船長といういきものは

 キッド海賊団に与えられたのは、住む人間がいなくなったという港にほど近い屋敷だった。ひらべったく地面にうねる蛇に似た形のそれは、ワノ国の武家屋敷なのだとか。調度品や家具などは自由に使って良いという。元々ここに住んでいた人間がどうなったかは、キッドの知るところではない。兎丼の牢獄で見聞きしていた限りでは、こういう類いは死んだか逃げたかといったところだろう。
「広~い!」
 と女どもが歓声を上げる。きゃあきゃあと女らしい声を上げて幾人かが部屋を走り回る。建具には履き物を脱いで上がるのだと訳知り顔で伝えられる。
「脱ぐのか」
 彼女たちのブーツやヒールがだだっぴろいエントランスに散らばった。
「そうだよ頭、畳だから靴で上がんないの」
「ベッドはないけど布団があるよ!」
「フトン?」
 キッドが首を傾げるときゃらきゃらと笑い声が上がった。いくつかの引き戸を開けると中は二段式のクローゼットになっていた。
「あったあった!」
「ねえみんなの分ある?」
「いまヒップとホップで全部押し入れ開けてるわ」
「二枚で敷いたらギグも足りそう? 分配考えてよエマ」
「じゃあみんなで全部集めてよ! かび臭いのは干さなきゃ。ねえクインシー、キッチンになんかある?」
「なーい。買い出し行かねェと」
 両腕に抱えた布の塊に埋まっているようなヒップとホップが外にむき出しの廊下を駆けてくる。エマがそれらを分別しながら積み上げていく。キッドは床に腰を落としてぼんやりと積み上がっていく布の山を見上げていた。そろそろキッドの背丈を超えるだろう。
 薄っぺらい紙の貼られた格子窓の外は庭らしい。土壁の向こうに花の都の城が見えた。まだ麦わらたちは起きていないだろう。
 今のこの国は閉じ込められた犬の檻が、いきなり開かれたようなものだ。しんと静かに張り詰めていて、檻の外への一歩を踏み出そうとしている。カイドウとオロチを降してまだ一昼夜、二つ目の夜が刻一刻と迫っていた。ゆっくりと日差しは橙色に染まり、見慣れぬ地平線に傾きっけている。
 池の中に赤い鯉が水面を揺らしていた。モッシュとレックが屋敷の敷地を一週回って帰ってきた様子でヒートたちに報告をしていた。
「この屋敷全部おれたちで使って良いのか、キラー」
「ああ、船が出せるまではしばらくここが拠点だなファッファ」
「これなら見張りは三人くらいで足りそうだ」
「夜の見張り番くじ引きでいいか?」
「UK、作っといてくれ」
「あいよ」
 UKが庭の木の枝を切り落としてさっさとくじの棒を削り出している。その枝を一本借り受けたキラーが見回ってきた仲間から聞き出して屋敷の見取り図を地面を削って書き出していた。コンボとモアイも戻ってきて、キラーたちの話に加わった。ポンプがやたらと広い風呂の場所を見つけたと盛り上がる。
「ねェ、男どもで誰か荷物持ちして!」
「あたしたち買い出し行くんだけど!」
 キッチンにいた女たちから要請を受けて、キラーとジャガーが顔を見合わせた。
「そうだな……」
 しこたま使われるだろうな、と男どもの視線が彷徨う。31人分の食材を運ぶのはそれだけで重労働だ。それも女どもの姦しい買い物に付き合いながらとなると札付きさえも腰が引けるらしい。
 誰かが生け贄のように差し出される前に、キッドは立ち上がってキッチンに声を上げた。
「おれが行ってやるよ」
「えっ! 頭が!」
「キッド?」
 ぎょっとした声が屋敷の中と外のどちらからも聞こえてきて、キッドは眉をひそめた。
「ンだよ。買い出しくらい前からもしてンだろ」
「いやいや頭が自分から手伝いを? 槍でも降るのか?」
「いいや、この島のことだ、またカイドウが降ってくるかもしれねェ」
「おっそろしい!」
 誰かのヤジにどっと馬鹿笑いの声が屋敷に響く。げらげらと笑う中に、呆れたようなキラーの笑い声が混ざる。
 男どもを睥睨しながら、ホップが腰に手を当てて仁王立ちで現れる。
「頭ぁ! それでこそアタシたちの頭だよ! そっちのへたれとは大違い!」
「荷物持ちはいつもしてるよ!」
 ディスクJが言い返してやいのやいのと声がキッドの頭の上を行ったり来たりしている。リズム良く弾む口論に結局どっちもケラケラと笑い出していた。
「えっとね、欲しいのはこれとこれと……ダイブ、メモするから持って行って」
「あいよ!」
 わらわらと集まる女たちの内何人かとメモを渡されて屋敷を出る。振り返ると、なぜかほとんどのクルーが買い出しに行くキッドたちを見送りに門の集まっていた。
「帰ってきたら頭の好きな料理を出すよ!」
 キッチンを切り回すことになったらしいババスがフードの下の目を輝かせた。
「酒も! 酒もな! この国の酒も悪くねェんだ! 頭ァ、樽で買ってきてくださいね!」
 バブルガムが念を押す。酒の言葉に酒飲みどもが湧いて、宴だと小躍りを始めるものも出る。
 待ったをかけたのはキラーだった。
「ファッファッファ! 馬鹿野郎! ヴィクトリアの修理にどれだけかかるか分かんねェんだから、見積もりとるまでは節約だ!」
 えぇーとキラーにブーイングが飛ぶ。それを睨みで黙殺し、キラーの矛先がキッドにも向く。声は笑っているのに、叱られている。
 声音の感情と本当の感情が一致しないキラーにもそろそろ皆慣れてきた。
「キッド! 無駄使いするんじゃねェぞ。要らねえもんは買うな」
「分かってるよ。何も言ってねェだろうが」
 流石に理があるのはキラーの方であることはキッドも分かっている。
 でもよォとハウスが口を尖らせた。
「せっかく、やっとなのに。漸くみんなで一緒に飯が食えるのに」
 ハウスの他愛ない呟きに、キラーがマスクの下で怯んだ。
 しん、と門の周りが静まりかえる。
 ハウスのつむじが残念そうに俯いている。キッドは他の仲間の顔をぐるりと眺める。今気付いたもの、言葉にされて惜しくなったもの、分かれていた日々を思い出して暗い顔になるもの。
──ばらばらになっていた日々は、クルー皆にとっても重い。
 キッドにとって、そうであったように。
「──そうだな。そうだった」
「でしょ!」
 ワイヤーが降りた静けさを破って頷いた。いつも飄々とした男がすこし目元を和らげてキッドに視線を向けた。
「船長、あんた何食べたい」
「あ゛? おれか?」
「ああ、宴は難しいが、誰かの好物くらいなら作れるさ。まずは船長だ。何が良い?」
 何が良い、と言われてキッドは面食らう。
 面食らって気付く。
 そういえば、何か食いたいものを考えるのは随分久しぶりだ。ただ飢えぬように腹を満たすためのもの、生きるためのものでしのいでいた。
「──何でもいいのか」
「ファッファッファ、それくらいは構わねェよ。貧乏海賊の頃じゃあるまいし。順番だがな。おれァペペロンチーノが良い」
 キラーが笑う。皆が口々に好物をあげる。あれが好きだの、これがすきだの、と楽しげに笑っている。
 それを眺めていて、腹が鳴る。
 舌の奥に記憶が蘇る。賑やかで、騒がしい、食堂室。波に揺れるテーブル。甲板。
 南の海では経験したことがなかったもの──凍えた後に湯船につかる心地よさのように、キッドにようやくじんわりと今が染み渡る。
──ああ、食べてェな。久しぶりに。みんなで。
 食べたいと思うことも忘れていた。
 ふと、今肩の力が抜けていることに今更気がついた。凪いだ海のように心が穏やかであることに気がついた。張り詰めるように仲間の存在を感じようとしていた自分に気がつく。
 そんなことをしなくてももう良いのだ。
 キラーと目が合う。にやっとマスクの奥の目が楽しげに笑んでいた。

