親愛なるロシナンテへ

──ずっと誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
ロシナンテは初めて、自分のその気持ちに気がついた。
 正しかったと、それは決して過ちではなかったときっと誰かにそう言って欲しかったのだ。

 

 ”懇親会”も解散し、海賊は海賊船へ、海兵の見張りは交代して遅い夜の帷が落ちる。
 残ったのはセンゴクとローとロシナンテだけだった。
 後甲板に場所を移して、ドルネシアと彼女の幼なじみのサンチョ──かつて想い人を奪われたとロシナンテに突っかかってきた齢5つの少年──の結婚や、ロシナンテの同輩の昇進、ガルチューというミンク族の風習の話。
 尽きぬ話をぽつぽつとしていると、ふとセンゴクが懐から封筒を取り出す。
 それをロシナンテに手渡した。
「ロシナンテ、これを渡しておこう」
 触れただけでも分かる分厚く上等な紙の封筒だった。
 死んだことになっている自分に手紙を送るような相手など今更いるわけもなく、ロシナンテは首を傾げながら宛名を見る。
 ドンキホーテ・ロシナンテと丁寧で流麗な筆記体でフルネームが綴られており、その筆跡には見覚えがない。
 そもそもロシナンテのファミリーネームを知っている人間は限られている。兄のものとも、ロシナンテのファミリーネームを知っている誰の者とも違う筆跡だった。
 不思議に思いながら封筒をひっくり返して、ロシナンテはひゅっと息を詰めた。
「──っ」
「コラさん?」
 のぞき込んできたローに咄嗟に手紙を頭上に掲げて封筒を隠し、ロシナンテはセンゴクに口をとがらせる。
「いや、大丈夫……。びっくりしただけだ。ローがいるときに渡さないでくださいよ、センゴクさん」
 ロシナンテの言い分にローがむっとした顔をして、センゴクが肩をすくめてローを指さした。
「こやつもそれくらいで怖じ気づくタマでもあるまい。お前にどうみえているかは知らんが、三十億の賞金首だぞ。ビッグ・マムを引きずり落とした海賊だ」
「でもセンゴクさん!」
「癪だがセンゴクに一理ある。いまさら実はアンタがなにしても嫌いになんてならねェから安心しろ」
「ロー……!」
 だからほら見せろ、とシャンブルズでロシナンテの手の中にローの持っていたジョッキが捕まれ、ローの手の中に封筒が移る。
  赤い封蝋に押された印璽にロシナンテは目眩がするようだった。
 ──もうとっくに忘れたと思っていたのに、幼い頃に見慣れたそれはたしかにロシナンテの記憶に残っていた。
「これなァ、ドンキホーテの紋章なんだよ」
「へー、これが」
「で、一族におれに手紙なんて書くやつ居ないと思うんですけど……」
「人は変わると言っただろう? ミョスガルド聖からだ」
  ええ……とローから手紙を返してもらったロシナンテが変態でも見たような顔で手紙をつまみ上げる。
「ミョスが手紙ィ? あの馬鹿が? 自分の手で文字書けるかも怪しいのに?」
「散々な言われようだなァ……まァ読んでみなさい」
「コラさんおれも読みたい」
「一旦おれが読んで大丈夫そうならな」
 ロシナンテはパリ、と乾いた封蝋を砕いて中身を取り出す。ふわりと香る柔らかな香の匂いと、手触りが良く、透かしのない真っ白い紙に綴られた丁寧なインクの文字にまず驚く。
「普通の紙だ」
  華美を好む天竜人が、オーダーメイドではなく市井で買い求められる普通の紙で手紙を書くことがまず驚きだった。
  癖があるが、丁寧に綴られている文字は、祐筆に使われる奴隷による代書ではない。焚き込められた香もそう高いものでもないような気がする。
 ロシナンテは封筒を指に挟んで、一枚目に目を落とした。
 書き出しは、こう始まっていた。
 ──親愛なるロシナンテ。

 

