ジェルマ66の白い棺

──死んでしまえばいいと思った。情すら持たないひとでなし﹅﹅﹅﹅﹅達を、いつしか血のつながった弟と思うことが出来なくなっていた。血も涙も無く、戦争に赴いて人を殺して笑う。涙など見たことも無い。恐ろしく強いくせに、その強さを暴力にしか使わない化けものたち。強いからこそ逆らえない。父に、王国に使われるだけの殺戮兵器。
 死んでしまった方が、母も弟も報われると思ったのだ。

ジェルマ66の白い棺

 優しい花の香りと、懐かしさをかき立てるノスタルジックなオルゴールの音色が響く白い病室。花の香はジェルマ王城の花畑に広がるそれを思い出させ、オルゴールの音は母のものとよく似ていた。
 そこに広がる光景にサンジは言葉を無くした。
「なんだ、これ──」
 絶句するサンジに、目の前の兄弟は目をそらした。一人壁に凭れて立っていた姉はサンジに咎めるような目を向けた。花の唇から深いため息が漏れる。
「……付いて来ちゃったのね」
 サンジの手元にだらりと提げられてしまったバスケットでだいたいの事情を察したのだろう、レイジュはそれ以上は言わずにサンジに椅子を勧めた。ここまで気づかなかったのはレイジュの落ち度だ。
「そう、デザートを持ってきてくれたの。国の端こんなところまで来なくても、兵達に言付けてくれたら良かったのよ」
 呆然としているサンジから勝手にバスケットを受け取ると、レイジュは部屋のテーブルにそのバスケットの中身を並べた。美しく飾られた四種類のデザートは、作り手の心のように今は美しい形を崩してしまっている。
 勧められるまま、サンジは断ることも出来ずに丸椅子に腰掛ける三番目の弟は、項垂れたまま白い床を見つめている。白い床に、親の敵でもいるような形相を向けている。
 それもそうだろう、彼は今、正面を向けない。それが哀れであると同時に、度を超えて優しい弟をいとおしくも思う。
 サンジがぼそりと口を開く。膝に乗せられた拳が行き場を無くしてきつく握られている。
──可愛そうに。
 レイジュはサンジの前に立ってその頭を撫でてやりたかった。
「……直接渡して、うちの船長の命の件、改めて礼を言おうと……」
「気にしなくていいのに」
 そんな事のために、こんな忌み嫌っている国へ足を踏み入れる弟に、すこし呆れてしまう。
 万一ジャッジに見られでもしたら、彼の心労たるやいかほどになるか。たとえ、家族というしがらみを振り切ったと思っていても、ジャッジに冷たい言葉を掛けられれば、このやさしい子が心を痛めないはずがない。
 彼のためを思うなら、すぐにでもこの国から出した方が良いのだ。
 レイジュが口を開く前に、吐き捨てるように告げたのはベッドの上の
一番目の弟だった。
「さっさと出て行け」
 ベッドの上にも関わらず尊大な声音に、サンジの目がキッと尖ってイチジを睨み付ける。イチジはサンジの睨め付けなど気にもとめずに鼻で笑う。それに追従するようにニジが頷く。
「そうさ。早くこの国から出て行けよ」
 ニジの揶揄する言葉に頷き、ヨンジも言葉を継いだ。
「そうだそーだ。こんなとこ居たって碌な目に遭わねえぜ。早いとこお前の船に帰った方が良い」
「は?」
 サンジが裏返った声を上げる。サンジがヨンジをその蒼い眼で凝視する。ヨンジはきょとんとして首を傾げる。その仕草も、きっとサンジの違和感を駆り立てたのだろう。
 あまりに穏やかな弟。サンジは探るような眼をヨンジに向ける。
 レイジュ汲んだ腕に指を押しつけながらじっと見つめた。どう動くのか、もはやレイジュには分からない。そもそもイチジが彼に対して声を出したことも想定外だった。
 サンジがさらに追求する前にニジが声を張り上げる。
「おいヨンジ」
 叱責の声に、ヨンジがはっと我に返って眉間に皺を寄せる。
「ん? あっ……。今のはなんでもねェ。さっさと出てけよ!」
 ヨンジが慌てて取り繕って吐き捨てる、サンジがヨンジを睨み付ける。出て行け、出来損ない──とイチジが重ねるように吐き捨てる。その言葉にサンジは傷つくだろう。案の定顔を背けたサンジに、レイジュは重ねてため息を吐いた。
「……すぐに帰るさ。おれの帰る場所はこんな腐った国じゃねえ」
 椅子から立ち上がったサンジは顔を曇らせるとキン、とジッポを鳴らして咥えた煙草に火を近づける。知らぬうちに随分とヘビースモーカーになっていた弟をレイジュは失念していた。
「あっ」
 三人の弟の誰のものかは知れぬあえかな声がする。
 咄嗟にレイジュの手がサンジのジッポを掴む手を止めた。火芯をつまんで火を消したレイジュに、サンジは胡乱げな目を向ける。
「あ?」
「ごめんなさい、サンジ。ここでは止めて。匂い﹅﹅が消えてしまう」
「匂い?」
 レイジュが止めるまもなく、サンジの鼻が反射的に動いてしまう。しまった、とレイジュが止める間もなく、サンジは部屋に充満する香りを分析する。食材の匂いではないにしても、万国トットランド一の料理人の隠し味まで嗅ぎ取る嗅覚で集中されれば、おそらく分からないものではない。
 漂う香り──科学的に調香された、麻酔成分の微量に含まれたこの香りに。
──麻酔だけではない。常人には全く作用しない、特殊な神経毒の香りに。
 気がついてしまったのだろう。
 ぽろりとサンジの口から煙草が落ちた。
「……なんだコレ……」
 サンジは理解が及ばないとばかりに、呆然と呟く。聡い子だ。気がついてしまうかもしれないとは、この部屋を見つけられたときに感じていたが、まさか自分がその引き金を引いてしまうとは。己の迂闊さにレイジュは歯がみをしそうな心地で、サンジを見上げる。
「大丈夫、サンジにも私にもこれは作用しない」
「じゃあ、誰に──、いや愚問だな。こいつらにか」
「ええ。そうよ」
 サンジの探るような視線に応じて、レイジュは殊更優しく微笑んだ。後ろの三人の弟が、微かに固唾を呑んで見守っているのを感じる。
「……こっちで話すわ。イチジ、ニジ、ヨンジおとなしくしてなさいね」
「……レイジュ」
 イチジのサングラス越しの視線が訴えかけてくる。微笑んでみせたが、きっと自分の顔は強ばっていたのだろう。イチジとヨンジの顔が曇る。
──ごめんなさいね。
 レイジュは内心で謝ってサンジをその白い檻から連れ出した。

