ある老将の死

 死病を患い、この「老人」の命が尽きようとしているのを大倶利伽羅は知っている。
 榊原康政の生涯は、後幾ばくもなく終わるのだと歴史の流れに刻まれている。
 その老臣の枕元で啜り泣く若武者の胼胝だらけの手の感触が、生々しく榊原の手を包んでいた。大倶利伽羅からは、龍の刻まれた己の手はそのままに見えているが、彼には節くれ立ちった老人の手なのだろう。血濡れた手を、刀の手を、何よりの宝物のように握るものだから、大倶利伽羅はなんとも言いようのない気分になった。
「死んでしまうのか、康政よ」
 榊原の手を握るまだ青年と言っても良い主君が小さな声で恐る恐るといったように囁く。
「ええ、上様」
 榊原は頷く。榊原康政の命は、あと十日もない。大倶利伽羅の長きにわたる任務もまた遂に終わろうとしていた。

 

 思えば長い任務であった、と大倶利伽羅は述懐する。あの時、にっかり青江が抱き留めたあの片腕に収まる赤子が、今や大御所と称されて三百年の泰平の基盤を作り、はや数年が過ぎた。岡崎城再建の最中、忠勝──蜻蛉切の背に負ぶわれて泣いていた事も、竹千代が元忠と忠次──物吉貞宗とにっかり青江に両親の不在の淋しさを零していた頃も遠目で見て知っている。
 榊原康政となってからは、幼い信康と吾兵の剣術指南を務め、二人をひとかどの剣士として育て上げた。どれもが遠い思い出でありながえら、鮮明な記憶であった。
 幼少から己の傅育したこの青年も、今や二代目将軍徳川秀忠として日々勤めを果たしている。
 数日前には本丸の使いで鶴丸国永より報せがもたらされ、結局任務を終えれば本丸に直ぐ戻ることになっている。後に残るのは遂に本多平八郎忠勝こと蜻蛉切を残すだけだ。服部半蔵石切丸酒井忠次にっかり青江鳥居元忠物吉貞宗井伊直政千子村正──役目を終えた彼等も、また暫くして本丸へと帰還したらしい。
 何十年とかぶり続けていたこの、「榊原康政」という仮面を脱ぎ捨てるべき時は近い。
「康政」
「は」
「小そうなったなあ……、あれほど大きゅう思っておったのに」
 泣き濡れた声で、労るように康政の手を擦る。彼の目に見えているのは、遂に死病に斃れ、今に死ぬる老将に他ならない。じっと榊原を見つめる瞳が、あまりに情に濡れていた。
「……秀忠様は大きくなられた」
 大倶利伽羅としての言葉がころりと口から零れ落ちた。
「そうか?」
「転んでも、殴られても泣かなくなられた」
「いつの話をしておるのだ」
 泣き笑いのような顔で、秀忠が鼻を啜った。脇息に凭れながら大倶利伽羅は湯飲みに口を付ける。
「大丈夫か、飲めるか?」
「ええ」
 大倶利伽羅の背を支えようと秀忠が膝行り寄る。武具のこすれる音がして、ふと大倶利伽羅の目に腰の刀が留まる。
 懐かしい拵え──かつての己。伊達に渡る前の己であった。己を差し、人目を忍んで康政に会いにゆき、その数日後に訃報を知る。大倶利伽羅はそれを秀忠の腰で知っていた。その後、人目に触れぬところで、はらはらと泣いていたことも知っている。
──秀忠に、榊原康政として相まみえるのは今日が最期である。
 去来する奇妙な焦燥に、大倶利伽羅は知らず着物の袷を掴んだ。
 かつての主の一人であるこの若武者へ言葉を掛けることが出来るのは、今日を置いて最早無い。
 刀剣男士として人に紛れることはあれど、歴史に名を残す人物と言葉を交わすことは許されることではない。
 康政おのれが死ねば、二度と今までのように秀忠を支えることも、声を掛け導くことも、できないのだ。
 それが死というもので、愛別離苦の人の世の常である。
 いつの頃からか、こんな任務など早く終われと思わなくなっていた自分に気がつく。
「康政! っ、誰ぞ、薬師を──」
「構いませぬ! 誰も呼ばれるな、秀忠様」
 苦しんでいるのかと誤解した秀忠を強く止め、大倶利伽羅は秀忠の手を握り直した。その勢いに脇息が倒れる。
 今己は康政にんげんの顔をしているのだろうか。それとも、かつての主と別れる大俱利伽羅かたなの顔をしているのだろうか。
 大倶利伽羅には分からなかった。ただ、此処に刀剣男士が居ないことに安堵した。
「もう今生でそれがしとお会いすることはございますまい、秀忠様」
「何を、そんな気弱なことを言うな康政。また元気になって江戸へきてくれ」
 この手で振るわれた数多の戦場を覚えている。この手がまだ柔らかかった頃を覚えている。この手で、伊達に下賜された日を覚えている。この手が大きくなっていく日々を覚えている。
 大倶利伽羅の胸の内に、堰切られた大きな感情が溢れた。
 これが溢れてしまえば、どれほど辛いか知っているから、いつも押し隠しているものだった。
「秀忠様……」
 大倶利伽羅は臆病だった。他のどの刀が知らねども、大倶利伽羅だけは自分を知っている。別れが怖い──愛別離苦に焼け爛れる苦しみを恐れながら在り続けてきた。その為に刃が鈍ることを恐れていた。
 大倶利伽羅に両手を握られた秀忠は、大倶利伽羅の気迫にただならぬ物を感じたか、黙って大倶利伽羅の言葉を待った。
 大倶利伽羅は一つ息を吐いて、彼の目を見据えた。
「俺は、かつて三人に剣を教えた。一人は戦場に斃れ、一人は剣を捨てた。だが最後の一人は天下を治めた。皆戦を嫌っていた」
 掛川の吾兵、松平信康、そして徳川秀忠。誰も彼もが戦を無くそうと奔走した。誰も彼もが大倶利伽羅を置いて去っていく。
「全ての戦が終われば、俺はどうなるのか──そうも思った。戦でしか振るわれない俺の価値はどうなるのかと。だが、万年続く泰平の世を見てみたいと……思うようになった」
「康政……」
「戦のない世を作るのはアンタだ。大御所様でも、秀康様でも、きっと信康様でもなかった。……俺はそれを、誇らしく思う」
 秀忠は目を見開いた。
「私は、お前に誇らしく思ってもらえるような主君であれたのか」
「貴方は良い主だった」
 大倶利伽羅は頷いた。康政の言葉でもあり、正しく大倶利伽羅の言葉でもあった。秀忠の目の縁に涙が盛り上がり、再び頬を濡らして畳に滴り落ちた。