 親愛なるロシナンテ
 私のことを覚えているだろうか。
 覚えていたとしてもきっと碌な思い出ではないことと思う。
 私はドンキホーテ・ミョスガルド。
 十年前、リュウグウ王国のオトヒメ王妃によって目を覚まされ今は人間として生きている。
 過去の行いは決して無かったことにはならないが……私はあの頃の私をとても軽蔑している。
 ただきみの親族の一人としてこうしてペンを取っていることをきみが信じてくれることを願い、ここに手紙をしたためている。
 さて、先日はセンゴク元帥よりガープ中将を通じて親書をいただいた。きみが生きていると知り、私は本当に驚いた。
 七武海としてドフィの名は聞いていたけれど、他の家族は皆亡くなったと一族の間ではそういうことになっていたので。
 なので今は世界会議の最中だ。
 きみは無事にこの手紙を読んでくれているだろうか。同封したものを活用してくれれば嬉しい。
 ロシー、きみにこうして手紙を書くことを本当は大変躊躇ったことを告白する。
 私はきみたちに何もしなかった。
 きみはきっと私のことを良く思ってないだろう。むしろ憎んでいるか軽蔑しているかもしれない。そんな相手から手紙を送られてさぞ不快なことだろう。
 かつてのドンキホーテの新年会や、一族の集まりで私は随分きみをいじめていたし(ドフィにやりかえされたことも覚えている)何よりきみたち一家が大変なことになっているときに私は何もしなかった。
 いや、もっと酷いことをしたのだ。
 私はきみたちに興味のひとかけらも向けなかったのだ。
 その残酷さに気付いたのは十三年前、オトヒメ王妃によって、生まれが天竜人であること自体に人の価値はないことを気付かされてからだった。
 すまなかった、ロシー。
 もしあの時、私が父に何か進言していれば、私自身が動いていれば……。
 ああ、こんなのは私の自己満足のための謝罪だ。実際にきみたちに何もしなかったことは今更変えられない。到底許されることではない。
 本当に申し訳なかった。
 不愉快になったらどうか読むのをやめて欲しい。きみに伝えたかったけれど、きみの気持ちが分からないから。
 (一度ペンが止まったのかインクが滲んでいる痕がある)
 ロシナンテ先述したように、私はオトヒメ王妃によって初めて、自分が人であることに気が付いた。
 そのときに、初めてきみの父上の言葉を理解したのだ。あの時には何一つ理解できなかった言葉を私は覚えている。きみたちがマリージョアを離れる前、我々で引き留めていたとき、ホーミング聖は「人間ですよ、昔から」と言っていたことを覚えている。
 あの時の私は愚かで、その意味を理解できなかった。天竜人は神であり、人ではないと思っていたからだ。
 今の私はその言葉の意味を理解できる。
 私は、人間だ。
 天竜人は神じゃない。
 きみはどう思っているだろうか。
 正義に人生を捧げた海軍将校になったと聞いているから、きっとホーミング聖と同じ考えだろうか。
 私などには想像もつかぬほどの苦しい日々を過ごしたと聞いた。天竜人に対する、渦巻き積み重なった人々の怨嗟を受けたのだと。
 だから、こういう私のことを不快に思うかもしれない。
 誰にも言えない気持ちを此処に記すことを許して欲しい。
 ロシー、私はホーミング聖の考えを尊敬している。
 その結末と結果がきみたちに苦しみしか与えなかったとしても、方法が正解ではないのかもしれなくても……。
 ロシー、私は自らを人であると理解した彼を尊敬しているんだ。
 すまない、不快だっただろうか。
 どうしても伝えたくて。
 オトヒメ王妃に出会ってからあの優しい人たちと話をしてみたいと思うようになった。
 今はきみとも話をしたいと思う。
 あの小さくていつも母君の影にかくれていて、よく転んでいたロシーが、今はガープ中将の背丈よりも大きいというのは本当だろうか?
 それに海軍本部の中佐というのは将校なのだろう? にわかには信じがたかったよ。
 人を守る仕事なんて素晴らしいな。私も同じ一族なのだし、鍛えたら多少は訳に立つだろうか?
 昨日はチャルロスを張り倒したくらいで息が上がってしまったのが情けないな。
 いつかきみと会える日がくることを願ってやまない。
 ロシナンテ、また会う日までお元気で。
 敬意を込めて
 ドンキホーテ・ミョスガルド

 