***

 白い病室の隣。白い部屋からは壁にしか見えなかった場所の一部は隠し窓になっていて、イチジたちの様子が見えた。計器や試薬の並んだ小さな部屋はレイジュの秘密の研究室だった。テーブルに並ぶラベルの貼られた薬と、調合の痕跡を隠す間はなかった。サンジはそれらを一瞥して、荒い息を押さえようとして失敗していた。
「座りなさい」
 レイジュに促されるままにサンジは椅子に崩れ落ちるように座り込む。レイジュは窓を覗き込んで弟たちの様子を窺った。
 サンジとレイジュが居なくなったからだろうか、三人の体の強ばりが融けているように感じる。
 その様子にほっと息を吐き、サンジを振り返った。
「──レイジュ、説明してくれ」
 絞り出すような声。
「ええ、話せることは全部教えてあげる。あと、ここでなら煙草吸っても大丈夫よ」
 レイジュの許しを得て、サンジが紫煙を深く呑み込む。震える唇から細く吐かれた煙が、木造の天井に当たって消える。鼻を掠めた煙の苦さが妙に舌に残った。
「……いつから」
 サンジが吐き捨てるように呟く。
「あの子達が10歳になった時からね」
 レイジュは淡々と告げた。淡々と、なんの感情も持たないように言わなければならない。
 サンジは目を閉じて目をそらす。
 その瞼の裏に何が浮かんでいるのか、レイジュにはよく分かった。
 あの白い檻の中の兄弟の姿だ。
 あの子達は普段通りの声を出していたが──その光景は明らかに異常だった。
 あの子たちは見られたくなかっただろう。特に、サンジにはきっと一番見られたくなかった姿だ。
「腕が……眼が、身体が──」
 泣いているような震える声に、レイジュはそっとサンジの背を撫でた。 サンジも見るべきではなかった。知るべきでは無かった。
 毒の充満した白い部屋の中、並べられた三台のベッド。身じろぎもほとんど出来ないような状態で、ベッドの住人と化していた兄弟。
 外骨格を持ち、血統因子を操作された兄弟達がまるで病人のように伏せる姿など、サンジは見たことが無いはずだ。煙草のフィルターに歯形が残った。
「どうして……」