 

 背の人影は幾度も振り返りながら、馬の蹄の音が遠くなっていく。杖に寄りかかりながらそれを見送り、大倶利伽羅は女中に支えられながら寝所に戻った。
人を払ったところで顔を覆い、ため息を吐く。
「……無様を晒した」
 鶴丸あたりに知られれば、ひどく揶揄われるであろう。石切丸などは喜びそうだが、兄ができの悪い弟を可愛がるような喜び方をすることだろう。それは大倶利伽羅の本意ではない。皆が本丸に還っていて良かったと大倶利伽羅は深くため息を吐いた。
 あと少し、本丸に戻るまでには整えておかねばならない。
 大倶利伽羅は己があまりに人として長く生きすぎていることに漸く気がついた。まるで人のように生きた数十年は、仮面でしかない筈だった。だが、長く被り続けた仮面は大倶利伽羅を少しだけ変えてしまった。
 戦で斃れ、戦のない世を願った吾兵。畑をいじる泥だらけの黒く堅い手。
 大倶利伽羅の教えた剣を捨て、歴史の闇に呑まれた信康。剣胼胝と土いじりでどんどん大きくなった手。
 そして、戦を厭いながらも将軍となった秀忠。傷だらけで、筆胼胝と剣胼胝で堅くなっていった手。
 康政として切り捨てた幾百もの名も知らぬ敵兵士、己の采配で命を落とした幾百もの配下。形ばかりの室と側室。血の繋がろう筈もない娘息子。領地で耕作や商売に精を出す己の領民。
 気づかぬ振りをしていた方が楽だったものが、ずしりと大倶利伽羅の刃に乗っている。
 人としての半生を脱ぎ捨て、刀剣男士に戻らねばならぬ時間は刻一刻と迫っていた。

 

 

ある老将の死 了