長船の里の子守唄

 ふと目を開けば雪見障子の向こうは既に月すら陰る頃だった。
──へんなじかんにめをさましてしまった。
 二、三度目を瞑るが、どうにも眠気は遠く、小豆長光はのっそりと寝具を抜け出した。
 寝乱れた寝間着を整えつつ、素足に縁板の冷たさを踏みしめて勝手知ったる小さな厨を足早に目指す。
 硝子戸の向こうの山から、もの悲しい夜鳴き鳥の声がする。それに背を追われるように給湯室の引き戸を開けた。
「わ」
 開いた瞬間目を射す黄色電球に面食らう。誰も居ないと思っていただけに、聞き慣れた声がして小豆は狼狽した。
「あれ? 小豆くん」
「燭台切……?」
 目をしばたかせながら声の方を向けば、コンロの前には長船派の祖の一振り、燭台切光忠が黄金色の隻眼を丸くしていた。
「どうしたんだい、こんな深夜に。起きちゃったのかい?」
 ちらりと壁に掛かっている時計を見れば、子の刻もとうに過ぎている。
「いや……、いや、のどがかわいてしまってね」
 小豆は苦笑して頬を掻いた。
 隻眼だというのに聡い彼の視線から逃れるように小さなダイニングテーブルの方に身を滑らせる。彼にこれ以上話しかけられたら思わず口を滑らせてしまいそうだった。
 彼が用を済ませてから、珈琲の一杯でもいただこうと小豆はしつらえてある小さなテーブルのハイスツールに腰掛けた。太刀の中でも大柄な二振りが並ぶには狭いキッチンの中、流石に手慣れた様子で燭台切の広い背中が動いている。小豆の居る場所からは彼の手元は見えない。見るともなしに彼の背中を見ているうちに、重い石でも沈められているような息苦しさを覚える。手の平で脇腹に触れても、もう傷跡の一つものこっていないというのに。
 段々と厳しくなってきた検非違使戦。
 彼の死角に槍がいたのだ。自分が切った筈の槍だった。打ち漏らしていたと気付くと同時に、思わず彼を突き飛ばして受けた槍の一撃は小豆の脇腹を貫いた。返す刃で延髄なづきを砕いてやったが、受けた傷は重かった。
──小豆……!
 色眼鏡の向こう、越後の山に沈む夕暮れ色の瞳が焦燥を持って自分に手を伸ばす。それでも、自分を抱き留めた腕の確かさに自分はどれだけ安堵しただろう。朦朧とした意識の中でそれでも的確に隊員に指示を飛ばす彼の姿に、小豆は意識を失う寸前、胸が熱くなるほど嬉しくなった。
 ああ、わたしがいなくてもきっときみは──。
 心に留めていたはずだったのに、きっと声に出てしまっていたのだろう。
 はっと自分を見下ろした彼は、酷く傷ついた顔をしていた。
 ちがうんだ、そういうつもりじゃ。
 そう言おうとしたが、ふつりと糸が切れたように意識が刈り取られた。

 

