なんだかコンディションが悪ィなァ、と二人して首を傾げたのはゾウを出てしばらくした頃からだ。
ワノ国では鉄火場が続いてある程度体の不調は吹き飛ばされていたが、ワノ国を離れてしばらく航海を続けているうちに軽かったはずの不調は重篤になっていった。
熱もないのに体が時折火照ったり、大きな音がやけに耳に響いたり、変に胸が塞いで気分が落ち込んだり。 ほんの些細なことが積み重なってはっきりとしないまでもコンディションが悪い。
それも、はっきりと体調不良を自覚しているのは自分たち二人だけらしい。
これはあれだな。とペンギンが吐き捨てる。
やっぱあれかなァ。とシャチが肩を落とした。
「オーダー不足」
「それな!」
ペンギンの答えに、シャチが両手の人差し指を指す。勢いよく伸びたその指はへにゃりとから元気を無くして机に落ちて、二人は大きなため息をついた。
「薬なんで効かなくなっちまったんだろう……」
さて、人に二種類の性があることが発見されたのは大凡四〇〇年前、偉大なる航路のとある医療大国でのことだ。
第二次性徴ともに起こる外性は既知のもの。
医療大国で発見されたのはその後の第三次性徴期にホルモン分泌によって起こる両極のグラデーション性、いわゆる内性と呼ばれているものである。
内性は大まかには二つに分けられる。
一つは人を導き、支配したいというDom性または主性。
一つ人に仕え、従属したいというSub性または従性。
この二つはグラデーション性といわれる通り、強度が七つに区分されている。
それまでは嗜虐癖や被虐癖とされてきたものを人類がレベルの差はあれどすべからく潜在的に有しているとした学説は広く波紋を呼んだが、実際その通りだとして世界政府は正しく公表し、人々の生活の質は向上した。
以来、人は外の性と内の性の二つの性を生まれ持ち、バランスを取って生きている。
ペンギンとシャチは人に従うことを喜びとするS性を顕し、その中でも強度は平均より高い4度である。「人に従いたい」という本能が強く、軽い頼まれごとなどでは解消しきれない。相手からの信頼に応えることがS性の性質であり、それが満たされていなければ不安になる。
その不安は体に覿面に現れ、二人のようなコンディションの低下につながるのだ。
ハートの海賊団のクルーたちは殆どがD/Sどちらかにせよ軽度である1〜2度。キャプテンであるローの詳しい事情は知らないが、自分達より少し軽度のD性なのだろうと二人は予想している。
そもそも、キャプテンであり船医であるローがそれぞれの内性に合わせて定期検診は行っているし、必要なら薬だって出してもらっている。
それが効かなくなっているのが問題なのだ。
「どうしよう」
ペンギンがため息をつく。
「キャプテンに頼んでみる? プレイ」
「キャプテンにこんなこと頼めねェよ」
「だよな……」
何回目か二人の中で却下された案を蒸し返してまた二人で首を振る。
十三年、内性が顕在化する前から共に暮らしている家族にも等しい相手を、擬似的な性関係に巻き込むのは二人とも本意ではない。
──それでも、どうしても口にしてしまうのはそれが一番嬉しいからだ。
自分達が命と心を預け、誰よりも大切に仰ぎ見る人はこの人の他にいない。
従う性である自分達にとってはローだけが唯一無二の王様だ。
本当だったら、彼以外のオーダーなんて聞きたくもない。
それでも、持って生まれた性質ばかりはどうしようもないことだ。ローにプレイを頼めない以上、これまでだって立ち寄った島々の高度D/S御用達のプレイバーで不調の解消のために擬似的な主従関係を結んだことはいくらでもある。もっと昔は、もっとひどい関係だったこともある。慣れたものだ。
それでもシャチは夢見るように口元を緩めた。
