痛みの直後に、釣り上げられる感覚がする。
 ぐら、と見える世界が揺れる。電球は揺れていないのに、身体が揺れて引っ張られる感覚がする。あちら側とこちら側に引っ張られる感覚は、身体を半分にされるような痛みを伴う。
 忘れていたが、一度味わった感覚だ。
「ぐ、ッ……っ」
「トオル!」
──トオル!
 余裕のないケンとミカエラの声が二重に聞こえる。
 意識が暗闇に落ちる。
 咄嗟に伸ばした手を、妹分が捕まえる。
「わたしが あんな い するよ」
「うん、あっちゃん。帰ろうか」
 ぎゅっと手を握られて引かれて歩く。
 泣き出しそうなほど優しい世界に別れを告げる。あっちゃんに手を引かれて駆け出すどこともしれぬ道で、一人の吸血鬼とすれ違う。
 鏡写しの顔で、吸血鬼二人は顔を見合わせる。
「俺ね、三人で静かに暮らせていたらそれでいいんだ」
「俺もそうだよ!」
 似たような顔をした男がトオルの背中を叩く。
「頑張れ! あんまりミカ兄泣かせんなよ。ケン兄と取り持ってやってくれよ」
「……お前はあんまり二人に心配掛けんな」
 優しい世界の自分はトオルの忠告にけらけらと笑う。
「それで助かったくせに」
「吸血鬼じゃなかったら死んでたね」
 道の先から声が聞こえる。
 優しくない、嘘みたいに哀しく苦しいことばかりの世界の兄たちが、必死に自分を呼んでいる。
 どんな世界でも、己が足を付けて戦う世界だ。兄弟三人で生きる夢を見たのは、あの世界だ。
「ケン兄とミカ兄によろしく」
 その気持ちだけは、どこの自分でも同じなのだろう。自分は真摯に頷き、拳をぶつける。
「お前もね」
 まったく逆方向に同じ心を分けあった二人は振り返ることなく、妹に手を引かれて去って行く。
もう二度と交わることのない、一夜の幻はこれで終わり。
 新横浜の騒がしい夜にあっという間に紛れて消えていく幻だった。

 

「んん……、おはよう、ケン兄、ミカ兄」
 棺桶から大きく伸びをしてトオルは身を起こす。いつものじゃんけ柄の着物もそのままの長兄がはっとちゃぶ台から顔を上げる。
「お、おう」
 目の下に隈を作った兄が、ぎこちなくトオルを覗き込む。駆け寄ってきたミカエラのひんやりとした手に頬を挟まれて、トオルは肩を竦めた。
「俺だって。ちゃんと帰ってきたよ」
「……だな」
 ほっと息を吐いてケンが立ち上がる。いつもよりよれっとした背中に、トオルは心配かけたなあ、と思う。
 聡い兄のことだ、彼方の世界のトオルの惨状もきっとわりと正確に把握してひとり傷付いてしまっていたのだろう。
「トオル……、その、鍋の材料、買ってきておいたぜ」
 ビニル袋を覗き込めば、キムチ鍋の材料が揃っていた。
「いいねえ、キムチ鍋。ミカ兄、なんかしゃべってよ」
「とうふとはんぺんをいれよう」
 きっとこちらの次兄は一晩中ずっと緊張していたのだろう。ほぐれて駄目になってしまっているミカエラをそのまま背中に貼り付けて引きずりながらトオルはケンの背を追う。
「おか えり」
「うん、ただいま、あっちゃん」
 とても頑張った妹を撫でてトオルは笑う。
「ミカ兄、重いよ」
「うん……」
 トオルは仕方なくミカエラを背負い直して、そのまま冷蔵庫に袋の中身を仕舞っている最中の兄の背中に体重を掛けた。
「ぎゃあ! 重ェわ!」
「愚兄め、重いとかトオルに言うんじゃ無い!」
「お前も重ェんだよ! のけのけ愚弟ども!」
 ぎゃんぎゃんと自分を挟んで言い合う二人を聞き流しながら、余計にぐっとケンに体重を掛ける。
「はあ……」
 あの世界での二人を見てしまった分だけ、こうして言い合いができる二人に酷くほっとする。
 自分を挟んで言い合いをしている位でいいのだ、自分たちは。言い合いも出来ない関係なんて、哀しいだけだ。それを含めての激励だったのだが、伝わっていただろうか。
 まあ、俺のことだからきっと大丈夫だろう。
 トオルの溜息を耳ざとく聞きつけた二人がぴたりと言い合いを止める。心配げに、違う顔の同じ表情でトオルの顔を覗き込む。
 むずがゆくなる位に愛されている。
 それが泣き出しそうなほど嬉しかったことをトオルは決して口にはしなかった。
 そんなことは言わなくても当然なので。 

 

→嘘のように哀しい世界にて