 随分と深く思考の海に沈んでいたのだろう。
「長光の子、困り事があるなら、この兄やに話してごらん」
 と、謳うような囁き声が、思いの外近くから聞こえて小豆はぎょっとして視線を上げた。
 つかの間、碧い目を瞬かせて、彼の穏やかに細められた黄金色の目を見上げる。
 長光の子、など、何百年かぶりに聞く。遙か昔に、そう呼ばれていたことさえ、今耳にしてようやく思い出したような遠い昔の話だ。
 驚きと困惑で彼を見上げていると、彼は手に持ったマグカップを小豆の手に握らせた。甘い柔らかな匂いとともに、手のひらに温もりが移っていて、自分の手が冷えていた事に気付いた。
「いまがいつか、わからなくなるね」
「君が何か悩んでいるようだったから。カモミールのお茶だよ」
 燭台切は熾火が揺れるように微笑んだ。小豆の短髪を彼の指先がくしゃくしゃとかき混ぜる。まるきり子どもの扱いだが、何故か、彼に対して今、それを拒む気持ちは欠片も浮かんでこなかった。
 香草茶の心地よい香りと蜂蜜の甘みがじんわりと胃の腑を暖めた。
「どうしたの。他の長光と喧嘩をしたかい? 光忠ぼくらの誰かに怒られた? それとも、福岡の里の刀に負けたのかい?」
「ふ、ふふ」
 小豆はおかしくなって唇をほころばせた。
「ほんとうに、なまなりのころにもどったようだぞ。そうだな、……にいや、こもりうたをうたってくれないか」
「夢見が悪いのかい?」
 心配そうに覗き込む燭台切に、小豆は首を振った。
「ふくおかの刀をかなしませてしまった。こういうひにねむると、よくないゆめをみる。……むかしのゆめがみたいなあ」
 自分でも少し恥ずかしくなるような、甘えた声になってしまって、小豆は熱くなった頬を隠すように机に突っ伏す。
「……いまのはきかなかったことにしてくれ」
「任せて、格好良く歌ってあげよう」
「燭台切……!」
 燭台切は笑って隣のハイスツールに腰掛けると、机に突っ伏した小豆の背中を叩く。
──ねんねこしゃっしゃりまぁせ。
 ひとくさり紡がれた低く穏やかな子守歌。川のせせらぎに似ている。
 背を叩く手のひらから伝わるぬくもりは、小豆の心を芯鉄からほぐしていく。
 自分たちには人の子のような交わりがあったわけではない。
 だが、まだ九十九の時も経ぬ付喪神にもなっていないような生成りの刀の精であった時分に、先達の刀たちがあやしてくれていた日々は、鮮やかに遠く、思い出される。
 折れず、曲がらず、よく切れる、良い刀であれよと言祝ぎ願う、祈りを受けた、あの遙か彼方のふるさとでの日々を。
「……にいや」
「なんだい」
「わたしは……なんてひどいかたなだろうか……」
「……僕は、君が優しい刀だとしっているよ。長光の子」
──折れずにあれ。
──曲がらずにあれ。
──よく切れる、良い刀であれ。
 遙か昔、空気を振るわせることのない声で、光忠は後代を言祝いだ。
 長光達もまた、景光を、兼光を、そのさらに遙か後代へそう祈りを捧げた。
 それでも祈り届かず、折れ朽ち喪われた刀は数知れぬほどにある。戦さ場で折れたか、水底で朽ちたか、はたまた焼け落ちたかは誰の知るところではない。
 小豆長光もまた、そういう刀たちの一振りに過ぎない。
──いっしょうこのこのまめなよに。
 光忠の子守歌がまたひとくさり。
 川のせせらぎ、山から降りてくる風、絶え間のない槌の音と、消えることのない炉の火の爆ぜる音が耳奥に甦る。
 睡魔が黒く優しい手を伸ばして、小豆の瞼を落とす。恐怖心は薄れていた。
 二振りの願い通り、きっと里の夢を見るだろう。懐かしく、哀しいほど遠い、ふるさとの夢を。

 

 燭台切は、小豆の目元をぬぐってやりながら、もう一度小豆色の髪を梳いた。穏やかな寝息に耳を傾ける。給湯室の戸を開いた彼は地獄でも覗いてきたような酷い顔色をしていたが、いまはいっそ稚い寝顔を見せている。
 子守歌を切り上げて、燭台切は目を伏せた。
「折れず、曲がらず、朽ちず、毀れず、錆びず……幾久しく在り続けるんだ。長光の子、長船の子、僕らのちいさな長光」
 かつて彼らに捧げた祈りを、燭台切は幾百年ぶりかに紡いた。空気を振るわせて、たしかな形を持って小さな厨の空気の中に解けていく。
 どれだけ真摯に祈っても、言祝いでも、それが届いた刀などほんの一握りだった。里は刀の精で溢れかえるほどだったのに。
 時の流れに刀は消える。折れて、燃えて、朽ちて、錆びて。光忠の同胞兄弟もずいぶん居なくなった。後代の刀達も同じように。
 血穢けちえに塗れる刀の祈りを聞き届ける神も仏もあるものか。刀の願いは無為の祈り。
 瞼の裏に、楽しげに里でふわふわと浮かんでいた里の刀の精たちの姿が甦る。
 つくも神なんて言葉もなかった、何かになる前の吹けば飛ぶような刀の精。悲しみも、苦しみも、痛みも恐怖も、あらゆる負の感情から遠い、ふわふわと軽い初ぶの刀達。
 あれらが、一年でも長くこの世に在って欲しいと願ったのは、人が情や愛と呼びならわす想いだろう。
 そこから遙かに時がすぎた。一千年あまりの時を含有して重みを増し、ついに地面に足を付けるに至った自分たちは、きっともうあの頃には戻れないだろう。
 それでも、彼らを愛しむこのこの気持ちは、あの頃から変わらぬものだということを、光忠は知っていた。

長船の里の子守唄 了