 彼の当然の問いかけに、淡淡と答えようとして口ごもる。感情が喉を塞いでろくな言葉が出てこない。
「あ、あの子達ね。10歳になったころから、改造手術を何度も受けてるの。外骨格を残したままレイドスーツに体が適合するように。私も同じ」
 レイジュの目が窓の向こう側を眺める。サンジも釣られて白い部屋を見る。
──なあ、ニジ。
 首を傾けて、ヨンジがニジを呼ぶ。 彼の腕はぴくりともしない。
「ウインチってね……、ヨンジあのこの腕を外骨格ごと切り落として、繋げたの……」
 声は聞こえないが、レイジュもサンジも読唇くらいのことは簡単にできる。
 サンジは息を詰める。煙草を吸おうとした指が、フィルターを握りつぶしてしまっている。ジッポは空回りするばかりで火をつけることができない。
 今まで彼が受けてきた暴力などとは違う、根本的な恐怖から逃れることも出来ず、ガラス越しの会話を、姉弟は見る。
──サンジ、元気そうだったな。
「イチジは、スパークルで体中の神経が焼き切れているから、殆ど動けない……」
──やっとあいつが自由になれたってのに、なんで来たんだか。
 ニジがため息を吐いた。
「ニジは、彼の速度に対応できる義眼に、両目とも代わってる……」
 ヨンジをイチジが咎める。
──それに口が滑りすぎだぞ、ヨンジ。
──悪ィ悪ィ、ここだとどうしてもなァ。
 穏やかな顔でヨンジが苦笑する。
 サンジは吐きそうな顔で頭を抱えた。その表情はまるで自分を鏡で見ているようだった。
 ヨンジがそんな顔をするのを、サンジは生まれてこの方見たことが無い。
 サンジの中での確信が、はっきりと固まる。それはあまりに恐ろしく吐き気の催す想像だった。震えそうになる体を片腕で押さえ、レイジュをすがるように見上げる。
「感情、あいつらに、人間と同じような情は無いんじゃ、無いのか」
「あの部屋の外では無いわ。この部屋に満ちた神経毒と、音による催眠で、あの子達のいじくられた脳を人間のそれに近づけているだけ」
 息苦しさに喘ぐように問うサンジに、レイジュはきっぱりと答える。
 神経に作用する香りにひそませた神経毒。
 耳の底にこびりつくような郷愁を誘う音楽。
 ヨンジの滑らせた言葉、ホールケーキ・アイランドではあれだけサンジを国に留めて置きたがりながら、今は手のひらを返したようにすぐに返したがった三人。
 それら全ての理由に、サンジは膝から力が抜けていくような気がした。
 地獄のようだった。この国で受けたサンジの仕打ちが、可愛いもののように思える。自分の体験が、あの恐ろしい幼少期が幸せだったとは口が裂けても言えないが、この姉のおかげで自分は素晴らしい父親に出会うことが出来た。母に愛されていた事も覚えている。その全てを乗り越え、今サンジは海賊王となる男の、千の太陽を越える船に乗っている。
「……どういうことだよ……、あいつら、あの部屋でだけ感情があるって? 体は全部、機械に繋がれて……? 機械を外されたら動くこともままならねえ? まるで道具じゃねえか、あの人は、ジャッジはこのことを知ってンのか」
「私があの子達で実験を始めたのは五年前。父上はこの部屋のことは知らないわ……。体のことは知ってるけど。それにホールケーキアイランドからこの方、あの子達を見ようともしない。恐ろしい化け物を見るような目であの子達を見るのよ。死をも恐れぬように作ったのは父上なのにね」
 レイジュは笑う。涙も涸れ果てたというような笑みに、サンジの胸が酷い痛みを訴えた。
「本当はアンタにこのことを伝えるつもりは無かった。優しい子だから気に病むだろうとおもって。サンジ、アンタがそんな顔することないのに」
 レイジュの手のひらがサンジの頬を撫でる。金色の髪に指先を突っ込んで優しく撫でられている。その手をぐい、と払って、サンジはため息を吐いた。
「止せよ」
「あら残念」
 レイジュの視線から逃れるように、ガラスの向こうに目を向ける。
 いつの間にかニジがふらふらと立ち上がり、数日前の世界経済新聞をヨンジの前に広げている。その中の1ページをヨンジが朗読していた。海の戦士ソラ、と彼が読む。
──カモメはソラに告げる。「ソラ、ジェルマ66の野望が聞こえるぜ。あんなに懲らしめてやったのに」「またか。全く、ジェルマ66ってやつらは懲りることを知らねェらしい」
──ヨンジ、もう少し大きい声で読んでくれ、聞こえ難い。
──イチジ、お前耳が……。
 ニジが眉を寄せてイチジに声を掛ける。
──耳元で大砲が破裂しただけで、一時的なものだ。どうせヘッドフォンを装備すれば、普通の耳より聞こえるようになる。
──また耳かあ。
 ニジの言葉に、イチジは頷く。
──今度こそ、取り替えられちまうかな。
──ははは。おれなんてもう殆ど残ってねえや。
 ニジの視線は、サングラスであっても分かるほどにイチジの方を向こうとしながらも場所がずれていた。ヨンジは声を大きくして朗読を続ける。
 ニジの目は、本当に何も見えていないのだとサンジは理解してしまった。そして、ヨンジとイチジは動けないのだ。そんなことも分かってしまって、サンジは頭を殴られたような衝撃を受けた。
──「戦争ばかりを繰り返し、人を人とも思わねえ、あの非道な組織を今度こそ止めてみせる。それがおれの使命だ」そういってソラは立ち上がった。カモメは大きく羽ばたいて蒼く広がる空に輪を描き、彼の再びの戦いを祝福する。人はだれも彼のことを知りはしない。ソラの戦いを知っているのは、常に正義の心と蒼く広がる空ばかり。カモメとロボット兵だけを共につれて、ソラは次の島に向かう。その島は、シフォンケーキ諸島。美しき女王の治める、万物の暮らす楽園と呼ばれる国だった。次号へ続く。……おいおいおい、モルガンズのやつ、ビック・マムが怖くねえのかな。
 ヨンジが穏やかに笑う。
──美女と言ってるんだ、これもおべっかだろう。
 イチジの軽口にニジが声を立てて笑う。
──ははははっ。そりゃいいや。じゃあ次はきっとサンジがでてくるぜ。モルガンズの奴、サンジについても嗅ぎ回ってたからな。
