「蜂須賀虎徹。虎徹の真作と言われているが、実際のところは分からないんだ。でも、本物の虎徹のつもりで頑張るから期待して欲しいな」
己の耳を疑う名乗りに、理解が遅れる。蜂須賀虎徹が言ってはならない言葉。それを何故、当然のように名乗り上げるのか。
促した三日月宗近が愕然とした顔をしていた。その側に居た小豆や和泉守、大和守が息を呑んで、小首を傾げる蜂須賀を凝視する。
──自分はどういう顔をしていただろう。
長曽祢虎徹に分かるのは、その瞬間、手元で、浦島が買ってきてくれた揃いの湯飲みが割れたことだけだ。
「長曽祢、これ好きだろう?」
微笑んだ蜂須賀が菓子を差し出す。
おみまいだぞ、と配られた小豆長光謹製のスイーツはいくつか種類があった。
いの一番の見舞い客であった大和守と和泉守、尻込みしていたところを引きずられるようにして漸く足を運べた自分。自分にとって小豆のスイーツは何よりの助け船だった。
ここにいるものだけのひみつだからな、と笑う小豆に和泉守と大和守がわっと喜んだ。
自分も甘い物は好きだった。しかし、今はそれを喜ぶ気にはなれずに手が伸びない。
それをちらりと見た蜂須賀が布団から身を起こして菓子を手に取る。
その手には最近小豆が作る異国のスイーツの中で一番長曽祢が好きなバクラヴァが乗っていた。そうか蜂須賀もこの洋菓子が好きなのか──と思った矢先の言葉だ。
「え」
当然のように菓子を蜂須賀から手渡されて長曽祢はぎょっと目を剥いた。
その声にも表情にも触れれば刺さる棘のようなものが見当たらなかった。
ついでとばかりに湯飲みまで手渡される。思わず受け取って、長曽祢はまじまじと蜂須賀をみる。大和守と和泉守が目を見合わせた。
「仲直りしたの?」
と大和守がきょとんと問いかければ、
「なんのことだ?」
と、蜂須賀が首を傾げる。
「……手入れは終わったんだよね?」
「手入れはいらなかったよ。疲れが出ただけさ」
蜂須賀は対大侵寇防人作戦のあと、三日月を連れ戻したその場で昏倒した。
三日月と主が真っ青な顔で手入れ部屋に運び込んだところ、傷ではなく過労と出たので三日月は手入れ部屋の前に座り込んで小一時間は動けなかったし、主は自省しすぎて鶴丸に自分の埋まる穴を依頼したほどだった。
目が覚めたのも今日の朝だ。そろそろ浦島や他の仲間も飛び込んでくるだろう。
「まだ疲れが抜けてねえんじゃねえか?」
「まさか。寝過ぎたくらいだよ」
菓子を飲み込んだ和泉守が怪訝そうな顔をする。蜂須賀は苦笑して首を振った。
「それより、いらないのか?」
彼は首を傾げて長曽祢の視線を受け止める。その碧い目に乗る感情に、敵意も怒りも何もない。なにもない。
長曽祢には向けたことのない、穏やかな親愛の色をしていた。
ぞわりと腹の底がざわめく。
何かがおかしい気がする。
「──蜂須賀!」
長曽祢の沈黙を破る荒い声が手入れ部屋に飛び込んだ。 三日月宗近だった。面会ができるようになったときいて、着の身着のまますっ飛んできたのだろう。内番装束のままだった。
「宗近さん?」
血相を変えた三日月が珍しく足早に駆け寄ると蜂須賀の肩を掴む。
「蜂須賀虎徹」
「な、何だい宗近さん」
内番装束で戦場よりも真剣な顔をする三日月に蜂須賀はきょとんとした顔をする。
三日月は少しの逡巡のあと、蜂須賀の肩を痛いほど掴んで告げる。
「……主に言うように、名乗ってくれんか」
「主に言うように? ええ、みんな知っているだろう?」
「今、ここで。頼む」
「ここで?」
真剣な目に蜂須賀がたじろぐ。
「……良いじゃねえか。頼むよ、蜂須賀」
「僕も久しぶりに聞きたいな」
和泉守と大和守が何かを察したのか三日月を後押しする。
「仕方ないな」
そうして、蜂須賀が気恥ずかしげに名乗った言葉に手入れ部屋は静まりかえり、手の中の湯飲みが割れる音だけが遠く聞こえた。
