「行け」
目の前の赤い背を押す。青い目が悲愴な色を乗せて自分を見る。
それがなんだかおかしくて、ショットは自分の顔が笑ってしまったのが分かった。
「冗談……」
「おいおい、ショットさんはいつでも生真面目ショットさんだぜ。いいから、此処は任せろ」
「この数をお前だけじゃ……」
「なんだよ、随分だな」
うぞうぞと集まってくる屍鬼だか、人もどきだか何か分からぬヒトガタを一体打ち落として肩を竦めた。
このビルの屋上にロナルドの追い求めた吸血鬼がいる。
「行けよ。ここで足止め喰らってたら、“最後の円卓”が逃げる。雑魚はこっちで相手してやるさ」
「ナメてくれるなあ」
からからと軽い笑い声が、ビルのワンフロアを埋め尽くすほどの屍鬼の後ろから聞こえてくる。円卓には及ばずとも、かなり古い血の高等吸血鬼だ。
──二人がかりでも勝てるか分からない。
「行け！」
高等吸血鬼の登場に躊躇するロナルドを怒鳴りつける。
「お前の使命は何だ。そのためにここまで来たんだろ！」
優しい退治人の目が揺れる。
そうだ、この男には役目がある。それはショットのものとは比べものにならないほど重いもので、人と吸血鬼の道を照らすだろう。
それに何より、この先に彼の兄がいるのだ。
竜大公の円卓の末席に名を連ねた──円卓の空席を埋めた彼の大事な兄が。
彼の兄に会う好機は、今を逃せばいつ訪れるか分からない。彼に会う、そのためにこの友がどれだけ駆け抜けてきたか、ショットは知っている。
周りの敵を銀のワイヤーを編み込んだロープで一掃する。屍商人から安く買った屍鬼だろう、脆いものだった。
屍商人自身やマナが使役する屍鬼はこんなものではない。だが、数は圧倒的だった。
「必ず戻る」
「おう。お前が戻る頃にはとっくに終わってるだろうけどさ」
ふ、と吐息のような笑い声を最後に、赤い背中が去って行く。
ショットは横目にそれを見届けて、細く息を吐いた。高等吸血鬼は未だ余裕ぶった顔で屍鬼を差し向けてくる。
人を血袋としてしか見ない目を見返して、ショットは問いかける。
「なんであいつらばっかり、あんな重てえもん負わされなきゃいけねえんだろうな」
屍鬼を崩す度に床に塵が積もる。吸血鬼の塵を踏みにじって戦い続ける。
こんな軽いものでも、積もって積もって重たく背にのしかかっていくのに、それ以上に重いものを歯を食いしばって負い続ける人間や吸血鬼がいる。人も吸血鬼も、必死に光を目指して駆けている。
ショットには眩しくて目が眩むようだった。
──そいつらの暮らす街が、今や自分の故郷となった。
銀のフックが屍鬼の首を掻き切って滅ぼす。銀のワイヤーで動きを止めればそのまま焼け落ちる。生き物のように動くフックショットは縦横無尽に屍鬼を屠った。
着実に減っていく屍鬼に高等吸血鬼の顔色がよりいっそう悪くなる。
だが、数に押されてショットも傷を負っていく。 高等吸血鬼を銀のワイヤーで縛り上げ、意識を失わせた頃にはショットは既に満身創痍であった。
紅銀の流星が真っ暗闇を飛んでいく。星空すら見えぬ闇を裂いて飛ぶ人影と微かに聞こえる享楽的な哄笑に、ショットは眉を下げた。
かつて人にして吸血鬼、太陽を裏切った彼の兄を、ロナルドは仕留め損ねたらしい。
──だめだったかぁ。
少しでも話はできただろうか。ロナルドの兄はロナルドになんと答えただろう。彼は──彼らは無事だろうか。
思うことは様々にあれど、ショットの体はショットの意に反してぴくりとも動かない。壁にもたれて座っているのでやっとだ。
息をする度に肋に激痛が入るので、どこかで折れたのだろう。
「──どうしてそこまでするのよ」
視線だけを上げれば、額に傷のある師が困った顔で佇んでいた。
「シーニャ」
夢、だろうか。
ここにいるはずのない人に、ショットは思わず笑みが浮かぶ。今どうしているかも分からぬ人だ。生きているかも、死んでいるかもショットには分からない。
「なに笑ってるの。死ぬところよ」
「うん」
「どうして、戦い続けるの。もう十分よ。アンタに戦う理由なんてないでしょ」
「でも、ほっとけねえもん。いいだろ、俺の背中は軽いから、あいつらの荷物を少しだけ支えてやれるんだ」
「……良い男になったわね」
しゃがみ込んだシーニャに子どものように頭を撫でられて、ショットは甘んじてそれを享受した。昔はそうされる度にはねのけたものだったが、あのときの自分は幼かったのだ。
「アンタにそう思ってもらえるなら光栄だな」
サングラスの奥の目が悲しげに細められた。
「馬鹿ね」
「知ってる」
変な音のする息を吐き出して、ショットは笑った。
「おやすみなさい。朝はまだ来ないわ」
シーニャの声に誘われるように目の端から昏くなっていく。
師の言葉は正しい。
長い夜の帳はまだ開けない。
軽い背・終