 ステルスブラックが云々と三人が話す。ふと言葉が途切れる。
──あいつがヴィンスモークの血を引いてること、ばれちまったなあ。あの変な似顔絵ならバレねえと思ったんだけどなあ……
 ヨンジの言葉に、二人が黙り込む。
──可愛そうにな……。
 ぽつりとイチジが呟いた。サンジは己の読唇術を疑った。だが、涙をこぼさんばかりの兄弟の姿は、間違いなく現実であった。
──可愛そうになあ。
 イチジはヨンジたちから顔を背けて泣いている。顔をくしゃくしゃにして、悲しげだった。涙は零れてはいないが、泣いているのだ。なぜだかサンジには分かった。
 サンジのために、サンジを思って、この恐ろしい第一王子が泣いている。
 そうしていると、まるで母の涙のようだった。
──あいつ、やっと、やっとこんなクソみたいな家から解放されたのになあ……。手配書にヴィンスモークなんて付けられちまって……。
──泣くなよ、イチジ。
 ヨンジが、泣きそうな顔で口を開く。
──そんな機能付いてねえ。いや、今更、あいつのこと散々虐げたおれ達がいえる話じゃないな。
 顔を二人から背けたイチジは、丁度サンジとレイジュの居る窓の方を向いている。歯を食いしばって苦しげな表情を浮かべる兄を、サンジは呆然と見つめた。
──この「心」を持ったまま外に出られりゃ、あいつのこと自由にしてやれるのになあ。
──おれ達が「心」を持ってねえ、出来損ないなのが悪いのさ。
 ニジとヨンジが諦めたように呟く。 レイジュと同じ──そして自分と同じ、涙も涸れ果てて久しい弱々しい笑みだった。
 サンジが見ていられたのはそこまでだった。ガラスに手を付いたまま、膝が震えてしゃがみ込む。肩を抱くようにレイジュが寄り添う。
「これが、本当にあいつらなのか……?」
「……どうなのかしら」
 レイジュは、はは、と渇いた笑いを立てた。
「本当はね、殺そうと思ったのよ」
 驚いてレイジュを見上げれば、レイジュは泣き笑いを失敗したような顔で鼻を啜る。
「どんどん人間だったところがなくなっていくの、あいつら。感情なんてもともと無い。人ばっかり殺し回って、どんどん改造が進んで化け物になっていくあいつらが怖くて」
──だから、毒で殺してやろうと思ったのだ。
 と姉が告白する。青ざめた悲しい微笑みだった。気丈に微笑んでみせる姉が痛ましく、サンジは何も言えない。
 どれほど苦しんでいたのだろう。この地獄のような国の中で、この優しい姉はどれほど悲しんでいたのだろう。
「父に逆らえない体で、でもこの子達がどんどん人を離れていくのが怖くて」
 レイジュの白い指先が、机の上の小さな瓶を揺らす。
「普通の神経毒なんて効かないから、この子たちにも効くくらいの毒を調合して、お茶に混ぜて飲ませたの。眠るように死ねるように──私も一緒に」
 自暴自棄だった。よく考えもしないであの頃の自分で作れる限り強力な毒を作った。天国にいる優しい母には会えずとも、この世の地獄よりはマシな場所へ行けるだろうと夢を見て。
 レイジュの声が擦れて途切れる。それでもサンジに説明するために姉は言葉を続けた。
「そしたら、あの子達、いきなり私のカップをたたき落としたのよ。『毒が入っているから飲まないほうが良いぞ』『大丈夫か? 飲んでないか?』って……」
 あの子達がするはずのない、心配してるような顔で、言うのよ。
 動揺したレイジュはその後も繰り返し同じ毒を使った。殺すためではなく──調べるために。
「あの子達の血統因子の操作は脳神経の伝達阻害を含んでるの。伝達を阻害するタンパク質を、この毒が一時的に融かしたんだって後で分かった。気が狂いそうだったけど、もっとおかしくなったのはあの子達……」
「……おかしく……」
「壊れてしまったのよ。繰り返し毒を飲ませて、無理矢理心を作るうちに、三人とも壊れちゃった。積み重なった罪悪感、恐怖、悲しみ……あの子達の心が受け取ってこなかった感情にパンクして、毒を受けたときに現れる『感情を持つ自分』と『感情を持たない兵器』に乖離してしまった。此処にいる時は、全てを覚えているけど、ここから出れば全て忘れる。最近ようやく、ここにいても穏やかに過ごせるようになった……」
──喜びや、慈しみ、幸せを感じる寄りも先に、重たすぎる負の感情に壊れた兄弟。今まで無かった哀れみや慈しみを知れば己の所業に苦しむ他にない。
 感情を持つことは、ただただ苦しみをもたらしたのだと姉ははき出す。
「それでも、あの子達がメンテナンスに入る度に此処に連れてきては、苦しませている……もう四年になるかしら。音は催眠、香りは毒──」
 レイジュは窓をそっと撫でた。その横顔はひどくやつれて見えて、サンジは口を引き結んだ。
 苦しみを飲みこんで、穏やかに感情を教授することが出来るようになったのはほんの最近のことだ。
 ただ雑談をして、穏やかに笑っている兄弟。色が違うだけで、よく似た顔をしている。
 四つ子なのだから当然と言えばそうだ。
 感情を奪われなければ、当たり前の普通の兄弟なら──。考えもしなかったもしもがサンジの脳裏をよぎった。ただの港町に生まれて、両親も何も背負わない人間で、普通に生まれていれば、あの談笑の中にサンジもいたのだろうか。
「エゴなのよ……。全部私のエゴ……」
「レイジュ……」
「だんだん、薬の効きが弱くなっているの。あと一月も続ければ、この薬も効かなくなって……、それで結局、かりそめの心も二度と現れなくなるわ」
「それは……ッ」
 それはあまりに惨い。レイジュだけが全てを知って苦しみ続けるのだ。 兄弟達も、知らぬ間に与えられた感情を、また知らぬ間に失い──それを知ることもなくまた兵器に戻っていくのだろう。
 重たく苦しい沈黙が降りる。
 ふっと電々虫が鳴る。はっと我に返った表情のレイジュが電電虫を取る。
「──はいレイジュ……。どうしたの、ニジ」
 その名に、サンジは窓から彼等を見る。ニジが部屋の中の電電虫に耳を当てている。
──レイジュ、ヨンジがサンジのケーキ食いてえって。悪いんだけど、取ってくれねえか。
「ええ。良いわよ」 