「主に報告するぞ」
そういう三日月に反対するものは誰もいなかった。
**
「当たりだ。一部の本丸で蜂須賀虎徹の侵食が認められた。主は水心子と対策本部へ出向した」
山鳥毛は手の中の資料を机にたたき付けるように広げ、眉根を顰めて告げた。主から大慌てで渡されたという資料には政府からの通達の写しも混ざっている。歴史改変対策本部への出向令状だ。
「……侵食」
それを長曽祢は鸚鵡返しに繰り返した。やはり、と三日月が低く呟く。傾国の美貌を曇らせ、険しい顔で資料に手を伸ばす。
大和守と和泉守は大慌てで浦島を探しに行っている。
渦中の蜂須賀を横目に見れば、周りの深刻な様子に気圧されているようだった。己のことだというのに、自分に自覚がないのだろう。
三日月が資料に目を通し終えて山鳥毛を見上げる。
「蜂須賀の物語への攻撃か」
山鳥毛が重々しく頷いた。
「まだ一部の本丸にしか影響はないが、この改変点は無視できない。池田屋改変や延享年間──最悪はその歴史ごと放棄すると。その場合……」
山鳥毛の視線が蜂須賀に注がれる。三日月が引き継ぐ。
「その場合、改変の影響を受けた蜂須賀虎徹は破棄処分となる、か」
蜂須賀が目を丸くする。机の下で握っていた拳がぎり、と痛んだ。
「特命調査、覚えているか」
三日月が指の先で資料の文字をなぞりながら蜂須賀と自分に目を向ける。
「ああ」
頷く蜂須賀は全ての特命調査に出陣している。
特に天保江戸への出陣では隊長を勤め上げたほどだ。一方で自分が出陣したのは、慶長江戸の特命調査だけだった。
三日月が続ける。
「放棄された世界、放棄される前はどこかの本丸の守る歴史だった。攻撃を受け、改変を防げず、敗北した本丸があるから放棄されたのだ」
「そう、だろうね」
「我等は歴史を守らねばならない」
言葉を止めてそうが呟き、ふと眉根を開く。
「だが、おぬしを放棄などするものか。必ず守る。俺を迎えに来てくれた、俺たちのはじめの一振りよ」
固い表情で話を聞いていた蜂須賀が漸く表情を緩めた。
「ふ、ふふ。防人作戦の最中、で俺たちもそう思っていたんだよ。それをあなたに言われるなんて」
蜂須賀がそう笑うと三日月が少しばかり恥ずかしげに口元を緩める。
長曽祢はその言葉に思わず顔を強張らせた。
大侵寇、防人作戦──苦い記憶と今が繋がってに長曽祢の心臓がいやな音を立てて軋んだ。
未だに拭えぬあの恐怖はまだ自分の心の一部にこびりついて拭えずにいる。
ともすればあのときの記憶に戻りそうな思考を振り払うように山鳥毛に視線を向ける。
「山鳥毛、改変点調査の目処はついているのか」
「ああ。先と重複するが、まだ改変の影響は一部の本丸にしか出ていない。まず、その一部の本丸でそれぞれ先行して調査を行う予定だ。今政府で対策本部が本丸の選定をしている」
蜂須賀が首を傾げる。
「その一部って、どういう本丸なんだい?」
山鳥毛は一瞬口元を引き結び、ちらりと蜂須賀を見やる。その視線に案じるような色を見つけ、嫌な予感が首筋を伝う。咳払いの後に山鳥毛はゆっくりと告げた。
「ここ数ヶ月の間に、修行を経た蜂須賀虎徹が折れた本丸だ」
ぎくりと自分の肩が揺れるのが分かる。
「……それでか」
「何……」
蜂須賀もうっすらと察していたようで動揺は見られない。
むしろ、三日月の方が狼狽えて言葉を失っていた。
それもそうだろう。
この刀が折れたのは、彼の居ない時期、本部のバックアップがあるはずの防人作戦の最中だった。
自分の腕の中で折れてゆく蜂須賀虎徹──弟とも思う刀の今際の際が、今も長曽祢の心を冷やし続けて止まない。
**
今でも耳にこびりつくあの乾いた鋼の割れる音。前のめりに地面に転がってその時に聞こえた音を、長曽祢は忘れはしない。
最後の力を振り絞った巨大な敵の槍が、己の頭蓋を砕こうと突き抜かれ、痛みを覚悟した瞬間に視界がぶれた。
