吾兵はきょろきょろと周りを見回しながら慎重に畦道を歩く。これでも十年以上徳川重臣が一人、榊原康政に直々に教えを受けた武者である。山賊などものともせぬ力量はつけているが、慎重に越したことはない。この人に何かあっては大変だ。
同行する相手も同じように、否それ以上の勇士から教えを受けているが。
「信康様、間違いねぇこっちです」
「うむ、やはり吾兵の方が良く道を見つけるなぁ。吾兵も乗ってくればよかったのに」
「おらぁ馬に乗るのは苦手で。それに走っても変わりゃしませんや」
「吾兵は足が早いからなぁ」
のんびりと栗毛の馬が尾を振る。その上で深く笠を被り、ぼろのたっつけを着て楽しげにしているのは吾兵の大切な主であり、こっそりと弟のように思っている松平家が嫡男、岡崎三郎信康である。
「吾兵のおかげで普段よりずっと早く智鯉鮒についた。久しぶりに会えるなぁ」
信康はにこにこと笑う。そうやって笑っていると、本当に幼い頃から土いじりの時の顔と変わらないと思ってしまうのはやはり贔屓目なのだろう。
「ところで、智鯉鮒にゃどなたかいらっしゃいましたかね?」
吾兵の問いかけに今度はにっかりと含みのある笑顔を見せる。傅役の一人である酒井忠次によく似ているそれは、何か楽しい秘密を抱えているのだろう。吾兵も思わず破顔する。
「秘密だ。直政や忠勝も知らんのだ。知っておるのは半蔵と元忠と……もしかしたら忠次も知っておるかもな。きっと吾兵は驚くぞ」
徳川家の中枢を担う重臣も知らぬ相手、しかし吾兵の驚く相手。
吾兵にはとんと見当がつかない。
「……今年はよく稲が実るかな」
鎮守の森のすぐ横の田畑を眺め、信康は呟く。早苗が稚児の結髪の如くつんつんと突き立っている。吾兵はちょっと畔から田を覗き込んで笑って振り返る。
「今年ぁきっと豊作ですよ。智鯉鮒が豊作なら岡崎もそうです」
「そうかあ! それはよかった」
馬から飛び降りた信康が吾兵の横に並んで田圃を覗き込む。編み笠を直しながら興味深げに田畑を覗き込む目は輝いている。名高き松平の嫡男が、百姓上がりの侍従に十年余り花や草木の世話ばかりか、百姓仕事まで叩き込まれたなど誰が思うだろう。
岡崎城城主として幾度となく戦を納め、岡崎三郎と呼ばれる青年は田畑や花を愛することをついぞ忘れはしなかった。
「もうすずなの花が咲いておるな」
「ですなあ」
目敏く小さな花を見つけては目を細める。
「つんで帰ったら、半蔵が喜ぶかの」
「喜びますよお!」
顔を見合わせて笑っていた時だった。
「てめえ、ここをどこのたんぼだとおもっていやがる、こんにゃろう!」
幼い威勢の良い罵声がぽんっと背後から投げつけられ、吾兵は面食らった。いたいけな声とは裏腹の随分とこまっしゃくれた言葉だ。
同時に何かが飛んでくる音がして慌てて持っていた馬鞭で振り返りざまにはじき飛ばす。見れば小さな石塊であった。
振り仰げば、智鯉鮒明神の鎮守の森の木の上から投げられた石のようだ。
信康はその声にも振り返らず、じっと笠を深く被り直している。
──おや。子ども好きの若様が珍しい。
そっと窺えば笠の下で何やら楽しげににっかり笑っている。
「てっ、てめェやりやがるな!」
犬の子ののように吠え、木の上の子どもががもう一度懐の石を投げる。微笑ましく思いながら二三度馬鞭ではじき飛ばすと、子どもはするすると猿もかくやの身軽さで木の上から降りてくる。
目を丸くして驚いている。端正な顔立ちをした、元服前、まだ四つか五つかの男の子である。袴をきちんときているので、恐らくはこの智鯉鮒明神のゆかりの子供なのだろう。
その顔を見て、吾兵は腰が抜けるほど驚愕した。
──その顔を、吾兵は知っている。
