Cigar and Cigarette

 鼻孔に染みこむように、わずかに甘さを含んだ独特の匂いが吹きすさぶ寒風に紛れて疲れ切ったローに届いた。
 海は未だ時化て船は出せない。ごうごうと、盥に張った水をひっくり返しているような異様な高波が海路を阻んでいる。海は高波、島は猛吹雪。大災害の島パンクハザードの名に恥じぬ姿ではあるが、人間としてはたまったものではない。麦わらの一味の航海士の話ではあと一時間もすれば船が出せるほどの晴れ間がでるらしいが、今はまだその気配はローにはわからない。
 ただ、止まぬ吹雪の中で一人、海に面した崖の上でぼんやりと並んだ獅子の顔をもつ海賊船と、その横についている軍艦を見下ろしていた。
 届いた煙の出所を思わず探して振り返れば、いつでも葉巻を銜えた海軍将校が吹雪をものともせぬ様子で仁王立ちでこちらを見ていた。吹雪に断ち切られる煙を葉巻一本どころか、今は紙巻煙草を数本を一度にくゆらせている。医者としてのローが苦言を呈するが、海賊としてのローが筋違いの苦言の口に上らせることはない。
 二つ名も能力も、そしてまとう匂いさえもいがらっぽい海軍将校。その男を思い出すときに、その重たいタールの匂いを想起しないものはいないだろう。
 しかし、ローはぎくりと鬼哭を握る手をこわばらせた。
 知っている匂いだ。
 鼻孔をくすぐるその匂いが、胸を突き刺すような郷愁と苦痛を運んでくる。
 匂いがもたらす声がする。あまりに遠く、懐かしい──いつでも自分の腹の奥にこびりついて背中を押してくれる人の声。
──ウソをついて悪かった……! おまえに嫌われたくなかったもんで……!
──それでも医者かァ!
──ふんばれ! ここが命の正念場だ!
 視界がばちばちと白く明滅する。瞬く間によみがえる、ローの一番星のような光景。その声、その匂い。彼の下手な笑顔。後悔、絶望、希望。
短くなっていく煙草を惜しむように吸い込む横顔。その後でコートを燃やしてひっくり返ったのを幾度見ただろう。
 今自分に降りしきる雪の冷たさが、あの運命の島とオーバーラップして目眩がする。
 ローが立ちすくんでいることに気がついているのかいないのか、紙巻を口に挟んだ将校が感情の読めぬ仏頂面で崖の縁にたつ。
「何してんだ、ロー」
「……白猟屋」
 崖の上から軍艦の様子を眺めながら横目でこちらを伺う。ローはそれに狼狽を隠しきれぬまま応えでもなくその名を呟く。
 なぜ。この男の纏う葉巻の匂いでそんなことを思い出したことはなかった。
「なんだ。おれの顔に何かついてるか」
「──ヤニ臭え」
 なけなしの矜持で動揺を押し殺しながら履き捨てると、白猟──白猟のスモーカーは肩をすくめて眉を顰めた。白い紙巻を揺らす。
「なんだ、今更か」
 今まで、スモーカーの嗜む葉巻の匂いなど気にとめたことがなかった。
 あの人のコートにさえ染み付いた匂いを、この男もまたずっと纏っていたとでもいうのだろうか。
「おい」
「あ?」
「それ、何の銘柄だ」
「何をいきなり」
「いいから答えろ」
 傲慢な海賊に辟易した顔をした将校だが、思いのほか素直にポケットからソフトパッケージの煙草箱を取り出す。投げ渡されたそれを片手で受け取って思いのほかに重くて驚く。
「海賊──いや、海軍の他には出回らねえ身内だけで作ってる“メーヴェ”っつう銘柄だ。煙草と葉巻とあるな。愛喫してる海兵は多い。安いからな。……それやるよ」
 スモーカーはローの手の中の箱を見ながら呟いた。わずかに声が柔らかいのは、それだけこの銘柄に海兵としての愛着があるからだろうか。
 ローは箱の中に指を突っ込んで一本を取り出す。かつての彼は箱をたたくような風に取り出していた気がするが、それができる気はしなかった。
 銘柄の名にふさわしく、ペーパーに見知ったカモメのシルエットが飛んでいる。海賊が吸うには忌避感のある形だ。
「おれが吸ってるのは葉巻。……おれの先輩が好きだったのはそれだな」
「洒落が効いてるな、白猟屋」
 カモメを背負う海兵が吸う、カモメの葉巻。その肺の色まで白いのだろう。この将校は。
「くくっ、おれの先輩とおんなじようなこといいやがる」
 ローの皮肉に、スモーカーは珍しく喉の奥を揺らすように笑った。彼の口の端から白煙が漏れ出して吹雪に断ち切られる前にローに届く。
 ほんの少しの甘い匂いと、潮煙に似た磯の香りと、木の匂い。わずかに泥臭ささえあるそれは決していい匂いとは言いがたい。それでも、やはりその匂いがもたらすのはあの人の思い出だった。
「これ、海軍以外じゃ取り扱いねえのか」
「さァどうだろうな。流通してんのは海軍の酒保ばかりだが、軍艦から持ち出されたり、横流しで流れてたりもするだろう。そんな貴重なもんでもねえからあまり聞かねえが」
 スモーカーは息が白いのだが、煙が白いのだかわからぬようなものを細く吐いた。彼がいつもより少しばかり饒舌で、何かを探るような言葉を選んでいることに気がつかないローではなかったが、その理由はわからなかった。