蜂須賀に突き飛ばされたのだと気付いた瞬間に氷水をかけられたように血の気が引いた。
鼓膜を揺らしたのは鋼のひび割れる音。
ここで聞くことはないはずの。
体の痛みを無視して焦燥に駆られながら振り返れば、自分を突き飛ばした蜂須賀が腹に大型の敵の槍を受けて血を吐いていた。金色の戦装束が血で真っ赤に染まっていく。血で汚れた口元を食いしばって、槍の柄を押さえている。
「蜂須賀ッ!?」
「虎徹の切れ味──味わうがいい!」
片手で腹を貫く槍を引き寄せて振りきった刃は、虎徹の名にふさわしく一振りで首を断ち切る。敵の槍がざらざらと錆屑と化して崩壊した。
蜂須賀は槍の柄が崩れると同時に膝から頽れた。
這いずるように駆け寄った長曽祢が両手を伸ばす。頽れるその身を受け止めれば、茫洋とした碧い目が防衛フィールドの朝焼けの空を見上げていた。美しい紫雲の髪が血と土埃に塗れてばらばらと散らばっていた。
これが最後の戦場の筈だった。
本部防衛ラインは三波の攻撃を撃退し既にオールグリーン。本部防衛任務は成功をおさめ、このまま残党掃討のフェーズへ移行するとの通達があった。
帰城間際の、負けに焦った最後の抵抗だったのだろうか。
何も写さぬまま明けゆく空を見る目。感じたことのない恐怖に駆られた。
ぱき、と音が止まらない。
──兄ちゃんたち!? 帰還早く!
遠く帰還点の方で浦島が声を限りに呼んでいる。
その声がうわんと耳鳴りのように響いた。
愛する弟の声にも、蜂須賀はぴくりとも反応しなかった。それがどんなにあり得べからざることなのか自分はよく知っている。自分に身を預けていることだってあり得ないのだ。
あり得ぬことが起こっている。
暗雲よりも昏い予感に身が竦む。戦場に絶対はないと知っている筈なのに、我を失うほどに狼狽えていた。
「は、蜂須賀……? な、なんで俺を」
みっともなく震えた声で彼を呼ぶ。心臓が軋むように脈打って冷たい汗が額を伝う。からからに乾いた喉から彼の名を絞り出す。
「蜂須賀……!」
彼を抱える手が震えていた。
防人フィールドは政府本部が介入する戦場だ。手形の交付で損傷は全て回復する。さもなければ十億もの敵の波状攻撃の防衛など不可能だ。
本部が必死にその機能を優先的に回復させ、フィールドを展開していたのを知っている。
だから、ここで蜂須賀が折れる筈がなかった。
顔に掛かる髪を払い、抱き寄せる腕に力を込める。顔の血や汚れを必死な手つきで拭う。細い息が手に掛かるのが余計に恐ろしかった。
「蜂須賀、しっかりしろ! おい、おいっ!」
怒鳴るように声を上げる。
何かひとつでも動かしたらそこから折れてしまいそうな脆い危うさが蜂須賀には満ちていた。
鋼のひび割れる音が止まない。
「は、蜂須賀。蜂須賀虎徹、嘘だろう。真作のお前が折れる訳が……何故お前が……!」
縋るように握った彼の手の冷たさ。たおやかに細く、しかししっかりと剣胼胝のついた固い手のひらだった。
「ふざけるなよ!」
悲鳴のような声だった。
この身体が審神者に励起されただけのもので、自分たちの本身は鋼なのだと思い知らされるような凍てつくような冷たさ。
「──ああ」
吐息のような声が彼のかさついた唇から漏れる。それは満足そうでもあり、惜しむような吐息だった。視線が微かに動き、朝焼けの太陽に目を細める。
消える前の蝋燭のような一瞬の灯が彼の目に点る。
あのとき、蜂須賀が何を言っていたか、全く覚えていない。何か、ひどく恐ろしいことを告げていたような気がして、思い出そうとするとひどく頭が痛んだ。
「──ほんとうは、俺は……」
長曽祢の腕の中で、蜂須賀の身体が解けていく。刀の折れる音がする。刀であったときも、刀剣男士となってからも聞いたことのある音だ。
吐息を漏らすように囁く声が自分の耳に届き、心臓を握りつぶされるような苦痛が襲いかかる。
