ロシナンテが悪夢に飛び起きることが多くなったのは、マリンフォードに来てから三年ほどがたった頃だった。
栄養の不足のためか同じ年の子よりも小さかった上背がすくすくと伸び始め、子どもから少年にさしかった時期。
聖地訛りを隠すために閉ざした口も達者に回るようになった。
一度壊れた器を継いた器にもう一度心が満ちようとしているようだと、センゴクや幾人かの大人はほっとしていた。
しかし、そんな頃になってロシナンテは毎夜のように魘されるようになった。
ロシナンテの目の下にはじっとりとした隈が目立ち、あどけない子どもらしさがそぎ落とされていた。睡眠不足でドジが増えてはそれに苛立ち、むっつりと塞ぎ込みがちだった。ドジを踏んではカッとなり、ふいっと屋敷か島のどこかに消えては夜まで帰らない日も続いた。マリンフォードのどこに行っているかは彼は告げなかった。
センゴクはそれに何も言うことはなかった。
ロシナンテの好きなようにさせることにしていた。
──怒りが、ロシナンテの中で嵐のように暴れ狂っているようだと、センゴクは後に語る。
それは理不尽でむごいものへの。
ロシナンテにはどうしようもなかった運命への行き場のない怒りであるように思えたのだと。
「けれどなあ、あいつだって何もかも分かっていたんだよ」
センゴクは差し向かいの男に呟く。手酌で酒を盃に注いで喉を鳴らして飲み干しながら、センゴクは続けた。
「あの子は賢い子だったから、通り過ぎてしまった苦しみも絶望も、自分で飲み干してしまうしかないことだと分かっていたんだろう。……やりきれない気持ちになるくらいのこと、誰が責められるだろう。あの子はただの子どもだったんだ。おれくらいは、そう思ってやりたかった」
ある夜のことだった。
ロシナンテの悲鳴が屋敷に響いて、センゴクは慌てて布団から飛び出した。悲鳴は不自然にふつりと途切れ、気配だけが庭園の真ん中に移動していた。
「ロシナンテ」
寝間着に羽織のまま縁側に出ると、気配のままロシナンテは寝間着のまま素足で庭に飛び出していた。そのままつるりとすっころんで仰向けにひっくり返る。その音もしないので、彼の能力だとセンゴクには分かった。
「ロシナンテ、能力を解きなさい」
突っかけを引っかけて庭に降りる。上半身だけ起き上がったロシナンテはセンゴクを見て、青ざめた顔でにらみつけた。
「──ロシナンテ」
「……くそったれ」
三度声をかけてようやく能力が解除され、しゃがみ込んだ彼の唸り声がようやくセンゴクの耳に届いた。苛立ちが滲んだうなり声だった。
センゴクの胸元に頭が届き始めた小さく細い、若木のような少年の、薄っぺらい肩と、俯いて折り曲げられた背中がぎゅうぎゅうに詰め込まれた激情に揺れていた。
月のない夜、ぼんやりと庭の池に星が映っていたことを覚えている。
「怪我はないか」
近づいたセンゴクの手が肩に掛かる寸前に、その手は思い切り払われる。乾いた音。勢いよく振り返った少年の顔をセンゴクは静かに見下ろした。
食いしばった口の間から獣のような息を吐きながら、ロシナンテはぎらぎらとした目でセンゴクを睨めあげていた。前髪は汗でべったりと張り付いている。顔はひどく青ざめていた。ただ目だけがらんらんと異常に光っていた。
長いようなわずかなような時間、センゴクがその怒りに満ちた目を受け止めていると、やがてロシナンテの顔が激しい怒りに歪んで、体がぶるぶると震えだした。
「なんで……なんでですか!」
堪えきれぬように零れた低いうなり声と変わらぬ呟きは、堰を切ったような悲鳴に変わって、ロシナンテから爆発した。涙があふれてばらばらと飛び散る。
飛び上がるようにしてロシナンテはセンゴクに掴みかかった。彼がセンゴクの胸ぐらを掴んだのはそれが最初で最後だった。
「ちくしょう! どうしておれなんだ! どうしておれたちなんだ! ちくしょう! くそったれ! 死んじまえ、何もかもぶっこわれちまえ!」
数年前には聞いたこともなかっただろう悪態が、彼の心から吹き出して、力の限りに何もかもをつばを散らして罵っていた。
「おれが望んで降りたんじゃない! おれが望んであんな場所に生まれたんでもねェのに! なんであんな目に遭わなきゃいけなかった! なんでみんなあんなことをしたんだ! なんで!!」
暴れ狂うロシナンテの手首を、センゴクは片手でつかんで引き上げた。ひょい、と地面にひっくり返されたロシナンテは覚え立ての受け身を取って転がる。起き上がってがむしゃらにセンゴクに掴みかかっていった。
センゴクは黙って片腕ですくい上げるようにロシナンテを放り投げた。ロシナンテは泣きながら幾度となく受け身を取り、センゴクに掴みかかっては投げられた。言葉にもなっていないようなものを叫びながら、投げられては起き上がり、投げられては起き上がり──幾度も幾度も続けて、ついにロシナンテの体力が尽きる。
声ももう出ない。ひゅうひゅうと息を吸いながら、だらだらと汗と混ざった涙がロシナンテの頬を伝って流れ続けている。
掴みかかっていったセンゴクの前で、ずるりと足が滑る。こける、と目を閉じたロシナンテをセンゴクは手を伸ばして受け止めた。
途中からセンゴクの頬には熱いものが流れていたが、ロシナンテはその時初めて気がついたようだった。目を丸く見開いて、久しぶりに怒りのない視線がセンゴクを向いた。
「そうか……そうか……」
センゴクはロシナンテを引き寄せて、ぐいと抱きしめた。若木のように細い体は汗だくで荒い息をついていた。
「そうだよなぁ……」
固まっていたロシナンテの体が、ぐったりと弛緩してセンゴクの腕の中で柔らかくなっていた。
「つらかったなあ、ロシナンテ……」
驚きに止まりかけていた涙が勢いを増してセンゴクの羽織を濡らし、そのままセンゴクに担がれるようにして屋敷に戻った。
その夜から、徐々に塞ぎ込みがちだったロシナンテが明るくなり、海兵への入隊を決めた。
魘される夜がなくなったわけではないが、あの夜のことをセンゴクは良く覚えている。
「……そうされることで、救われることもあるだろうさ」
「そう思うか」
「──ああ」
隈のひどいセンゴクの呑み相手は、珍しく懐かしむような顔でジョッキを煽った。