信康の直ぐ下の弟君、信康にそれはもう懐いている幼い若君とそっくり同じ顔である。
「於義丸様!?」
飛び出した名前に、於義丸と同じ顔をした子どもはムッと顔を歪めて啖呵を切る。
「おれはながみのたろうであって、おぎまるなんちゅうなきむしのガキのことなんてしらねぇよ! いっしょにすんじゃねえ!」
「こりゃ元気な子だなあ。於義丸様と本当によく似てらぁ」
細い腕を組み、胸を反らす仕草は年の割に堂に入っている。しかし、吾兵が怒る様子も無くしげしげと眺めている事に気がつくと怪訝そうな顔で首を傾げる。
「ってか、なんでてめえあのバカのこと……、それにそこの、うしろむいてるやつ……は……」
訝しげな言葉が段々と細くなる。ぎょっと顔が面白いほど青ざめていく。あわあわと慌てはじめ、両手を口に当てて呟く。
「まさか……」
子どもの威勢の良い啖呵のあたりから笠の下で肩を揺らし、くすくす笑っていた信康が、耐えきれなくなって朗らかな笑い声を上げる。
「あはははっ。久しぶりじゃのう、太郎兵衞!」
ぱっと立ち上がって振り返り、笠を取った信康は弾けるような笑顔である。してやったり、という気持ちが透けて見える笑顔に、この子どもこそが信康の目的の人物であったと悟る。
ははあ、こりゃ確かにおらぁ驚いた。と納得した吾兵と裏腹に、真っ青になって慌てているのが子どもである。
「あっ、あに、兄、兄上──ッ!?」
素っ頓狂な声を上げて子どもはひっくり返らんばかりであった。
「長く会いに来れなくて済まなかったな。だが元気そうで兄は安心したぞ」
太郎兵衞と呼ばれた子どもは、頬を真っ赤に染めると袴についた小枝や少し乱れた髪をそそくさと整える。ついでにきりりと表情も整え、太郎兵衞は深々と頭を下げる。
「お、おひさしゅうございます。兄上。おみぐるしいところをおみせしました」
「あはは、まさか木の上から石が飛んでくるとはなあ」
「そっ、それは……っ! あの、ぬすっとかとおもいまして!」
先ほどの啖呵とはすっかり口調まで変わっていて吾兵は笑いを堪えるのを苦労する。
「見張り番をしていたのか? 太郎兵衞は偉いなあ」
信康は太郎兵衞の頭を撫でる。少し大きくなったかなあ、と呟いて彼を抱き上げる。おやめください! と口では抵抗しているが、子どもはそれはそれは嬉しそうに兄に構われている。
──兄であった。
吾兵は再会を喜ぶ二人を側で眺めながら、そう思った。あの小さな掌の若君はいつの間にか誰かの兄となってあれほどに慕われている。
直ぐに人のことを持ち上げる所などは、平八郎忠勝とそっくりである。
「ところで兄上、このおにみたいにつよいやつはいったいだれです? わたしのほうをみもしないで石をはじきました」
信康の腕の中に収まった子どもが吾兵をじっと見る。やはり見れば見るほど於義丸に似ている。
「うむ。吾兵、この子は於義丸の双子の弟でな、名を太郎兵衞という。吾兵は儂の大事な友だ。師匠でもあるな」
信康はなんのてらいも無く吾兵を友やら師匠やらと紹介する。それに泡を食ったのは吾兵である。
「なっ、そんな恐れ多いこと言わねえでくだせえ! 若君の友だなんて、そんな、おらにゃもったいねえ!」
吾兵はただの足軽である。それに引き替え、信康は今や岡崎城城主である。
「儂はそう思っておる。な」
そう言われてしまえばもう何も言えぬ。友と思ってもらえるのは実のところ、とても嬉しかった。身分は違えど、教え教わり、ともに学び幾星霜である。最早、主である以上の情がある。それを信康もまた感じている事が嬉しかった。
「兄上の友……、どおりで強えわけだ!」
「ひえ、おらなんてまだまだで!」
太郎兵衞がぱっと笑みを深めて目を輝かせる。
「吾兵はたまに儂も一本取られる」
「兄上から⁉︎」
