Onece upon a time in Brooklyn

 痩せっぽっちのスティーブ・ロジャースがベッドの上で出来ることといったら、絵を描いたり本を読んだりすることだけだった。だからそれらはとても上手だった。
 心臓が弱く、喘息持ちですぐに体を壊すスティーブが外に出るのは、導火線に火が付いた時限爆弾を抱えて歩くようなもので、すぐにベッドに戻るスティーブと好んで遊ぼうという友人はとんといなかった。
 たった一人、ジェイムズ・ブキャナン〝バッキー〟バーンズを除いては。
 つい先日、重い猩紅熱に罹って入院していた病院でひょんな事で知り合った少し年上の少年は、母の他に唯一、退院の迎えに来た人間だった。
 バッキーは実に辛抱強い友人だった。スティーブの弱い体を気遣って遊んでくれるのは、彼くらいのものだった。
 溌剌として、自信があり、思慮深く、それでいて親切だった。ブルックリンの少年達はみんな彼に一目おいたし、少女達は熱っぽい瞳で彼を見ない日は無かった。まだティーンにも成っていないのに、バッキーがひとかどの人間であることは誰でも知っていた。
 スティーブには、彼が自分の何を気に入ったのかは分からないが、病院で知り合ってから、彼は頻繁にスティーブを外に連れ回した。ブルックリンで一番美しい少女を横目に、ボールをおい、ベーブ・ルースのホームランに歓声をあげ、ドジャースの勝敗に悲鳴を上げた。
 それが嬉しかった。
 幾度かははしゃぎすぎて夜に熱を出して苦しい思いをしたが、それでもスティーブは彼と遊ぶことをやめようとはしなかった。
 与えられた時間は短くても、僕に出来ることを精一杯したい。
 スティーブはそう考えている。
 熱と痛みに冒されて朦朧とした意識の中で、母と医者が自分について話しているのを聞いていた。 
 すすり泣く母。苦しげな声の主治医。呻く声――これは自分の喉から出ている――それらが混ざり合う、見慣れた入院病棟。
――10歳になるまで、彼は生きていくことが出来るかどうか……。
 短い人生だからこそ、スティーブは悔いの無い様に、人生を楽しみたかった。そして、一緒に楽しむならバッキーとが良かった。スティーブがそう思っているように、バッキーがそう思っているのかは、あまり自信は無かったが。
 