決定的な音がして、蜂須賀虎徹は一度確かに折れたのだ。
自分の心に、拭いきれない苦痛と恐怖とを刻みつけて。
**
主がこの日に限ってお守りを持たせていなければ、蜂須賀虎徹はあの作戦で折れた唯一の刀となっただろう。
結局、本部の突貫で作成したフィールドシステムの不具合によって引き起こされた偶発的な事故だった。フィールドが正常に作動していれば破壊は起きなかったが、不具合の状況によってはお守りも発動しなかったといわれた。本当に運良く、お守りの発動によってこの本丸に帰ってくることができたのだ。
引き留める主を宥め、その足で三日月を迎えに行き、帰ったその場で過労で倒れて、一週間ほど眠り続けて今日目覚めた。
その顛末を初めて聞いた三日月は自責に駆られたのか顔を曇らせていた。それを慰めるように蜂須賀が長曽祢を見る。
「あのときは困ったよね。浦島が離れてくれなくて」
あのとき隊長を務めていたのは浦島だった。違和感を覚えて駆け戻り、兄がお守りで蘇る丁度そのときを目撃した心痛は、想像してあまりあるだろう。戦場では気丈に耐えていたが、本丸に帰城した瞬間にぼろぼろと泣きながら自分に縋っていた。主と共に三日月を迎えにいくという蜂須賀を引き留めたのも浦島だ。
「そうだろうな」
「本当の兄弟かも分からないのに、あの子は本当に良い子だよ。ねえ、長曽祢」
ふふ、と髪を揺らして笑う。
三日月と山鳥毛が言葉を失う。
机を殴りつけたのは殆ど無意識の反応だった。
「浦島はお前の、実の弟だ! お前はおれとは違う!」
「……は」
自分の剣幕に蜂須賀がぎょっとした顔をする。机に振り下ろされた拳と長曽祢の顔を交互に見て、口元に手を寄せた。
他人事のようだった蜂須賀の表情が初めて危機感に染まる。初めて見るもののようにこの場を見て、みるみる顔を険しくさせる。
「──俺は、今、なんと言った。贋作、これは」
明らかに表情が先ほどと違う。
これは、“蜂須賀虎徹”だ。
「蜂須賀!」
咄嗟に三日月が蜂須賀の肩を掴んで目を合わせる。
「お前の物語は、どこが歪んだ」
「……俺は昭和の初め、贋作とされた虎徹……。ちがう、俺は真作だ。真作の筈だった。だが、あいつが俺を贋作と──」
「あいつとは」
「わからない。いつのまにか屋敷に出入りしていた、札下肝いりの刀の先生だと、金長が──」
ぐらぐらと、今、自分の目の前で蜂須賀虎徹を形作るものが揺れている。今にも身体が解けて消えてしまいそうなほどに揺らいでいる。
三日月の目配せを受けて山鳥毛が書き留めたメモを手に足早に部屋を出た。
「ふざけている」
吐き捨てる自分の声が獣の呻きのように部屋に響く。
世迷い言にもほどがある。この刀は真作の虎徹なのだ。
つよく、しなやかで良く切れる、優しい刀。
あの静謐で穏やかな碧い双眸が敵を屠る時の苛烈なまなざし。陽光に照り映える蜂須賀家の黄金蒔絵の半太刀拵。
初めて本丸で相見えたとき。
戦場での姿を見たとき。
確かに確信したのだ。
前の主が──近藤勇が憧れて求め、自分もまた憧れた武士の心を写す刀は、この姿をしているのだと。それを、その刀を、これほどに踏みにじるのが、歴史修正だというのか。
憤りのままに蜂須賀の腕を掴む。
「お前は本物の虎徹だ……!」
腕がふりほどかれ、いつもの、長曽祢を見据える澄んだ視線の強さが戻る。
揺れ惑っていた蜂須賀の声が、わずかに芯を取り戻した。
「……贋作に言われずとも分かっている! 俺は虎徹の真作だ。侮るな……!」
ひたむきなほどまっすぐに長曽祢を射貫く双眸があるかぎり、彼は彼のままだ。
それに安堵したのもつかの間のことだった。
蜂須賀が蜂須賀虎徹としての意識を保っていられたのはその時限りで、糸の切れた人形のようにぷつりと何かが断たれた。
時を同じくしてドアが勢いよく叩き開けられた。
