青天の霹靂とはこのことだ。
小姓に預けられていた福島家の光忠は、蒼白になってとうの槍の付喪神を振り返った。床の間に飾られていた正則の誉れそのものの槍は赤い目を丸くしていた。人間達の酒精に当てられて囃し立てていた屋敷の憑き物たちも、宴も酣だったはずの人間達も水を打ったように静まりかえる。
水を打った武士が、再度口を開く。
「──その槍を。日本号をいただきたい」
大杯を飲み干し、主を呑み下した黒田武士の一言はそれだけの重みを持っていた。
冗談だろう、と高をくくっていた主がだんだんと蒼白になっていく。人には見えぬながら、その場の憑き物達も徐々に顔色を失ってざわめきだす。
その中で、床の間に居住まいを正していた槍だけが身じろぎもしていなかった。それでも、自分に負けず劣らずの蒼い顔をしている。
「──号ちゃん」
鎌倉のはじめに打たれた自分より、余程若い槍が気丈に笑ってみせる。
「……なんて顔してるんだ。ハハ、位持ちの槍とはいえ、槍は槍だな」
笑い事か、と眉をつり上げそうになって、その眉が下がる。光忠の袖を、指先が白むほど掴んでいるのはその笑う槍であった。
「号ちゃん」
「気の良いやつだ。俺も酒を呑んでみようかな」
「止めときなよ。……ろくなもんじゃない」
紅い目をぱちくりとさせて、日本号が吹き出す。
「うわばみの光忠の言葉とも思えんな」
さんざん宴会で飲みつぶれ、刀掛けでへべれけになっているところを見られている自分が言えた義理でもない。鞘に縋ってうんうんと宿酔いでうなっている光忠に、この槍が幾度となく呆れて掛けた言葉でもあった。
「御所から足利、織田、豊臣──渡る先が増えるだけだ」
自分に言い含めるような言葉が胸を打った。伏せた顔があまりに寂しげで、光忠はまだ自分の肩に頭が付くような若い槍を抱き寄せる。
いつのまにか自分とよく似るようになった──この家のものは皆そんな姿だが──黒い癖ッ毛が諦めたように腕の中で首を振るのが切ない。
「すぐに返してくれるよ」
「だと、いいがね」
光忠の言葉はあまりに空虚で、日本号とてそれを理解していた。
正三位にして、日ノ本一と呼び声高き槍を、どこの誰が早々に手放すだろう。
「……ああ……」
正則に言いつけられた家臣がおっかなびっくり、螺鈿の柄を掴んで黒田武士──母里友信に捧げる。その槍を、母里の力強い手が握る。
呆然としている正則の前で母里が日本一の槍を──人と物を合わせてもこの中で最も位高い槍を掴んだ。
颯爽と立ち上がる男を、正則は杯を片手に呆然と見上げていた。もはや止めることもできぬ。
酒の席とは言え、二言はないと言ったのは正則自身だ。
「馬鹿……」
すとんと力が抜けた光忠の弱い罵倒に、正則に束ねられた憑き物どもがわっとざわめきを増し、諦念と哀しみが席巻する。梅の木は白い袖を涙でぬらし、唐津焼の茶碗や小袖の憑き物が日本号の膝に縋って泣いた。
憑き物の身で、縋り付いて別れが阻めるのならば何を捨てても惜しくはないというのに、憑き物の身ではどうしても何もできなかった。光忠の流れた数百年でいくらでも知っていることだった。
「では」
母里が背を向ける。
もはや我らの間に時はなく、光忠は慌てて日本号の肩を掴み、前髪を分けて顔を上げさせる。
この家に来る前、この槍がどんな色をしていたかとんと覚えていないが、今や咲き誇る椿か山茶花のように紅い目を覗き込んだ。霧雨の中に花が二輪咲いている。
「……楽しかったよ、ここは」
絞り出す声が微かに震えていた。
「また会おう」
「会えると思うか」
「もちろん!」
ことさらに明るく肯えば日本号が強張った肩の力を抜く。
「俺は備前長船派の祖の一振り、号ちゃんは正三位の位を持つ日本一の槍。……きっと長くこの世にあり続ける。そうしたら──きっとまた」
「ああ」
約束は互いにできなかった。どれほどの刀でも槍でも、戦になれば消耗品に過ぎないことを知らぬほど、幼くはない。
母里が既に屋敷を離れようとしている。
本身を離れて憑き物が存在することはできない。別れの時は刻々と近づいている。
ものの別れは今生の別れになるものが多い。
人よりも長く在りながら、大事にされねば人よりももろいモノ達は口々に別れを惜しむ、
「号ちゃん」
いよいよと言うときになって、光忠はもう一度日本号の手を取った。その手を額に付けて光忠は祈るように呟く。
血穢にまみれた刀の祈りを聞き届ける神も仏もあるものか。
それでも、どうか、と刀は願う。
どうか、一年でも長くこの世に在ってほしいと。
「光忠……」
「折れず曲がらず、毀れず錆びず。──どうか幾久しく。我らの譽れ、日ノ本一の槍。俺の号ちゃん。……いってらっしゃい」
日本号は子守歌にも似たその祈りを受けて、柔らかに目を細めた。
返される祈りのなんと典雅なことか。
「どうぞご武運を、長船派の祖、光忠。正則をよく支えてくれ」
背筋を伸ばしてその槍はついに福島を去った。
その背を正則に束ねられた憑き物たちはずっとずっと見送った。
酔いの覚めた正則はそれはもう目も当てられぬようなことになり、光忠はそうしてもう二度と酒など呑むかと誓ったのだ。
再び会おうという約束を果たせぬまま、灼け朽ちる日が来ることなど、思いもせぬまま。
のみとり 了