「いつもの指示でもイイのに、おれだけにオーダーしてくれたら最高の気分だろうなァ」
「……ばかだなー」
そんなことを言って、実際のところは二人とも最愛のキャプテンへそんなわがままを願う度胸はない。
「今夜も行かなきゃ、だよな」
「そーだなァ」
シャチが小さく呟き、ペンギンも頷いた。
腰が重たいのは、海賊の立ち寄る島のプレイバーに“上品”なプレイを期待できないことを身をもって知っているからだ。
百獣海賊団の遠征時の寄港地だったとも聞いている。
次の島へ向かう途中、ログのたまらない補給島はいくつか経由する予定であり、この島もその一つだ。
「……マナーがいいやつだといいな」
「ははは」
あまり期待できないことを笑いながら、二人は船番の交代共に夜の街に繰り出した。
明け方近く、ポーラータングの停泊する裏の港に街からよろよろと二人が帰ってくる。
「うぇ……ッ!」
「シャチ〜もうすぐポーラーだぞ……、歩けるかァ?」
「ゔん……、ゔゥ……うぇ……ぐす」
「泣くなよシャチ……。はー……。俺も気持ち悪ィ。跡残すなって言ったのによ……」
肩を支え合い、ぐすぐすと袖で涙を拭うシャチを宥めながらもペンギンの目元にも涙が滲んでいる。げほ、と時折喉を傷めた咳をこぼし、赤い手の跡が残る首を摩っている。
停泊する防波堤にたどり着いて、どっと二人してひっくり返る。帽子が防波堤の上に転がった。
真っ青な顔をしたシャチがよろよろと防波堤から海に身を乗り出す。おざなりに背中を叩いてやると、えずく音が聞こえた。
横になってゆらゆら揺れる海面を見ているだけで何だか込み上げるものがある。
「吐きそう、ペンギン……」
「吐いちゃえよ……」
「ゔ……ゔェ……ッ」
サングラスの下からボロボロと涙がこぼれて海面に沈んでいく。せっかく飲んだ酒も薬も海に帰したシャチが、腹を抑えるように丸くなる。すすり泣く声が哀れだった。
ペンギンもずきずきと痛む右腕で首を摩りながら、飲ませられた酒を海に帰す。胃液で焼けた声はまるで酒焼けだ。
すすり泣きの合間に、シャチの恨み言が届く。すこし気力を持ち直したらしい。
「いつものことだけど、最悪……」
「セーフワードと取り決め無視しやがった、あの勘違い野郎」
「やだって言ったのに……」
一頻り愚痴と罵倒を繰り返して、ようやく身を切るような嫌悪感と恐怖心、心臓が激しく脈打つような焦燥感がおさまる。
プレイバーで鬱屈を解消しては、ドラッグでバッドトリップをしたような最悪の気分を味わう。昔の記憶なんかも蘇るので最悪だが、それでもハートの海賊団であり続けるためにはしなければならない体調管理だ。
新世界の治安の悪さと自分達の体質も相俟ってもうプレイバーに行かないようにしようとしたこともある。それでパニックを起こして海中で死にかけたことがあるのでそれ以来どれだけ嫌でも行くことにしている。
それでも、出来損ないと罵られて、虐げられるだけのプレイは身を削るような痛みばかりを刻みつけられる。
「昔は半年に一回くらいで良かったのに、最近島に寄る度にバー行ってる気がするんだけど、おれ」
シャチが呻く。そう言われて、ペンギンもぞっと血の気のひく思いがした。
「…おれも」
顔を見合わせて、ぞっとする。
内性の異常は、海賊、ひいては船乗りにとって致命的だ。
もし嵐の中で、戦闘中に、緊急事態にパニックを起こしたら? 異常が進めば気が狂うことだってあるという。そんなクルーを優しいあの人が艦に乗せ続けてくれるだろうか。
いやだ、と反射的に思う。
あの人が進む道の途中でリタイアなどしたくない。
「……この艦にいてェよ、おれ……」
シャチの嘆きにペンギンも頷いた。
そのためなら、たとえ悪魔に魂を売っても良い。
***
「キャプテン」