ドアの向こうから土に汚れた浦島が悲痛な顔で駆け込んでくる。
「蜂須賀兄ちゃん……!」
「浦島……」
畑仕事からそのまま駆けつけた浦島を一瞬見つめた目がゆっくりと瞼の裏に隠れていく。その目の色彩が欠けていくのが見えて息を呑む。
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
浦島が蜂須賀に縋り付く。
彼の頬が、色を失っていく。鮮やかな紫雲の髪が陰る。その黄金の拵えも、美しい領巾さえも褪せていく。
物語への攻撃というものは、こうして刀剣男士を踏みにじるのだと初めて知る。
そうして、自分たちの見つめる中で蜂須賀虎徹は目を開ける。
「あれ、どうしたんだいみんな」
鮮やかに陽光に照り映えていたあの姿は見る影もなく、色褪せていた。
**
予測改変点先行調査班としての出陣に我等の本丸が選ばれたのは必然と言えるだろう。蜂須賀の抵抗で齎された改変点の手がかりは大きく状況を動かしたという。
その調査に調査員として出陣せよとの命が下ったのは長曽祢だった。驚いたことに自分を推挙したのは三日月宗近だという。
当の三日月は、自ら後方支援班に手を挙げている。
先行調査用に本部から配布された装備一式と、パナマ帽とツエードのダブルスーツを着込んでいる。長曽祢にとっては着慣れない上に見慣れない洋装だ。
袖を通した洋装に窮屈さを感じながら、息を吐く。
「なあ、本当におれでいいのか」
支援班の班長になった三日月に幾度か繰り返したように尋ねれば、彼はしっかりと頷いた。それがあまりに自信ありげなので、毎回その度に何も言えなくなってしまう。
「俺の勘だが、おぬしが一番ふさわしい」
「そうは思えんのだがな……」
自分は昭和など迎える前に歴史の流れから失われた刀だ。その時代も在り続けていた刀の方が良いのではないかという上申は却下された。
三日月は穏やかなようでいて、実は結構な頑固者だというのをこの数日で嫌と言うほど思い知らされた。
「嫌ではないのだろう?」
そう言えば自分が黙るのだと学習してしまった古刀に眉を顰める。
「嫌な訳があるか。確実性の問題だ」
たとえ蜂須賀がそう認めることは決してなくても、自分にとっては彼は大事な弟の一人だ。
ただ、その彼の大事に自分が役者不足で失敗してしまうことが怖かった。
何しろ、自分は彼の毛嫌いする虎徹の贋作なのだから。
黙った自分の肩を浦島が叩く。
「大丈夫! 長曽祢兄ちゃん。サポートはまっかせて!」
副班長に据えられた浦島がぐっと親指を立てる。その笑顔は眩しいが、目元の隈に滲む疲労が長曽祢には痛ましく覚えた。
「ああ。頼もしいな。だが……無理はするな」
浦島の目元はまだ赤い。金色の髪を撫でれば気丈につり上がっていた眉が下がる。
「大丈夫だよ、ありがとう」
浦島のくしゃりと笑う顔が切なくて、長曽祢も胸が痛んだ。
蜂須賀の姿は、以前と変わってしまった。
色褪せた具足と艶のない髪で終日ぼんやりとしている。その有様は、ただ息をしているだけの人形となってしまったようで、見るもので心を痛めないものは居なかった。
しかし彼の刀そのものの輝きが色褪せる事はなかった。
その上、誰の手によっても鞘から抜けぬようになった。主や、蜂須賀自身の手でさえも。
それが、まだ蜂須賀虎徹という刀剣男士の最後の抵抗のように思えてならない。
「では、出陣だ」
「ああ。任された役目は必ず果たす。補佐は任せたぞ、浦島」
浦島と拳を合わせる。
三日月と浦島の見守る中、常の出陣とは趣の違う──ついこの前の防人作戦で見たものと似ている──転送装置で以て、歴史を遡っていく。
時は昭和の初めの秋の口。
蜂須賀家の大規模なオークションが開催される少し前となる。
**
──初めて来た。
山腹に坐す神社の大楠のてっぺんに降りたって、長曽祢はほう、と息を吐いた。
