ある日、箱根にて

 誰も知らぬ話をしよう。
 箱根権現が別当に頂いた薄緑の太刀のことだ。すらりと優美な腰ぞりの太刀で、つややかな地金も美しい一振りの我が太刀の事だ。その太刀を奉納した九郎判官義経を五郎時致は知らぬ。
 元暦二年、筥王が箱根権現へ入門したその年の数ヶ月前に箱根権現へ立ち寄り、九郎判官義経公が奉納したという。
 様々な宝物の奉納されている箱根権現にあってその太刀は一際美しいものであった。朝日将軍の収めた微塵という太刀もあったが、そちらは宝物殿に重々鎮座在し、薄緑のほうは箱根の別当が後代の供養のためによくよく取り出していた。無論、当時の筥王も見知っている。
 箱根三所権現に怨敵降伏を祈念する折りもその太刀を眺めていた。
──どうか、どうか、人を殺させてください。
 箱根権現に手を合わせ直向きに祈る筥王の心の内に浮かぶのはただ一人駆けてゆく兄の凜とした背中である。年々朧気になる優しい母の面差しや、物心つくか否かで失った父の声に比べ、共に刀を交え、仇討ちを誓った兄の背は目を閉じれば直ぐに瞼の裏に浮かぶ。大事な大事なたった一人の兄である。
 父上の仇を討つ。
 その一心で刀を振るう兄の側で、兄を支えたい。培った思いは年ふる事に強くなるばかりであった。
 その日も別当や他の稚児の目を盗んで鍛錬に励み、皆が起き出す頃に本殿にて読経をしていた。
 摩訶般若波羅密多心経──。
 門前の小僧とはよく言った者で、鍛錬ばかり真面目で仏道修行には熱の入らぬ筥王とて、常々聞いていれば嫌でも覚える。また、父の菩提を弔えと母に言いつけられている事もあり、筥王の読経はこの年の稚児にしてみればなかなかのものと評判であった。
──色空是空。空即是色。受想行色。
 堂に入った読経をしていた時だった。ふと、目の端に誰かが座っていた。若葉の髪の、墨染めの衣を着た僧形の若者である。彼の瞳が澄み切った琥珀色をしていて、驚くほどに美しい。
 一瞬読経を途切れさせそうになりながらも、筥王は彼が人ではないことを悟る。こんな美しい人間がいるものか。もしや菩薩様であろうか。冴え冴えとした空気にそんな事を思っていた。
 彼は共に経を読むわけではなく、繁々と自分を見つめていた。
 思わずその視線を見返すと、彼はぎょっと目を丸くする。
──驚いた。俺が見えておるのか。
 と、思っていることがありありと分かる。
 頷けば、感心したように彼は整いすぎている顔を筥王に近づけた。経を止めかければふっと彼が薄くなるので、筥王は観念して経を読み続ける。
──ははあ、お主其程兄者の役に立ちたいか。
 流石に菩薩か妖か分からぬものは言葉にせずとも筥王の祈りの内容などお見通しらしい。
──無論だ。兄上をお一人で仇討ちに征かせる訳にはいかぬ。わしがお供せねば。
 工藤祐経が首を取るには一人では無謀が過ぎることくらい筥王にも分かっていた。だが、兄を支える自分がいればきっと成し遂げられるだろう。
──……祐経殿にそれ程憎しみがあるようには思えぬが?
──父を殺された恨みはある。だがそれ以上にわしは兄上と契りを交わしたのじゃ。共に必ず仇を討とうと。わしが行かねば兄上は一人で征こうとなさる。
 彼の琥珀色の目がぱちりと瞬いた。そうして、ゆるりと柔らかに目元が緩む。
 そうか、お前たちは本当に仲の良い兄弟なのだな。
──当然じゃ! わしは兄上を心から尊敬しておる。わしの一番大切な兄上じゃ。兄上のためならわしは何でもしよう。
 彼はくしゃりと破顔すると、筥王の頭をなで回した。振り仰げば、彼の表情は泣き出しそうな程に優しく、悲しげに微笑んでいた。
 そんなことをしてくれるのは、かつての兄くらいのもので、思わず筥王の読経が止まる。
 その瞬間、彼の姿は掻き消えた。
「何じゃ……」
 きょろきょろと見回しても先ほどの美丈夫の姿は無い。だが、吸い寄せられるように鎮座した太刀に目が向く。
「薄緑の太刀……」
 そういえば、彼の髪は若葉を透かしたような淡い緑色をしていなかったか?
 もしかすればこの刀の化生だったのではないか?
 筥王は急に脈を打ち始めた心臓を押さえて筥王は恐る恐る太刀に手を伸ばす。
 それが触れるか否かのところで、太刀がからりと鳴いた気がした。
「こら! また悪戯か!」
 しかし、あと一寸ばかりで途端にどこぞの坊主の叱責が飛ぶ。筥王は飛び上がって駆けだした。
「またお主か筥王!」
 駆け抜けた廊下から出立前の山伏が顔を覗いて笑う。
 結局別当に見つかり、罰掃除を申しつけられた上に、太刀はそれから直ぐに宝物殿に仕舞われてしまった。 そして剃髪する直前に飛び出すように箱根を出奔するまで、筥王がかの薄緑色の髪をした僧形の美丈夫に会うことは無かった。

 

「ということがな、あったのじゃ。兄者」
 箱根近くの宿場でしばしの休息を得ながら、五郎の語る昔話に、十郎祐成は杯を傾けながら嬉しげに相づちを打っていた。刀掛けには先頃箱根の別当より賜った件の太刀がある。
「そうかい。それは良かったねえ」
「そう思うか?」
「お前が箱根で一人でずっと寂しい思いをしていなくて良かったと思うよ」
「兄者……!」
 あっという間に潤む目を拭ってやりながら、十郎はくすくすと笑う。
「相変わらずお前は泣き虫だねえ」
「泣いては無い、泣いては無いぞ!」
 腕は自分以上に立つようになった若武者の、幼き頃と変わらぬ稚さに十郎は胸が突かれるような心地であった。
──泣いてない、泣いてない、泣いてない!
 あの時の弟が、この若武者の中に確かに息づいているのを感じる度にそういう心地になる。もしかして、そのときに聞いたから兄上じゃ無く兄者と自分を呼ぶのだろうか。
「兄者……、何を考えておるのじゃ」
 拗ねた目をした五郎に酒を注いでやりながら、十郎は彼のさらさらと結われた髪を梳いた。
「あはは、まあ、別に良いだろう。五郎。……明日は母上にお会いしような」
 五郎はぐっと黙り込んで酒を呷った。
「ああ」