 レイジュは穏やかに応えるとサンジに別れを告げて部屋を出た。
──おれは味覚なくなっちまったしなあ……。もったいないからお前等食べろ。
 イチジがため息を吐く。
──えっ……まともに〝美味しい〟なんてここに居るときしかわからねえのに……。
 ニジが痛ましげにイチジを見やる。──毒ガス兵器が変なところに効いたみてえ。
──じゃあ取っといてもらえよ。またメンテの時に食えば良いさ。
──次のメンテのときに薬効くといいけどなぁ。
 サンジがまともに聞き続けていられたのは其処までだった。
 窓から眼を引きはがし、小瓶を掴んで、その部屋を後にする。
 なんて、なんて、なんて惨たらしい。
 ゆっくりとした足取りは徐々に勢いを増して、ジェルマ66の電電虫から飛び立つ。
「ああ、ああ、あああ」
 母船サニーの位置をビブルカードで確認しながら、サンジは必死に空を駆けた。頬が風に晒されて冷たく冷えていく。血の気が引くと共に吐き気がこみ上げて、頭が可笑しくなりそうだった。
 嗚咽が零れる。涙が零れる。
 白い部屋、その白い柩──穏やかに微笑む兄弟、泣きはらした姉の笑顔。
 あまりにも、兄弟達が憐れだった。

