スワロー島とミニオン島は近い。
死にかけた少年がこぎ出した小舟でもたどり着けるほどには近く、冬なら海氷を歩いて渡れるほどには近い。
だが、ローはあの日以来ミニオン島に渡ったことはなかった。
その場所に足を踏み入れるにはあまりに生々しく傷跡は血を流していた。あのときの五つの銃声と共に今なお癒えぬ悲しみがその島にはまだありありと残っているように感じていた。一人置き去りにした大好きなあの人が、もうどこにもいないことを突きつけられるような恐怖のためでもあった。
けれど今、ローは一人ミニオン島の岸に小舟を着けていた。あのとき宝箱に収まるほどだった少年は長躯の青年となって再び運命の島に船縁をまたいで戻ってきた。
表情は暗く、唇を噛み締めて俯きながら、ミニオン島に足をつける。あのときに降りしきっていた雪も、空を見れば張り巡らされていた絶望の鳥籠も今はどこにも見えない。
雪のかけらもない海岸には今が盛りと下草が茂り、空は青く澄んでいる。
奇しくも季節はあの日とは真反対。
極寒の北の海が最も美しい季節。空は雪を忘れて青く、寒さを逃れた草花が色とりどりに短い夏を謳歌する。ミニオン島も例に漏れず、青空の下に色とりどりの草花が道ばたに群れなしていた。
その草むらを踏み潰してローは黙々とがれきの廃墟を上る。砂利道に落ちる青ざめた深い影をじっと見つめる。
あの頃は彼に抱えられなければ移動さえままならなかった体では永遠にも思えた遠い道のりは、若木のように伸びたローにとってはほんの数十分の道のりとなっていた。
DETHの刻まれた片手にはぐしゃぐしゃになった新聞が握りこまれている。
その一面には遙か遠くの偉大なる航路のある一つの王国の大きな事件を伝えていた。
何のことはない朝だった。
「ローさん、夏至祭どうする?」
「ああ、もうそんな季節か」
ペンギンが玄関から新聞を拾ってきて声を弾ませた。丁度コーヒーを淹れていたローは欠伸をかみ殺しながら生返事を返した。
極寒のこの島が華やぐ短い夏を慶ぶ祭りはローももう二度経験している。季節がこれで二つ半回ったのだとふと実感した。
「おれは店で屋台出すんだよね。ベポもだろ?」
皿を並べていたベポがペンギンに頷く。その皿に手際よくサニーサイドエッグを乗せていくシャチがローに声をかけた。
「うん、工場で修理工房出すんだって。おれも手伝にいくんだ」
「ローさん、おれとヴォルフとガラクタ売りに行こうぜ」
「そういえば薬作ったな……あれ売れるか。あ、ペンギン、鍋」
ベポのマグに牛乳を注ぐ途中で吹きこぼれかけている鍋に気がつき、ローはペンギンを促した。
「やべッ!」
ペンギンは慌てて新聞をテーブルの真ん中に放り投げて鍋にとりつく。
ローは何気なくその新聞に視線を向けた。日付を確認しようとか、新聞の情報を読もうとか、そんな思考さえもなくただ視線を置かれたものに向けただけの仕草だった。
もう二年と半年、ローはこの島に馴染んでいて、あと数日後の夏至の祭りには島の人間の一人として店を出すだろう。診療所に来る患者がローを見つけて話しかければ、ローは若い医者の卵として返事をするだろうし、シャチが若い娘に声をかけるのを呆れて見守り、暇を見つけてベポとペンギンの出す店に足を運ぶだろう。そうすれば二人が喜ぶのを知っているからだ。
フレバンスの華やかな祭とはまた違う小さな島の小さな祭りをローはローらしく楽しんだだろう。
こういう日々をこれからもずっと過ごしていくのかもしれない。それほどに心地よく、柔らかなぬるま湯のような日々にローは沈んでいた。
──自分にそんな資格などないことを、自分とよく似た男があざ笑っている。
紙面の中で、王となった男が。ローに舌を突き出して嗤っている。