裏の港に停泊しているポーラータング号にはベポとローの二人しかいない。
二人での見張り番の最中、ベポに袖を引かれてローは首を傾げる。
「なんだ」
「最近、ペンギンとシャチの様子がおかしいみたいなんだけど何か知ってる?」
ローは少し考えた後に頷く。
「見当はついてる」
「やっぱり……、内性の?」
「多分な。適量の調整剤と、普段の指示出しは増やしてるんだが効果がみられねェ」
「昨日も帰ってきて二人で吐いてたよ。オチる回数が多すぎると思う」
──昨日の分は知らなかった。
ローの眉間に深い皺が刻まれ、低い舌打ちが出る。
ローとて自分の部下がドロップしているのを手を拱いてみているつもりはなかった。
だが、彼らが拒む以上ローに出来ることは少ない。主性などとは言われているが、人を意のままにするようなものではないのだから。
「ねえキャプテン」
「ン……」
生返事を返して、ベポの背中にぐっと体重をかける。柔らかい毛皮と皮下脂肪のぬくもりにわずかに心がほぐれる。
二人のSub性が過敏になっているのはゾウからだということはローも気づいている。初めはゾウで受けたKOROの後遺症かと思ったが、高度のDom性であるジャンバールやその逆のクルー、不顕性のベポに異常は無い。クルー全員にもう大丈夫だよ! と笑われるほど何度もスキャンと検査を平行させて、チョッパーの解毒が完全であることは理解している。
「何でだ……」
「キャプテン……」
だからこそ、ローは怖い。
医術が完全ではないことも、医者が全てを救えるわけではないことも、この艦の中でローが一番よく知っている。
ワノ国を出ても治る気配のないペンギンとシャチの状態に一番恐怖を覚えているのはロー自身だ。冷静で居なければならないと言い聞かせても、二人にもしもがあったらと思えば、いくら医学書を読みあさっても足りなかった。
今彼らに渡している内性調整剤は適量のはずだ。
麦わらの一味の船医の意見も踏まえて、効果は適量で副作用は最低限に抑えたものをロー自身で調合している。指示出しも意識して多くし、いままでなら過度になりかねないくらいだった。
能力でスキャンしても健康体。だが、確かに検査すれば分泌されるホルモンが異常値を指しつつある。
だが、その理由が分からない。
ローの医学の知識で分からないということは、ポーラータング号の設備では計れない複雑なものだということだ。医療の進んだ島で一度長期検査を受けることも視野に入れている。
そしてもしそれが、彼らの命に関わることだったら──。
ローは鬼哭を握り込んで低く呟いた。
「ペンギンとシャチには艦を降りてもらわねェといけなくなる」
ガタン、とドアの向こうで音が聞こえる。
「──”ROOM”」
「待って」
咄嗟に展開したルームで音の主をあぶり出そうとして、ベポが止める。
「待って。ローさん」
「……クソ」
ローは立ち上がろうとして、がっくりと腰を下ろした。帽子のない頭をガシガシとかき混ぜる。
「絶対勘違いされたぞ!」
「勘違いじゃないでしょ。なんて言い訳するつもりだったの? 今のキャプテンが行ったら、本当に降りちゃうよ」
「……ベポ、お前なァ!」
「だから、いつもみたいに勝手にいっちゃわないで、二人にちゃんと話してあげて。」
ローの恫喝にも今更へこたれるつもりはないようだった。打たれ弱いはずの弟分にニコニコとなだめられて毒気も抜ける。
「もうキャプテンはおれたちと生きてくれるんでしょ? もう二人の手を取ってもいいでしょ?」
「……それは」
「それさえ分かってればおれは平気。いつか離れるからってローさんが遠慮してたのも知ってたよ。もう遠慮しなくていいんだよね?」
ぐ、と息を詰める。思わず顔が赤くなって外していた帽子を深く被った。