「ああ。儂も吾兵もまだ康政から一本とったことはないがな」
吾兵は頷く。
吾兵と信康の剣の師である榊原康政はそれはもうめっぽう強い。人であることが疑わしくなるような御仁である。
──馴れ合うつもりはないが、手を抜くつもりも無いぞ。
と、常々言い聞かせているように厳しい人柄だが、覚えの悪い吾兵にも眉一つ動かさずに根気よく剣を教え込んだ。木刀をまともに振れるまでにさえ数ヶ月かかり、姿勢を直すのにまた数年。政務や戦で多忙な康政だが、一つも文句を言ったことが無い。出来るまで何度もやり直させ、出来たら次をさせる。
吾兵自身でさえ、こんな覚えの悪い弟子に時間を割く程暇では無いだろうと思うというのに、康政はそんなことをひとつも口にはしなかった。腰に差している刀は康政自身が選び、信康から直々に下賜された相州伝の刀である。榊原の愛刀も相州伝の名刀であると言うのでそれはもう嬉しかったものだ。
「そんなにつええか……」
「三河の武士は皆強いがな。半蔵も忠次も、元忠も忠勝も、それに直政も恐ろしく強い」
「へええ!」
「……この前の話じゃ。鷹狩りの折り、それはもう大きな、山の主であろう猪が一目散に忠次を目指して駆け下りてきた!」
「猪が!?」
「そうじゃ、藪から現れたのは儂の身丈よりも高く、太郎兵衞など人のみにされてしまうほどの大きな猪じゃ! 白い牙はぎらぎらと忠次を狙っておった!」
「どっ、どうなったんです!」
わっと信康は芝居がかった口調で語りはじめる。酒井忠次が美味しい薬鍋を振る舞ってくれた狩の事は吾兵も知っている。普段の飄々とした空気を毛の一筋も揺るがさず、腰に差した村正でひらりと猪を躱し返す刀で猪を一刀両断したのであった。その刀は殿に”猪切”と名付けられていた。
──流石は千子村正の刀。良く切れるね。
と呟いた忠次に、「そうでショウとも」と頷いたのは確か井伊直政であった。
どうして井伊様があんなに嬉しそうだったんだろう。そういやぁ本多様もなんだか嬉しげだった──吾兵がつらつらと思い出している間に、芝居は一段落する。きゃらきゃらと笑う子どもに、信康は満足げな顔である。
「そうだ、おこちゃ──母君から文を預かってきておるぞ」
おこちゃというのは、お万の方と呼ばれる於義丸の生母である。元は信康の生母である築山殿に仕えた女房であったことから、信康にとっても親しみがある。
懐の文を取り出すと、太郎兵衞はぱっと顔を輝かせる。
「えっ、母上から!」
「うむ。於義丸からのもあるぞ」
「……あいつのはべつに」
「ははは、そういうな。前の文、於義丸はそれはもう喜んでおったぞ」
「……兄上がいっしょにかいてくださるなら、かきます」
おずおずと袖を引く弟に、信康は優しく微笑んで快諾する。
「そうか? では儂とともに書こうな。その前に永見殿にお会いせねばなあ」
「その前に着替えてくだせえ、三郎様!」
「分かった分かった。すまない、直ぐ着替えて戻ってくるぞ、太郎兵衞」
腕に抱いていた太郎兵衞を下ろし、信康は馬に乗せていた着物をとって鎮守の森の陰に去って行く。太郎兵衞はその背を名残惜しげに眺めている。
その視線が本当に於義丸とよく似ている。信康が彼と母のお万の方の住む屋敷から帰るとき、そんな風な顔でしょんぼりとしていたものだった。
「何だよ」
吾兵の視線に気がついたか、太郎兵衞が気の強そうな視線で見返す。膝を突いて視線を合わせると、やはり怪訝そうな顔になる。
「いやその。於義丸様とそっくりだなあと」
「……アンタ、きもちちわりィとかおもわねえの? おれとアイツおなじかおの、いみごだぜ」
「はあ……」
そういえば双子はそう言われていたな、と吾兵は漸く思い出す。
「ですが太郎兵衞様は三郎様の弟君でしょう?」