 ロシナンテもまた驚いていた。
  ミョスガルドのことは幼いながらに確かに覚えている。海兵となってから知った嫌われ者の天竜人そのものの男だったし、こんな風に人を慮って文章を綴る男では無かった。
  いじめていた、と言ってもその時のロシナンテには大変な事柄だっただろうが、その後に受けた仕打ちや海兵としての訓練に比べれば読みながら思い出したような遠い過去だ。
「人」になったと本気で言っているのだろうかと驚きながらも読み進めて、ロシナンテはその中の一文に思わず紙をつまむ指の力を強めた。分厚く質の良い紙とインクに皺が寄る。
「……は」
 いつの間にか詰めていた息を吐いて、天を仰ぐ。静まりかえった夜空には星がちかちかと瞬いているだけだった。
「”尊敬している”だってよ──ハハ」
 思わず音読した言葉に空笑いが漏れる。それが思いのほかに岩のように固い色を帯びていていた。
「コラさん?」
「ん」
 気遣わしげなローの声が下から聞こえた。
 それに顔を下げられないまま手を振って大丈夫だと伝える。今、自分はきっと奇妙な顔をしている。そんな情けない顔はあまり見せたくなかった。
 手紙を見ようと腕を引くローから手紙を遠ざけ、ロシナンテはもう一度深く息を吐く。
 覚えている父の顔で一番強烈なのは自分たちに謝罪しながら笑顔を浮かべていた死の間際の姿だ。
 そのほかは自分たちを抱えて逃げていたり、頭を抱えていたり、電伝虫でどこかに必死に訴えていたり。後悔と苦しみと悲しみに満ちた父ばかりを覚えている。
 しかし飢えても追い詰められても決して自分たちに手をあげることの無かった人だ。ずっと自分たちを庇ってきた人だ。
 ──天竜人の「権力」を自分で捨てた人だ。
 いろいろな過去に押し流されて朧気ながらも、彼の優しい笑顔をロシナンテは確かに覚えている。
 その人を尊敬していると”人”になったという天竜人が綴る。
 鼻の奥が鈍く痛んだ。じわりと滲んだものが目の端に染み出てきている。
 嬉しいのだろうか。
 悔しいのだろうか。
 悲しいのだろうか。
 ロシナンテの中で狂おしいほど様々な烈しい感情が渦巻いて、自分でもその答えは分からない。
「ロシナンテ」
 穏やかな声と共に背を叩く大きな手のひら。渦巻いた感情がだんだんと落ち着いていく。
 まだロシナンテが幼く感情をコントロール出来なかった頃、センゴクが良くこうして宥めてくれたことを懐かしく思いだした。
 小さく息を吐いて二人に苦笑する。
「聖地でまだあの人のこと覚えてくれてる人、いたんだなァ…って……それも、あの人を尊敬してるなんてさ……」
 ついに言葉が途切れてロシナンテは口をつぐんだ。
 口にしてしまって漸く気付いたそれは、今まで自分自身さえ気が付いていなかったロシナンテの本心だった。
 きっと全て手放しで賞賛される行いでは無かった。
 無知は時に酷いしっぺ返しを与えるとロシナンテは市井の中で学んだ。兄の”暴走”はきっと父から始まっていたし、ロシナンテもまたあの優しい父の行いが正しいものだったとはっきり口にすることはできない。
 しかし、今ただ彼の息子として、ミョスガルドの手紙に綴られた言葉に確かに何かが胸の奥に潜んでいた者が救われたような気がしていた。
 ずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
 父と母の志は、間違いでは無かったと。
 その意思は、優しさは、気付きは──それだけは本当に正しいものだったと。
 ぼろ、っと堪え損ねた涙が一つ伝って封筒を濡らす。
「良かったなァ、父上……」
 便箋の一文のインクを指で撫でてロシナンテは目を伏せ、何十年ぶりかに父を呼ぶ。初めて傷みを伴わずに父を偲べるような気がした。
 柔らかく口角が上がる。
 ──いつか、お前とも笑って話せる日が来るのだろうか。
 聖地にいるにもかかわらず、『人間』と名乗りを上げるドンキホーテ一族。会いたいと、話をしたいとロシナンテも思う。手紙に書かれているのは本当のことなのか、オトヒメ王妃と一体どんな話をしたというのだろう。
 ロシナンテは最後まで読み終わって小さく「お前もな」と呟いた。
 穏やかな沈黙のあと、要件は全て済んだとばかりにセンゴクが立ち上がって暇を告げる。
 ローも術後なんだからそろそろアンタも寝ろ、と立ち上がった。
 えーと声を上げたのはロシナンテだ。
「もったいねェなァ……こんな良い夜なのに。おれたちは明日出航だし、お前達もだろ? 海賊と海兵ででこんな夜なんてもうあり得ねェだろうし……」
 名残を惜しむロシナンテにローは欠伸混じりに肩をすくめた。
「アンタが生きてたんだぞ、コラさん」
「ん?」
「世の中にあり得ねェことなんてない。それこそ生きてる限りな」
「そりゃそうだけどなァ」
 それでも惜しむロシナンテに、ローはあっさりと手を振った。
「じゃあなコラさん”また明日”」
 消える間際、眠たげだった目が勝ち気に光ったのはロシナンテの見間違いだろうか。
 能力で忽然と消えたローに、ロシナンテはがっくりと肩を落とした。
「お前、海軍に捕まらねェようにさっさと出航するっていってたじゃねェか! 次いつ会えるかわからねェのに……もっと惜しめよ!」
「ふっ……相変わらず自由なやつだな」
 センゴクがくつくつと笑いながらロシナンテを連行する。
 翌日、荷物を人質に彼の母艦へ招待されることなどまだ誰も知らぬままついに夜は終わりを告げた。

 

 完