熱海──名高い湯治場で、大名の別邸も多くある街だ。その一つが蜂須賀家の別邸である。遠くに湾が見えた。
名ばかりは刀であったころから聞いたことはあったが、実際に自分が訪れることができようとは思ってもみなかった。
たそがれ時である。神社のある山腹から見晴るかす黄金に照る相模灘と、その海沿いには湯気がもうもうとたつ湯治場が立ち並んでいる。浴衣姿で歩く湯治客で賑わう茜に染まる温泉街に長曽祢はひととき目を奪われた。
『長曽祢兄ちゃん、無事着いた?』
懐から浦島の声がして長曽祢は慌てて足場を借りた大楠から飛び降りる。神木に頭を下げたあとで浦島に返事を返す。懐中時計の蓋を開けば、文字盤の在るべき場所がモニターになっており、浦島と三日月が映り込んでいる。先行調査の装備の中にある小型の通信機だ。
「ああ。無事だ」
『泊まる場所は見つかりそう?』
「ここならよりどりみどりだろう」
『本部から経費下りるから高級旅館でも良いよって主さんが言ってたよ。領収書忘れないでねって』
浦島が明るく冗談を飛ばす。熱海温泉ともなれば、それはもう、やんごとなき方御用達の旅館もあるだろう。
「それはおれが落ち着かんなあ」
『任務が終わったら俺たちと行こうよ』
「それはいいな」
長曽祢の他には境内に人の姿はなく、長曽祢は鎮守の森に身を隠すようにして返事をする。
『うむ。通信は良好だな』
浦島から交代して三日月の声がした。
『まずは蜂須賀の居場所を見つけねばならん。蜂須賀が真作として扱われておるか、それとももう真贋不明となっておるかを明らかにせよ』
「ああ。蜂須賀が真作のままならこのまま近辺で改変点まで護衛。真贋不明となっていれば、原因を調査。可能ならば原因を排除し歴史を元に戻す──それでいいな」
任務の概要を口頭で繰り返せば、三日月が満足げに微笑む。
『さすがは新撰組局長の刀だ』
三日月に手放しで褒められるとどうにも自分が幼い子になったような気分になる。
『これからは緊急時以外は夜の定時連絡だけで大丈夫だよ。 時間遡行軍の気配がしたら俺たちから連絡するから!』
「ああ。任せた」
任せて! という浦島の元気な声を最後に通信がぷつりと切れる。
「さて……まずは偵察だな」
長曽祢はステッキを地面に叩いて気合いを入れ直す。
鎮守の森から出て、温泉街の方へと下る道を歩く。細い路地に入り込んだそのとき、長曽祢はステッキをくるりと回して背後に突き立てた。
「さて、先ほどから何のようだ? 時間遡行軍」
ステッキに引っかけたものが悲鳴を上げる。鎮守の森から尾けて来ていたものの気配だ。
「ん?」
しかし、思っていたよりも素っ頓狂な悲鳴と軽い感触に戸惑う。
「殿様の虎徹やない! なんで虎徹やないの!」
茶色い毛玉のようなものがパニックになってわめき立てる。それも人語で話しているものだから、長曽祢は呆気にとられた。
「時間遡行軍……ではない?」
つまみ上げた人語を解する毛玉──刀装よりも少し大きいばかりの狸がべそをかいて自分を睨み付けていた。
人語を話す時点でただの狸ではないだろうが、時間遡行軍と勘違いしてしまったことに面食らう。
「化け狸……? 何故おれを虎徹と?」
化け狸は涙声を張って自分に歯をむき出した。
「た、只の狸と思うなよ! 虎徹の偽者め! 我こそは阿波狸合戦が狸の英雄、大明神に成り上がった金長狸より数えて四代! 二百年の修行を経た四代目金長様とはわしのことじゃ!」
毛を逆立ててわめく狸に、長曽祢は目を白黒させる。新々刀の自分には、人語を解する狸など見たことがなかった。
とはいえ、本丸には言葉を話す狐は数匹いるし、鵺や虎とただの獣ならざるものは多い。気を取り直して狸を見る。
そして気付く。
「まて、金長……?」
狸の名乗ったその名は確かに聞き覚えがあった。
中編へ続く