「ベポ、お前あいつらが外にいたの知ってたな?」
「おれ、この艦の航海士兼ソナーマンだし、ローさんとペンギンとシャチの弟分だよ」
ベポのふかふかと柔らかい頭を軽く叩いて、ローはため息をついた。
「分かった。あいつらをおれのものにしてくる」
「頑張って!」
再度ROOMを展開する。
手を振るベポは今度は止めなかった。
***
「マジでいいのかァ?」
「ああ。”跪く”のと外性行為は出来ねェけどそれ以外なら何しても良い……」
舌なめずりをするような巨躯のD性の男にペンギンははっきりと頷く。
「Kneelも出来ねェ出来損ないのくせに威勢いいじゃねェか」
シャチもサングラスの下の表情を強ばらせながらも巨躯の隣に座っているいかにもD性らしい顔をした狐顔の男に頷く。シャチの二の腕をつかんで引き寄せた狐顔の男はシャチの耳元でねっとりと囁く。
「お前……セーフワードはどうする?」
「”スワロー”」
「おれは”新世界”。ククッ、成立だな。よし”来い”」
妙に含みのある笑い声を零した狐顔の男にシャチが引きずられていく。 バーに併設されているプレイルームに連行されていくシャチの顔は真っ青で思わず足を踏み出そうとしたペンギンの肩を巨躯の男ががっちりと押さえつける。振り払えないほどではないが、馬鹿力で肩が痛む。
「お友達を心配してる暇はねェんじゃねェか? てめェの合言葉はどうする?」
「……”キャプテン”」
「ハハハ、良いぜ。おれァそうだな”助けて”だ。お前ほどの高位の従性をめちゃくちゃにしていいのは気分がいい」
ペンギンはぐっと唇をかみしめて俯いた。
その瞬間、体が吹き飛ぶほどの平手を受けてバーのカウンターに吹き飛んだ。クラクラとしながら立ち上がろうとして、手のひらを足で踏まれた。
もう既にプレイは始まっているらしい。
バーのマスターが気のなさそうにさっさと部屋に行けと肩をすくめる。
それを意にも介さず、巨躯の男が居丈高に命じる。
「”跪け”」
D性からの指示にがく、と膝が抜けかけて止まる。本来ならばこのままこのDomの目の前に跪かなければならないのに、ペンギンの足は動かない。そうすれば楽になれると訴える頭と裏腹に、どうしても、どうしても膝を折ることが出来なかった。
「……ッ」
Domの足がペンギンの肩に掛かって押しつけようとする。それに抵抗する体の反発にDomが驚いた顔をした。
「おいおい、本当に出来ないのか?」
「できねェみたいだぜェ!」
狐顔の男がプレイルームから声だけを飛ばしてケラケラと笑う。空いた瞬間に、うあァ!と悲鳴が聞こえた。バチン、と鞭打たれる音が部屋の奥から聞こえた。ごめんなさい、とシャチのすすり泣くような声もする。
「シャチ!」
「あちらさんはお仕置きだとさ。まァてめェもだが」
足をどけられてほっとした途端に、再び転がされる。見下ろされる目の冷たさにぞくりと背中が凍った。物理的に圧力が掛かるような本能的な恐怖に体が震える。
「”這いずって来い”」
ペンギンの喉がひゅっと止まる。
「は、い」
汚い床を這いずって、背を向けた男の後について行く。
──奴隷がご主人様に逆らうな。
耳鳴りのように、かつて自分たちを縛った銅鑼声が反響する。這いつくばる自分たちに掛けられた命令と、苦痛ばかりの屈辱を思い出して、ペンギンは歯を食いしばりながら男の後を追って這いずりながらシャチの先に入ったプレイルームに入る。このバーには一部屋しかないらしい。
「ンンン……ッ!!」
「……あ、あ」
部屋の中に入った瞬間に、ペンギンは自分の愚かさを悟った。
「シャチ!」
壁に取り付けられた手錠に戒められたシャチの背中は真っ赤になっていた。振り下ろされるバラ鞭にむき出しのシャチの背中が傷みに反射的に跳ねて強ばる。