 

 サニーの甲板に転がり落ちてきたサンジに、船長以下が血相を変える。彼等に大丈夫だと応え、涙を必死に堪え、鼻を啜りながら、サンジは船医を呼んだ。
「チョッパー……、チョッパー!」
「どうしたんだよ! 怪我したのか? 大丈夫か?」
「これ、どうにかもっと効くようにできねえか。兄弟の……クソ兄貴と、クソ弟が……」
 ぼろりと船上では堪えようとした涙がこぼれ落ちて頬を伝った。
「助けてやれねえかなあ……」
 みっともなく泣き崩れたサンジに、チョッパーは力強く頷く。
「……話を聞かせて、サンジ。おれに出来ることならなんでもやるよ。大丈夫、なんたっておれは万能薬になる男だ!」
 その手に握られた小さな小瓶に、サンジはまた喉を詰まらせた。

ジェルマ66の白い棺 完

 

 

 

 

──これはいつかの夢。来るともしれぬ見果てぬ夢

「美味いなあ! サンジ、すげえなあこんな美味しいものを作れるなんてよ」
「レイジュ、おれの分残しておいてくれよ」
「ええ……」
「マジで美味いな……すごいな、こんなに美味いもんなのか。他のも食べてえ」
「おいしい、すごく美味しいわ、サンジ」
「……そりゃよかったよ」