「そ、そうだけどよ」
照れくさそうに鼻をする様子が可愛らしい。
掛川の村では双子はあまり見なかった。戦続きで田畑は焼かれ、大人でさえ碌に腹を満たせない。生まれた子は間引かれる事も多く、母子共々此岸を離れることもあった。そんな中であったから、どこそこの子が忌み子であったらしいと聞いても、だから母と腹の中の二人と共にに埋めたと続く事が多かったものだ。
「……おらの村じゃ、双子はおっかさんと一緒に死んじまう事が多くて。ご無事にお生まれなさってるお姿を見ると良かったなあと思います」
太郎兵衞は大きな目を丸くして吾兵を見た。
「偉いお家のことは、実はおらよくわかんねえんです。でも、ご家族ご一緒に暮らせねえのは大変だ。家族で仲良く一緒に暮らせるとええとは思いますけども」
一転して神妙な顔になった太郎兵衞は黒目がちな目を伏せる。四つほどの幼子がするには随分と大人びている。流石は信康様の弟君にして、かの御館様の血を引く子である。
何を考えているのだろう。吾兵にはきっと分からぬ何かだろうとも思う。何年も徳川家に仕えてはいるが、武家のしきたりや常識は吾兵の理解の範疇に無いことも多い。
「母上はしかたねえさ。でも兄上と、もっとおあいできればいいんだけどなあ」
唇を尖らせると、どうにも幼い於義丸が思い起こされる。生来、子どもが好きな吾兵はもうどうしても放ってはおけない。
「……じゃ、じゃあ。おらあ何かお話しましょうか。岡崎城での三郎様の事とか、於義丸様やお万の方様のこととか、右府様の事とか、殿の事とか」
「兄上のはなし!」
一二も無く食いついた幼子に、吾兵は信康が戻るまで身振り手振りを交えながら面白おかしく語ってみせた。
「なんじゃ、儂がおらぬ間に随分仲良くなったのう。この兄も仲間に入れてくれぬか」
信康が戻っていの一番にそう笑う程である。
その日一日を智鯉鮒明神で過ごし、信康は彼に小ぶりの駿河鍛冶の短刀を渡して、日の暮れる頃に帰ることとなる。
「一晩くらい泊まっていかれたら」
と勧める神主に、信康は首を振った。引き留めて泣き疲れ、眠る太郎兵衞を膝に乗せている。
「うむ。武田との戦も控えておる故、暫くは智鯉鮒に来れぬと思うのじゃ。それ故一目弟たちに会っておこうと思うてな……」
此処に来る前にお万の方の元へ立ち寄り、この帰りに生まれたばかりの三男、長丸の元へ立ち寄って城へ戻るつもりであった。
「儂が来たこと、どうか内密に頼む。……我が弟のこと、何卒、よろしくお願い申し上げる。儂の大事な家族で、弟じゃ」
深々と頭を下げる信康に、太郎兵衞の養父である永見貞親ははらはらと涙をこぼして堅く約束を交わす。
「なんと勿体ないお言葉。……この子は我が子と思うて育てております。いずれ我が跡を継いで神主とさせ、名も貞愛と付けましょう」
「……頼みます」
信康は慈しみ深く目を腫らして眠る弟の髪を梳いた。片方に贈られた短刀を、もう片方の手で袖を握るいじらしい手をゆっくりと剥がす。むずがる弟を抱きしめながら、信康はその耳元で真摯に囁いた。
「──太郎兵衞、否、貞愛。……辛いことがあればいつでもこの兄を思い出せ。兄はいつでも、お前の味方じゃ」
「兄上……」
黄昏近く智鯉鮒神社の鳥居を潜って、二人は岡崎城へ向かう。永見貞親が深々と頭を下げる陰が、道に長く伸びている。
「……ごぶじで、兄上!」
囁くような、万感の思いの願いが籠もった声が田んぼに響く。
「またの!」
馬上の信康が身を大きくよじって笑って手を振る。吾兵が振り返れば、夕焼け空の逆行で黒い影になっている幼い子どもが鳥居の下で必死に手を振っていた。
時に天正──長篠の戦いの僅か数ヶ月前の話である。
ある日智鯉鮒にて 終