口を布で塞がれたシャチが、頭を振って傷みを逃がそうとして、ぼろぼろとかろうじて引っかかっているだけのサングラスの下から涙をこぼしていた。今回はセーフワードを言葉で決めている以上、猿ぐつわはプレイの暗黙の禁忌のはずだ。
「ぐ──ッ!」
「お前が悪いんだぜ?”跪く”ことも、”脱ぐ”ことも出来なきゃこうなるよなァ?」
シャチに振り下ろされる鞭に、ついに背中の皮膚が裂ける。
「……ッ、ン!」
「待てよこんなのプレイじゃすまな……!」
「”黙れ“」
圧力とともに叩き付けられた命令にペンギンの喉が塞がれる。しゃがみ込んだ男が片手でペンギンの顎を締め上げる。顎が砕けそうな傷みに顔が歪んだ。
「何でもしていいっていったのはお前たちだろう。主人には従え」
もう片方の手がペンギンの頬を叩く。よろけた体が沈んだ場所に、ペンギンはぞっと総毛立った。大きなベッドの上、安いスプリングが軋む。
「”脱げ”……出来ないなら、ここでおしまいだ」
巨躯の男の強い視線に絡め取られてペンギンの頭が凍り付いたように冷えていく。
──従わなければ。すこしでも、体調を戻さなければ。あの艦に居られない。
震える手がゆっくりと服に掛かる。上半身のシャツを脱いで、顔を背けた。
「……こ、れ以上は」
「Subの使い道なんてこれくらいしかねェんだから、さっさと股を開け。”寝ろ”」
「それはッ」
巨躯の男の手がペンギンの首に伸びる。片手で首を締め上げられ、かは、と息が漏れる。
「ンンンン!! ンン! ンンンー!」
「あはは、何言ってるか聞こえねェ」
くぐもった声で”セーフワード”を叫んでいるシャチの悲痛な声が聞こえる。狐顔が笑ってもう一度鞭をしならせる。
ペンギンは男の腕をつかんだ。
「キャプ……!」
首を絞めていた腕が、今度はペンギンの口を閉ざした。無理矢理に言わせないつもりの行動に、ペンギンはぞっと背筋が凍る。もう片方の腕がペンギンのズボンにかかる。
マットレスに顔を押しつけられて、滲んだ涙がシーツを濡らす。本来なら簡単に片付けられる相手に、これほど無力な性であることが情けなく、苦しい。
──怖い。助けて……
「”キャプテン”……!」
潰されたうめき声の”セーフワード”はマットレスに吸い込まれてペンギンの口の中だけで消えていく。
恐怖にあえぎながら目を閉じた瞬間だった。
「……悪ィ、待たせた」
地を這うように低く、海底に沈んだ火山よりも烈しい怒りが滲んだ声が聞こえた。
***
「だ、誰だてめェ!」
──シャンブルズ
ペンギンを押さえつけている男の誰何に応えることはなく怒りの滲んだ声が呪文を唱えた。
途端にシャチを拘束していたものが全て無くなる。
「ぶはっ……!」
「シャチ! 大丈夫か?」
シャンブルズで拘束から逃れたシャチが荒い息を吐きながらペンギンの横に現れる。ペンギンにえずく背をさすってもらいながら、二人でその背を見上げた。自分たち二人を男達から隠すようコートを広げた黒く広い背中。
まるでかつて共にはしゃいで夢を語った海の戦士ソラのような自分たちのキャプテンを。
「てめェ! 何しやがる!」
「プレイ中に割り込むのはマナー違反だぞ。来い!」
男達の恫喝にびくりとシャチの肩が跳ねる。まだプレイの契約は切れていない以上、シャチとペンギンにとっての主はこの男達だった。
無意識に従性として主性の指示に従おうとするシャチの膝が男の方に揺れて古ぼけたシーツの擦過音がいやに静かな部屋に響く。
その瞬間だった。
部屋の中だけ深海の水圧が掛かったかのように重たく沈む。物理的なものさえ感じる圧力でまるでこの部屋事態の電気が消えたかのような錯覚。
その中心はキャプテン──トラファルガー・ローその人だった。
──キャプテンの覇王色の覇気?