「母さん、良いでしょう?」
 初夏の晴れた暖かな日、スティーブはサラに拝むように頼み込んだ。
 窓から見える狭い空には青空が広がり、風も強くない。雲が日差しを柔らかに遮り、暖かにマンハッタンを暖めている。
「バッキーと遊びたいんだ。最近ずっと会えなかったんだよ」
 サラはスティーブの額に手を当てながら、難しい顔でスティーブを見下ろした。
「昨日の夜まで、死にかけてたのよ?」
「僕はいつでも死にかけてるけど、今は生きてる!」
 寝間着姿で胸を張る息子を、サラはどう思ったのだろう。少し思案げな表情を浮かべていたかと思うと、息子とよく似た碧眼を和らげて頷いた。
「いいわ、行ってらっしゃい。でもあまりに日に当たりすぎないで。夜風が吹く前に帰ってきなさい」
 サラは息子の頬を撫でて許可を出した。スティーブはか細い歓声を上げ、掛け布団を跳ね上げて服を着替える。
 先に新聞紙を詰めた大きめの靴を履き、スケッチブックとペンを持ってスティーブは階段を降りる。
 バッキーがいつもいる場所はだいたい知っていた。ユダヤ人地区<ゲットー>のあたりで、最近はよくぶらついている。引っ越しが多い場所だから、いろいろ覗いていると面白いんだと言っていた。
 あまり治安の良い場所とはいえないが、それは最近ではどこも同じだった。禁酒法が始まってからギャングはずっと幅をきかせているし、ブルックリンで銃声や喧嘩の声が聞こえない日は無い。町中のスタンドにガソリンが掛けられて燃やされた事もあった。犯人はスティーブといくらも年の変わらない少年達だと、スティーブは知っている。それもバッキーからの噂だった。
 猥雑で、暴力的だがそれでもここが自分たちの街だった。
 小さい体を活かして人の脇をすり抜けながら、バッキーはいないかと目を光らせる。
 声を掛けたらきっと驚くだろう、とわくわくとした気持ちがあった。
――スティーブ! お前、やっとシーツお化けをやめる気になったのか?
 あの青灰色のきれいな目をまん丸くして、それから楽しそうに笑うのだろう。バッキーのそういう表情はスティーブを楽しませるものだった。病床の自分に寄り添う、自分よりもよほど辛そうな顔よりずっといい。数日前、彼に風邪を移さぬように家から追い出した時の顔は、まるで今生の別れのようだった。
 バッキーがいない日は恐ろしく退屈だったし、正直に言えば、バッキーと出会う前の自分が何をして生きていたかが思い出せない。きっととてもつまらなかったに違いない。
「あっ」
 随分と見慣れた背中に、スティーブの目が輝く。大人達の間に、見慣れた彼の背中が見えた。路地裏にひそむような彼に声を掛けようとした。
「バッ――」
 声を掛けようとして、スティーブは喉の奥に彼の名を押し込めた。
 彼は見たことの無い顔をしていた。バッキーの側にいるのは見たことの無い年かさの少年で、ここいらに昔からいる子供じゃ無いのはすぐに分かった。彼は口の端にたばこを咥えて大人ぶっている。シガレットケースをバッキーに差し出している。バッキーもまんざらでもなさそうにシガレットケースからたばこを受け取った。指先で細い煙草を揺らす。周りにいる年の変わらない少年達が、歓迎するようにくちゃくちゃと噛み煙草を噛みながらバッキーを囲んでいる。彼等のことは知っていた。ギャングの手先になっているような連中だ。
 何か異様な空気がその路地に流れ込んでいるようで、バッキーがその空気に呑まれてしまうようで、スティーブはぞっとした。
 乾いた喉を開いて、先ほど押し込めた彼の名を呼ぶ。
「バッキー!」
 喉が痛む気がしたが、かまいやしなかった。
「バッキーっ!」
 煙草の先に火を付けようとしていたバッキーが、煙草を取り落として顔を上げる。路地裏の陰から、彼の青灰色が自分を見つける。目が合った瞬間、彼ははっと何かを恥じるように視線を反らしたように見えた。
――バッキー?
 駆け寄ろうとしたスティーブの目の前に、馬車が通って裾を泥が汚す。
 路地裏の連中に何かを断って、何処かに消えるバッキーがみえた。 
 それを追おうと歩を進めたが、結局見失ってしまった。ベッドに縛り付けられているスティーブに比べ、バッキーの方が街の地理を知っている。
 何かもの悲しさのような、つきんとする痛みがスティーブを訪れた。心臓が痛いのには慣れているが、それとはまた違う痛みだった。