つるりとローの手からマグがこぼれ落ちた。鈍重な音を立ててテーブルから床へ黒い染みをつけながら転がっていくマグに、キッチン中の視線が集まる。
「ローさん!? 大丈夫!?」
シャチが慌てて声を上げる。
「や、やけどしてない!? ヴォルフ
に氷持ってきてもらう?」
「なんじゃお前ら、メシも静かにくえんのか!」
ベポが慌てる。寝ていたヴォルフもその騒動に目を覚ましたのか、部屋から怒鳴り声がする。
「……ローさん?」
それらに一切の反応を示さないローに、ペンギンが怪訝そうな声をかける。
ペンギンに肩を叩かれて、ローはのろのろとしゃがみ込んで床に落ちたマグカップを持ち上げた。ヴォルフのカラクリが零れたコーヒーを拭っていく。
「──悪ィ」
拾ったマグをテーブルに置き、テーブルに投げ出されたままの新聞を手に取った。
ともすればカタカタと震えだしそうな指先を押さえつけた所為で、力一杯に新聞を握りつぶしてしまった。
何かがローの体いっぱいに張り詰めて、破裂しそうな爆弾のようだった。押し込めていなければそれが破裂してすべてが壊れそうでローの動きはひどく緩慢としていた。
「シャチ……今日、は、診療所に行けねェと伝えてくれるか」
「う、うん、わかったよ」
いつも通りをなんとか粧おうとして自分でもできていないとわかった。それを指摘されないことに甘えてローはぎこちなくリビングを出た。
「ローさん……!」
部屋を出る間際の背にベポの声がかかる。油の切れたブリキのおもちゃのようにローの足が止まる。
「今日の夜は、鮭かってくるね!」
背を向けているのを良いことに、ローはぐしゃりと顔を歪めた。わずかに肩が震えたことは気づかれていなければ良い。
俯いたまま立ち止まったローの背中を三人はじっと見つめている。
話してくれ、と待っている。
きっと、今振り返ってこの自分を突き動かすものを吐き出してしまえば彼らは許してくれるだろう。ローを慰め、甘やかし、許しを与えてくれるだろう。それをきっと、待ってくれているとわかる。
だが、ローはロー自身にそれを許すことはできなかった。
「──ああ」
ローはわずかに彼らに振り返って口角を上げた。口元だけならなんとかごまかせるだろう。
「美味いのを頼む」
手を振って、能力を展開する。
家を出てローは歩き出した。
その手には新聞がある。
扉の閉まる音が聞こえ、ローは足早にそこを離れた。そうしてだんだんと駆け足になり、人気の無い林の端で息を切らす。
「ドフラミンゴ……!」
立ち止まったローは白樺の木の根元にその名を吐き捨てた。
握りしめた手の中には、王となったかつての船長が笑っている。新聞はじっとりと汗ばんでいた。
すべてを憎み、恨んでいた自分を導いた男がローをあざ笑っている。
ドレスローザ新国王!
王下七武海ドンキホーテ・ドフラミンゴ、悪王を成敗しドレスローザ国王へ!
踊り狂う文字を読んで、ローは白樺の幹に手をついて口元に手を当てる。
「うぇ……」
こらえきれなかった嘔吐きが漏れて、せり上がったものが喉を焼く。生理的な涙が目尻に浮かんで頬を伝う。
全部わかる。
何もかもわかる。
その紙面を見た瞬間に、ローは紙面に踊る文字の裏側の全部を理解していた。
ドフラミンゴが策を弄し一つの国を我が物としたのだ。
──自分の所為で、国が一つ、海賊の手に落ちたのだ。
あの人が、本当だったら守っていたはずの国が。
あのとき、ヴェルゴと名乗った男の手で破られ、吹雪に散った紙切れで守られるはずだった人々が。
彼が守るはずだった“遠い国”。彼がドフラミンゴから救うはずだった、気取られることさえなく遂げるはずだった彼の本懐。彼の任務。
それはすべて無に帰した。
──おれの所為で。