しかしいつかの昔、シャボンディ諸島で身に受けた冥王レイリーの覇気のように頭の芯がぶれるようなそれではない。
シャチの脳裏に思わず過った考えは、目の前の男がただおびえているだけであることで否定される。とはいえ彼の背後で庇われている自分たちでも息苦しいほどのそれを真っ正面から受けている男たちの顔はチアノーゼを疑うほど真っ青だったが。
ただただローの重たく冷たくのしかかる眼光と気配だけがこの部屋を深海と化している。
「”セーフワード”を無視した上に、ドロップ寸前の相手にコマンドを強行……D性の風上にもおけねェな」
ローの声はカルテを読み上げるように淡々としている。しかし、部屋の圧力はどんどんと重さを増していく。
狐顔などもう息をするのもやっとの様子だった。しかし、巨躯の男は必死に虚勢を張ってペンギンたちを指さす。
「……お、前、が、あいつら出来損ないのご主人さまか」
「──”黙れ“」
部屋が凍り付いたような錯覚に、シャチとペンギンは繋いだ手に思わず力を込めた。
声を荒げるだけが怒りではない。それを体現しているようなその”命令“に、D性であるはずの男達が言葉を失う。
「──本当の”D“に会うのは初めてか? ──なら跪け」
男たちがまるで操り人形のように膝を突いた。本人達が信じられないような顔をしている。シャチたちも信じられなかった。
本来ならば契約したD性とS性にしか通用しない指示を、契約さえしていないD性がD性に行い、なおかつ従わせている。
そんなことがあるのだろうか。
「”言え“」
二人が口にした言葉はローの望む通りの彼らの”セーフワード”だった。ペンギンとシャチの精神的な拘束が解ける。簡易的な契約の解除の反動で力が抜ける自分たちを横目で見て、ローの眉間に皺が寄る。
「──チッ」
ローの低い舌打ちと共に、見慣れた能力の発動。
次の瞬間には清潔で上等なシーツの上に二人して投げ出されていた。
***
「え、ここどこ……?」
周りを見回してぽろりとこぼれたシャチの言葉にペンギンが首を振る。お互いに知らない場所だった。
二人の放り投げられた清潔なベッドのある部屋の隣は低いベッドのある畳敷きの部屋で、二間ともポーラータングのブリッジほどはあるだろう。
シャンブルズで飛ばされるならポーラータングのお互いの部屋かと思っていたので意表を突かれて落ち着かない。とりあえず清潔なデュベからもぞもぞと降りて床に降りようとしたところにローがドアを開いた。手にはポットとマグカップがのったお盆がある。
ペンギンの強ばった肩がふわりと溶ける。シャチも同じように、まるでポーラータングから来たようなその姿に体のこわばりが溶けるのを感じた。
「キャプテン!」
「此処どこですか!?」
「ベポに取らせたホテルだ。今チェックインしてきた」
「チェックインする前におれたち居ましたけど」
ペンギンの苦言にローは肩をすくめて水差しからグラスに水を汲む。これほどのホテルなどシャチもペンギンもは足を踏み入れたことも無いというのに、ローはまるでもともとこの部屋にに住んでいたかのようによく似合っている。さすがはキャプテンだ。
「部屋使うのは事実だしいいだろ……湯もらってきたが飲むか」
「あ、はい。シャチもいるだろ」
「いる」
「……艦に帰ったら飴玉もらっとけ」
「アイアイ!」
先ほどの触れれば燃えるような殺気にさえ似た気配は今のローからは全く感じ取れず、二人はほっと息を吐く。
ローは最近好んでいるファーコートと帽子をベッドに投げ出して、がしがしと短髪をかき混ぜた。タトゥーの入った二の腕が露わになるタンクトップ姿は、ポーラータング号で気を抜いているときの姿だ。
「あんなやつ相手に威嚇しちまった……かっこ悪ィ」
「あれは覇気ですか?」
「違ェ……と思う。威嚇っつってはっきりと区別されてるわけじゃねェが。動物の威嚇音と同じだ」
「ネコがふしゃーってするみたいな?」
「……だからあんまりしねェ。余裕が無かった」
気まずそうに目を逸らすキャプテンにシャチはペンギンと目を合わせて笑った。かっこよかったと言えばきっと拗ねるだろう。
顔を見合わせて笑う自分たちを眺めていたローが、ゆっくりと自分たちの名を呼んだ。