 眼下では賑わしいG-5の面々と麦わらの一味がともに景気よく出向の準備を整えている。
──もしかしたら、これだったのかもしれねェ。
 ローはぼんやりと手の中で紙巻をもてあそびながら考える。
 脳で記憶のできぬ嗅覚は、それゆえに忘れ果てたはずの記憶を鋭敏に蘇らせるという。それがプルースト効果という名がついていることをローは文献で知っていたし、経験したこともあったが、それでもなお、十三年もの時を経て蘇る記憶は生々しくローの心をかき乱した。
 スモーカーはローから目を離して己の部下の様子を眺めていた。
「……これと同じ煙草しか吸わなかったひとを知っている」
「そうか」
 ローに視線を向けぬまま、スモーカーが相づちを打つ。吹雪にかき消されるのが不思議なほどのひっそりとした声だったが、届いたらしい。
「てめェに海軍の知り合いがいたとはな」
 手慰みにフードを直して頷く。
「──おれを守ってもう死んだ。ドジで、煙草が好きなくせに、よくその火でコートを燃やしてた」
「そうか……そいつがこれ海軍の煙草を」 
嘆息めいた声でローは頷く。妙な感傷がローを饒舌にさせていた。
 十三年だ。彼のために生きてきて、ようやく王手に手がかかるところろまで来てまで、ただ一筋の煙草のにおいに心を乱される。仲間に嘘をついてまで悲願を果たしに来ているというのに、なんて情けないことだろう。
 ローの鋭い舌打ちにどう思ったか、スモーカーが口を開く。
「おれはモクモクの実の能力者だ」
「は?」
 今更自己紹介でもする気かと将校を見上げれば、生真面目な顔のまま肩をすくめられる。
「なれない頃は風が吹くたびに自分が吹き散って元に戻れないような気がしていた。自然系ロギアのコントロールは難しい」
 脈絡を理解できずに険しい顔になったローに、スモーカーはようやく視線を向けて苦笑する。
 たしかに、悪魔の実の能力は使いこなすためには努力がいる。それはローも能力者として重々身にしみていることであるし、わざわざ海軍に指南されるようなことでもない。
 浸っていた感傷を踏みにじられたような気分でにらみあげる。
「そんときだ。先輩に自分の喫んでた煙草を渡された。初めての時はひどく噎せて笑われたもんだ」
「くだらねえ思い出話に付き合う気はねぇぞ」
「くだらねえ煙草の話だろうが」
 煙草の話をし始めたのはおまえだろう、と一蹴される。思いのほかに口の回る男だと初めて知った。
 スモーカーはローの不機嫌な顔をものともせずに話を続ける。
「──そいつに笑われたのが悔しくてな。見返してやろうと吸い始めた。煙と混ざらねえように煙になる訓練も兼ねてな」
 今じゃ立派な愛煙家スモーカーか、と皮肉を言えば、将校は肩をすくめた。
「だが、喫めるようになったと報告する前に、そいつは長期任務に就いた。海賊団への潜入任務で、ドジって、死体で帰ってきたよ。葬式で初披露になるとは思わなかったもんだ」
「──そりゃご愁傷様だ」
 ローはわずかに怯みながら呟いた。
──何の話だ。
 何の話かわからぬのに、ローは将校の言葉を遮ることができなかった。スモーカーの視線が、はっきりとローに向いている。
「『馬鹿な兄貴を止める』といって、単身で潜入して、結局はバレちまったらしい。本当に……ドジだったよ、あの人は」
 訥々と紡がれた言葉に、ローは思わず一歩後ずさった。われかの心地で呆然とスモーカーを見上げる。ローを見下ろすスモーカーもまた、ローと同じほどに乱れた目をしていた。
「ドジで、スカーフをライターの火で焦がしてはバケツをひっくり返す。組み手では鬼のように強かったくせに、終わった瞬間に足を滑らせる。おれが文句を言うたびに、その能力で無理矢理に黙らせやがる。作り笑いが下手すぎて、潜入任務なんかできるのかって思ってたよ。──ドンキホーテ海賊団ファミリーに潜入した、ロシナンテ﹅﹅﹅﹅﹅中佐は」
「……は」
「クク、まさか海賊船でこれを喫んでやがるなんてなァ。あのチェーンスモーカーが」
 見慣れぬ紙巻を燻らせる将校は何を思いだしているのだろうか。フィルターぎりぎりまで大切そうに煙を喫む姿があの人とよく似ていた。
 手の中の小さな紙巻を潰れぬように握る。二の句も継げられぬまま呆然とするローを尻目に、スモーカーはひらりと手を振って背を向けた。
 視界に強い日差しが差して思わず目を眇める。分厚く垂れ込めていたはずの雲が、新世界特有の性急さで陽光に割かれて晴れ間を覗かせていた。
 スモーカーの副官が目敏く上官を見つけて呼びつけている。一時的に同盟を組んだ船長もまた自分を見つけて早く来いと声を上げている。
 互いに乗る船に向けてきびすを返す瞬間、ふと将校がこちらを振り返った。
先輩あのひとは満足してたか」
 答えなどなくても理解しているような顔で問う将校に、ローは何も答えなかった。
 その答えを得るために十三年生きてきて、そしてこれからその答えを奪い返しにいくのだ。
 空はいつの間にか冴え渡り、つかの間の晴れ間を見せている。
 初めて吸った煙草は、ひどく重たいタールで肺を汚した。