増田四郎時貞少年の死は結局右衛門作のみの心に納められた。他の主導者たちは四郎に会ったことがなかったのが功を奏した形になる。
湯島の小さな小屋の中で、一揆の主導者たちは、天草四郎こと鶴丸国永を旗印として祀り上げることに皆同意した。
しかし天草五人衆と後に称される男達の中で、一際武人めいたひげ面の男が一人、近習の一人として侍っていた大倶利伽羅を目にした瞬間に顔を青ざめさせた。
「どぎゃんしたとね、大矢野殿」
隣の男が不思議そうに男に囁く。
「い、いや……」
大矢野松右衛門は武辺者の顔をあわや崩しながら首を振った。その目が大倶利伽羅から不自然に避けられていることは明らかだった。
松右衛門は人々の視線から逃れるように呟く。
「……この方が我等の光、救世主であらせられると思うと」
「ああ、皆の者。ぜぜす様は我等を見捨てはしなかった! 主は救い主を遣わしたのだ!」
右衛門作が松右衛門の言葉にかぶせて喜色を浮かべる。その言葉にどっと小屋が揺れる。さしもの大倶利伽羅も、この男の扇動の力は認めざるをえない。
男達が神妙に胸元で十字を切る。幾人かは物慣れぬ様子であったが、もともとキリシタンではないのだろう。
「この方が我等の光じゃ。集まった一揆衆たちもきっと喜ぶだろうて」
「うむ。島原でも我等に呼応するもの達が集まっておる。北目のほうじゃと渋るものもおるが……」
水面下で呼応しあっていた小さな集団が、今此処に一つの旗の元に集まることになる。大倶利伽羅はそれを静かに見つめていた。
圧政を敷く藩主に虐げられた苦しみや、縋り付く信仰、己の望み──今此処に地に足を付けて生きるほかにない人間の懸命の足掻きを、結末を知りながら、そのように操る自分たちの異質さ、この終わりのない戦の苦しみを大倶利伽羅は知っている。
避けられぬ死へと向かう百姓や浪人達。何万人と見てきたそれは幾度見ても慣れるものではない。止められぬのが歴史の異物、歴史という大河の浮き草である刀剣男士であると大倶利伽羅はとうに理解している。吐き気のするような苦い薬を呑み下して久しい。
──だが、初めて呑むものたちにはどれだけの苦痛があるだろう。
それを想像しきれぬほど大倶利伽羅はなまくらではなかった。いずれ必ず向き合い乗り越えねばならない葛藤に苛まれるだろう仲間を思えば、大倶利伽羅とて何も思わぬわけにはいかなかった。それを強いねばならぬ審神者や鶴丸はいかばかりか、大倶利伽羅には測ることしかできぬ。
どこに居ても波音の聞こえる小さな島で、三万七千人が撫で切りとなる一揆の火口に、今刀剣男士が絶えたはずの火種を投げ入れんとしている。
「道はほかになかとばい」
誰かが呟く。角を矯められた牛は死ぬ前に暴れなければならない。
なにもかもが杜撰な作戦だ。戦国が終わって久しい者達の中では緻密なのかもしれぬが、落としどころを作らぬ一揆などはアリの群れのようなもの。象に踏みつぶされてしまうものだ。
鶴丸は救世主たる少年の仮面を被ってにこにこと話を聞いていた。時折、話に口を挟んで大人達を感心させる。
この談合が終わる頃には、この男達も全て鶴丸の手のひらで転がることになるのだろうと、大倶利伽羅は目に見えるように予想がついた。
「では、皆……」
右衛門作が囁いて集まった者達が顔を見合わせて頷く。熱に浮かれた目はまるで同じ。判で押したように同じ色の狂気を孕んでいた。
鶴丸が右衛門作に連れられて下がっていく。彼の視線が咎めるように大倶利伽羅を刺し、大倶利伽羅は素直に頷いた。
大倶利伽羅はそっと小屋を抜け出し浜辺に出る。それを追う影があるのを認めた。
「……何か用か」
浜木綿の茂みを掻き分けて出てきたのはやはり先ほど奇妙な視線を大倶利伽羅に向けていた大矢野松右衛門であった。
「……貴殿は何故此処に居られるのか」
「四郎様の付き人としてお側近くでお仕えしている。何か問題でも」
大矢野は少し狼狽えると、それでも尚、強い視線を大倶利伽羅に向けた。
「……さっ、榊原様のゆかりのものか、まさか幕府方の密偵ではあるまいな!」