「ロールキャベツ」

 ぽんっとキッドが出したリクエストに、どっと全員が吹き出す。
 屋敷が揺れるような笑い声に、キッドは顔を赤らめた。
 毎回リクエスト権が回ってきたら飽きずに頼んでは生ぬるく笑われていたのだ。どうせいつも通りすぎると笑われるだろうと思っていた。
「言うと思ったぜ、キッド!」
 笑いすぎて窒息しそうになりながらキラーが声を絞り出す。
「流石だ船長、ブレねえな」
「任せて、船長が泣くほど美味いの作るから。キラーが」
「ああ、仕方ねェ。腕を振るうしかねェな」
「うるせェ! 良いか、全員でおれの為に作って、全員で食え。これは船長命令だ」
 げらげらと笑い声が大きくなり、肯定が返る。
 それを背に受けながら、キッドはのしのしと大股で屋敷を離れた。
「ったく、船長なんてろくでもねェいきもんだぜ」
 独りごちて、足幅を緩める。置いていっては買うべき物もキッドには分からない。
「頭、何か言った?」
「何も言ってねえよ。で、何買うんだ?」
 追いついてきた仲間と、キッドは市に歩を進めた。海賊なのだ。甘っちょろく情けないことなど言うつもりはない。
 仲間が居なければ、飯の食い方も、気の緩めかたも──きっと息の仕方だって忘れかけていたなんてことはキッドだけが知っていれば良いことだ。
 そんなことよりキャベツと肉を追加で買わねばならない。