 バッキーを見失ったスティーブは、とぼとぼと街を歩く。バッキーの教えてくれた見晴らしの良い場所に来てようやく、スティーブはため息を吐いた。歩きすぎて少し動悸がする。
 乱立するアパルトメントやタワーの屋上で、小さくて誰にも見つからない、スティーブとバッキーの秘密の隠れ家だった。
 彼がいないだろうかと少しの期待もあったが、彼の姿は無かった。落ち込む心を慰めつつ、スティーブは建物の陰に腰を下ろして街を見下ろした。
 目の前に見えるのは、ファット・モーの店だった。店の前を箒で掃いている。引っ越し業者の馬車や自動車がひっきりなしに行き交い、セピア色の土煙が街を煙らせている。
 スティーブは街を見下ろしながら、古びたスケッチブックを広げた。
 サラの給金ではなかなか買えるものでもないスケッチブックには、両面に隙間の無いほど絵が描き込まれている。中程のページはすっかり真っ黒になり、書き込む隙間が無い事を確認して、スティーブは惜しみながら新しいページを開いた。少しデフォルメされた絵柄で彼の似顔絵を描く。サラに続いて、彼がスティーブの専属モデルだった。
「今日は遊ぼうと思ったのにな……」
 呟きながら鉛筆を滑らせていれば、少しだけ心が軽くなる。
 バッキーの顔を思い出しながら鉛筆を動かしていた時だった。
「――何描いてんだ、お前」
 低い声が背後から響いて、スティーブはびくりと振り返った。そこにいたのは、青年に半ばさしかかった少年だった。バッキーよりも年上に見える少年は、草臥れたハンチング帽の下で怪訝そうにスティーブを見下ろしていた。ユダヤ系の彫りの深い顔立ちに、利発そうな黒々とした目が印象深い、ひどく整った顔をした少年だった。
 彼はスティーブの警戒も気にせずに隣に腰掛けて、スケッチブックを覗き込む。
「こいつは?」
 スケッチブックの中のバッキーを指した少年に、スティーブは渋々応じる。
「友達」
「へえ。――ああ、こいつバーンズ家の長男坊だな。ジェイムズ・バーンズ」
「知っているのか?」
「まあ、顔と名前くらいは。おれのダチが気に入ってた」
 少年は肩を竦める。
「上手いな」
 少年はしげしげとスケッチブックを眺めて呟いた。いたたまれないような気持ちでいると、ふと少年がスティーブの顔を覗き込んだ。
「なあ。ファット・モーの店にいる、デボラって女知ってるか」
「デボラ?」
「知らねえの?」
 少年は呆れて目を回した。
「お前本当にブルックリナイツ?」
 からかう様な声は、普段は不快になるようなものだったが、その少年に対して何故か不快感は涌かなかった。その代わりに正直なところを話す。少年はどこか、そういうことを許すような雰囲気があった。スティーブに負けず劣らずの頑固さの裏に、地に足の付いていないような雰囲気も併せ持った、不思議な少年だった。
「生まれも育ちもブルックリンだけど、体が弱くてあまり外に出たことがないんだ」
「そうか。あ――」
 少年が視線をむける先に、ファット・モーに話しかける少女が見えた。食い入るように彼女を見る少年に、スティーブが納得する。
 確かに、浮き世離れするような美しい少女だった。そして、彼女に見覚えもある。バッキーの言っていたブルックリン一の美女だ。
「……あの子?」
 少年は気恥ずかしいのか、むっとした顔をして頷いた。
「あいつの似顔絵描けるか?」
 そのときの少年の顔が、どこか夢見るようだったから、スティーブは頷いたのだ。
 少年の指図を横でちょこちょこ受けながら、屋上から覗き込んだ彼女の顔をスケッチブックに描いていく。はにかむような笑顔。いつもつんと白鳥のように澄ましている彼女の表情を、すこしだけ柔らかく描けば、少年はほんのりを頬を紅潮させた。
 気がつけばすっかり日は傾き、白い日が橙に染まろうとしていた。
「出来た」
 スティーブが鉛筆を置けば、ぼんやりと空を見ていた少年がスケッチブックを覗き込む。
「デボラだ」
 ぽつんと呟いた彼は、ひったくるようにスケッチブックのページを破ると、スティーブの手にくしゃくしゃの紙幣を握らせた。
「それやるから、これはもらう」
 そういう少年が、その絵を離すつもりが無いのはよく分かった。自分の絵にそんな評価をする人間は母とバッキーの他に知らなかったスティーブは、何だか面白い気分になって首を振った。
「初めからアンタにあげるつもりだったから、別にこれは要らないよ

「馬鹿だな、ちびのドミニクだって知ってるぜ。仕事には金を、だ」
「仕事? これが?」
「おれが頼んだことを、お前はやった。Good jobだろ?」
 スティーブが何も言い返せぬうちに、少年はひらひらと手を振って階段を降りていった。ともしないうちに、階段から少年が顔を出す。
「聞き忘れてた。お前、名前は?」
「スティーブ」
「おれはヌードルス。じゃあな、スティービー」 
 そう言ったきり、ヌードルスと名乗った少年は階段を降りていく。スティーブと言えば、その名前に驚いていた。
「……ギャングのやつだ」
 バッキーから聞いたことがあった、ギャングの手先のリーダー格が確かそういう名前だった。禁酒法を破って大金持ちになったとか、スタンドに火を付けたとか、警察を脅迫したとか、噂には事欠かない少年だった。
「あいつが……」
 どこか、この場所にいないような表情をする少年が、極悪人だということに咄嗟に理解が及ばず、スティーブはしばし放心する。
 我に返ったのは、彼が階段の下に降りようとする頃だった。
「待ってくれ、ヌードルス!」
 大慌てで階段を駆け下り、息を切らせて彼の隣に立ち、紙幣を突き返す。彼はきょとんとスティーブに首をかしげる。
「ん?」
「ジェームズ・ブキャナン・バーンズは僕の友人だ」
 あまり激しく動いたが為に、ワンセンテンスごとにぜえぜえと息を切らせながら、ヌードルスの袖を掴む。
 彼は、ギャングに与する少年達のリーダーだった。あの路地で、バッキーを囲んでいた少年達のうち、年下の方のリーダー格は、間違いなく彼だった。
「頼む……、バッキーをギャングにはしないでくれ。あいつには似合わない」
 ヌードルスはスティーブの顔をまじまじと見ると、こくりと頷いた。
「ああ、おれも取り分が減るのはイヤだし。マックスが気に入ってたけど、止めるように言っておいてやるよ」
「本当か?」
「その代わり――」
 ヌードルスの示した取引条件に、スティーブは力強く頷いた。

しかし、その時に頼まれて描いた彼女の絵は結局彼に渡ることはなかった。
ヌードルスの殺人と逮捕は出会ったはずの二人を遠く引き離したからだ。
昔々のブルックリンの話。