咄嗟に言葉が出なかった。じり、と刀に手を掛ける大矢野の仕草にハッとする。
その仕草を、その刀の構え方を大倶利伽羅は見たことがあった。刀剣男士たるもの、一度見た剣筋を違えることなど無い。大倶利伽羅の長い長い任務の最後、榊原康政が病に伏せる直前の話だ。
「……本多の家中のものか」
大倶利伽羅が任務を離れる前、訪れた本多忠勝の家中、彼の倅の剣術指南の男であった。あの時はまだ幼ささえ残る若者だったが、今はもうその面差しもない初老にさしかかる素浪人である。たしか、松左衛門と呼ばれていた。
男が怯えたように鯉口を切り、鋒を大倶利伽羅に向ける。
「……やはり、貴様……」
「まて。確かに俺は榊原康政には所縁あるものだが、榊原からは離れて久しい」
「ならばその目は何だ!」
男の悲鳴のような訴えは、あまりに切実な恐怖が滲んでいた。
「その目だ! 平八郎様も、榊原様も、その目をしていた! あの四郎様とてそうじゃ!」
「……落ち着かれよ」
「人の剣気ではない! 人の目ではない! わしはそれが恐ろしうて本多を逃げ出した!」
恐怖から闇雲に斬りかかる男を鞘でいなしながら、大倶利伽羅は驚いていた。激しく斬りかかりながら、男が唾を撒き散らさんばかりに責め立てる。
「貴様等はなんだ! なぜ人に紛れ、人に化ける! 悪魔か、神か、妖か、人ではない!」
──本当に勘の良い人間だ。
大倶利伽羅は思わず笑ってしまいそうになる。このような人間は、榊原を演じていたときも時折居た。なにか鋭いものを持っていたのか、不自然なまでに自分たちを畏怖するか、崇拝する人間が。特に井伊直政はそれが顕著で、臣下によく逃げ出されていた。
大倶利伽羅は軽く向けられた刀を鞘で払い、松右衛門の足下を砂ごと掬う。背に砂を付けた松右衛門が後退るのを鞘で押しとどめて彼を見下ろす。
「……松右衛門殿」
男の顔が恐怖に歪む。
「徳川を、本多を離れ、九州が天草まで流れ来て、貴殿は何を見付けられた」
「……主を、ぜぜす様と信仰を……あの悪魔から逃れる術を……」
「ならば主が貴殿を怖れからお救いくださるのでは?」
「……主が、主は我等をお救いくださる……」
松右衛門は鸚鵡のように大倶利伽羅の言ったことを繰り返す。
「俺もまたそうだ。皆そうではないか。このインフェルノを離れ、主の御許へ今から馳せ参じるのに何故俺を懼れるか。俺も貴殿も、四郎様も等しくぜぜす様のめぐし子ではないか」
大倶利伽羅は強いて四郎の側仕えの仮面を貼り付けたまま穏やかに松右衛門に問いかける。ゆっくりと彼の前に膝を突いて肩を叩く。
こういうことは石切丸の方が得意だが、今は居ない。
「そう……じゃな」
「そうでしょう」
ぼう、とした松右衛門に手を伸ばせば、彼は素直にその手を取って立ち上がる。
「パライソへ」
見よう見まねながら十字を切れば、松右衛門も頷いて十字を切る。
「パライソへ」
松右衛門を小舟に乗せて、月夜に漕ぎ出でるそれを見送った。
松右衛門の船が小さく月に隠れて消える。
それを見計らったように、砂を蹴り飛ばすようにして、背後から鶴丸が近づいてくる。
「驚いたぜ! 勘の良い人間もいるもんだなぁ。上手に誤魔化したな、榊原殿?」
「そう見えるか」
鶴丸は強いて表情を覆い隠した笑顔で大倶利伽羅を覗き込んだ。黄金を流し込んだような鏡面の瞳がじっと大倶利伽羅を覗き込む。
「まるで人みたいだ」
「俺は刀だ。お前も」
──俺まで試す必要は無い。
そうはっきり言ってしまえば余計に頑なになるのがこの太刀だ。
自分までも試され続けるのは良い気分ではないが、大倶利伽羅は諦念と共に肩を竦めた。鶴丸国永という刀はそういう役目をこの任務で負うと決めた。大倶利伽羅はそれを理解している。
「……そうだな」
鶴丸は低く呟くと右衛門作の漕ぐ船へ向かうために踵を返した。
「そうだ」
聞こえているかも分からぬが、大倶利伽羅は応えを返した。
月夜に長く、黒い影が落ちる。
大倶利伽羅はその影の如く彼の後を追った。
ある夜、湯島にて 終