「シャチ、ペンギン」
ベッドを指さされてそこに腰掛ける。ローも向かいにあるソファーに足を広げて腰掛けた。
ローは長い足を持て余して膝を高くしながら手を組んでシャチたちを見上げた。
「さっきお前たちを一度、艦から降ろすっつったのは、精密検査のためだ。近隣でドラム王国──今はサクラ王国か、そこら辺並みに医療水準の高い島を見つけて、精密検査のために停泊、その期間はお前らが入院になるから、艦には居られない──と、そういうつもりだった。ここまではいいな」
よく考えればその通りなので、ペンギンとシャチとは慌てて首を縦に振った。先ほどの混乱状態は今は随分収まっており、思考回路もあまりネガティブに下がっていない。
ローは二人が頷くのを確認して、口元をへの字に歪めた。ほっとしているらしい。
「その上で、提案がある」
提案、という言葉がローの口から出てくるのは本当に希なことだった。好き嫌いははっきり言う質であり、欲求は気ままに自由に突き通す男だ。この男が言い淀むことは大概、自分一人で完結しないことだった。
言いにくいらしく、物騒なタトゥーの刻まれた指先が小刻みに動いている。
「はい?」
「何スか?」
そういうときにままするように、二人で促す。そうすれば大概、ローは目を上げて要求を告げる。
「……一度、おれとプレイしてくれねェか。嫌なのは分かってる」
「えっ」
二人で声が揃う。二の句が継げなくなっているのをどう思ったのか、ローはそのまま理由を重ねる。
「さっき、あのクソ馬鹿の指示にお前が従おうとした時」
「おれ?」
シャチがきょとんとする。ローは重々しく頷いた。
「……反射的に威嚇して気づいた。今まではお前らの自主性を尊重してきたし、お前らの行為には口出しはしなかったが、一度おれとプレイしてみねェか。嫌ならこれっきりでいい、それで嫌ならもうしねェし、口にも出さねェ」
「へ……?」
ペンギンがキャパオーバーでぽかんとしている。シャチもほとんど早口のように繰り出されるローの説明に追いつくのでいっぱいいっぱいだったが、それでも聞き取れた言葉が冗談だと言われる前にと聞き直す。
──キャプテンと”プレイ”していい?
「い、い、いいの……?」
「おれから提案してる。……いいんだな」
思わず大きく頷いてしまう。横のペンギンの肩を叩くと、でも、とかの泣くような声を上げた。
「でも、キャプテンと……?」
「嫌なら、一度だけでいい。二人一緒に、今から」
「ペンギン……!」
シャチが袖を引いてようやく、帽子の下で今までで一番不安そうな顔のペンギンと目が合った。
一番年上の彼が自分と、そしてローとベポを実の弟のように思っているのはシャチも知っている。だから今まで避けてきた。
──だが、シャチはきっとペンギンよりもペンギンのことを知っていた。自分たちの仰ぐまことの王は、ただ一人しか居ない。シャチにとってもそうであるように、ペンギンにとってもローこそが主。
今、まるで断罪を待つ罪人のように指を組んで自分たちの答えを待つ人はシャチとペンギンの絶対の王様だ。このチャンスを逃したら、きっともう二度と無い。
それを分かっているだろう?とその目に問い掛ける。
ローもペンギンが迷っているのを察して言葉を重ねる。
「どんな結果でも絶対に艦からは降ろせねェが。頼む」
「おれはいいよ」
「……っ、わ、わかった」
ペンギンも頷く。
ローはほっと息を吐いた。
「契約成立だな。おれのセーフワードは”ミニオン島の雪”。指示で拒否したいやつがあれば言え。……今回は外性行為は行わないものとする」
まるで医者の診察か、ビジネスの契約のような言い草にシャチは吹き出しそうになるのをこらえた。だからこの人が好きなのだ。
「じゃ、おれのセーフワードは”スワロー”かな。……跪くのは苦手だけど、キャプテンなら大丈夫かもしれない、やってみたい」
「おれも。……あ、いつものだとややこしいな……じゃあ”ヴォルフ”で」
ローは頷こうとして、あ、と付け加えた。
「もう一つ決める。プレイ中おれのことは”ロー”でいい」
「アイアイ、ローさん」
声が揃い、ローが満足げに頷いた瞬間、ぴり、と背中に不思議な電流が走ったのを感じた。
後編に続く