ありふれた任務のおわりに

壊れかけた世界の敵は脆い。
初めて遂行した特命調査はもう少し手こずっていた気がするが、慶応甲府に陣取った敵は呆気なく白刃の下に崩れる。この閉ざされた世界でだけ、形を保つ遡行軍の亡骸が刀を抜いたままの加州清光の前に転がっていた。
血と泥と何かも分からぬ黒い残滓に塗れただんだらめいた何かが見えたのはきっと山姥切国広の気のせいなのだろう。
血振りをしようとして此処が狭い屋内だったことに気付く。共に出陣したものたちは屋内の戦になれているものばかりで、さっさと懐紙や袖で拭って鞘に収める。
「山姥切、これ使うか」
長曽祢に差し出された懐紙をありがたく受け取って刀を拭う。昔なら被っていた布で拭っていたものだが今の装いではそうもいかぬ。
長曽祢の憔悴にも気付く。いつもならもう少し快活な顔をしているが、うつむいている。視線を辿れば、先ほど彼自身が切り伏せた骸を向いたままだった。
「清光」
先ほどまで猿叫じみた気炎を見せていた大和守が清光に穏やかな声を掛けた。晴れ渡った青空のような瞳が真っ直ぐに曇天を見上げていた。
「いこう」
互いに背を向け合っているのに、すべてを完全に理解していた。加州の黒髪が揺れて刀が空を滑るように振り、天守閣の板間に血が跳ねる。
山姥切のいる場所からは彼の横顔が見えた。
「ああ」
天守閣の窓から曇天の空を睨む瞳は灼赤に燃えている。
それでいて夕暮れの湖面のように静かに、ひたひたと凪いでいる。引き結ばれている口元が、大和守の言葉を契機にして緩やかに綻ぶ。一瞬伏せられた瞼が再び開く時には、いつもの加州清光であった。
「任務完了ってね」
刀を上げて背を伸ばす。
「誉は僕じゃない?」
「はァ? 俺だろ」
「監査官さんが評定するって。兄弟も早くおいでよ」
和泉守が混ぜ返し、階段近くにいた兄弟が手招く。
監査官――自分の印象深い蒼銀の彼とは違い、菊の花の髪を棚引かせた紅金の監査官が扇をひらめかせながら評定だと大らかな笑い声を立てる。
畢竟、特命調査の任は成され、黄金の菊が一輪本丸にやってくることとなる。

特命調査の任は長期に渡る。その上遠征と異なって本丸との時差も無く自分たちが任務で過ごした時間が本丸に過ぎている。
その分、戻るまでに時間があるので、特命調査を終えた夜は宴がおきまりのようになっていた。
聚楽第の時も、土佐でも、江戸でも、熊本でも、新年祝いや就任記念ほどではないにせよ、慰労の名目で宴になる。年末の連隊戦等と違って本丸総力戦にならないのもその理由の一つだ。
暇刃が多いのだ。
大広間はその準備で賑わっていた。風呂を沸かしていると大包平が、軽食は厨だと包丁が、他にもねぎらいが雨のごとく降り注ぐ。
その中に蜂須賀と浦島を見つけた長曽祢がそそくさと二振りに向かっていく。
「宴の準備でも手伝ってくるか」
「之定の味噌汁のにおいがする」
「宗三、なに作ってるの?」
厨に吸い込まれていく和泉守と大和守、それに苦笑しながら兄弟がついていく。
いつもの本丸のざわめきに自然と肩の力が抜けていくのを感じた。風呂は沸いていると誰かの声が飛ぶ。
「……俺は先にお風呂ぉ」
俺も、と同意して加州と連れだってその場を離れた。

 

部隊と別れ、加州と二振りきりで大浴場に繋がる渡り廊下を進む。甲府とは違う青空が中庭に切り取られ、急ぎ足のちぎれ雲が流れている。
ふと、先を歩いていた加州が立ち止まる。
「……国広」
聞き覚えのある声だな、とまず思う。同時に懐かしいとも思う。
「ここにいる」
少し歩を進めて、加州の横に並んだ。
「いるぞ」
肩を叩く。
ぼろ、と彼の湖面のような瞳から、ひたひたと湛えていた心が溢れて彼の頬を濡らす。
目も鼻も口もぎゅっと真ん中に集めるような顔で、彼は初めて呻く。戦場でも、帰城してからも、配属になった一文字則宗に再会してからも、飄々とした態度を崩さなかった加州。だが、何も思っていなかった訳では決して無い。
「うう、うううう」
昔は彼が泣く度に襤褸布で顔を拭っては怒られたものだった。同じように加州の首巻きを押しつけられたこともある。
「立派な隊長だったと思う」
呻いて答えない背を押せばそのままするすると加州の足は動く。押し車を動かしているような気分で風呂場に向かう。あそこにはたくさんタオルがある。
「我慢したら腫れるぞ」
フェイスタオルを顔に押しつけると、メイクが崩れると鼻声の文句が返ってくる。
「それが言えるなら元気だな。クレンジングを取ってこよう」
「やだもうちょっと褒めて」
「アンタはよく頑張った。早く風呂上がって、つき屋の羊羹を食べよう。太く切ってやる」
「お前はいつもそれだよ」
あはは、と笑う。加州が笑うと微かに鼻に皺が寄る。それを見ると思わずほっとしてしまうのが癖のようになっていた。
「鶯丸今日非番?」
「たしか」
「羊羹献上する代わりにお茶入れてもらおう」
ふ、っと笑って加州が立ち上がる。さっぱりと雲の晴れたような顔で紅い目が細められる。
「前と逆じゃん?」
「む……」
俺は泣いてはいなかったはずだ。それにあのときはまだ極めていなかった。
言葉にしていなかった文句が聞こえていたかのように加州が額を弾く。そのまま頭を押さえつけられる。
「ありがと」
「こちらこそ」
生意気、と髪をかき混ぜられながら自分も思わず声を立てて笑う。
そのうちに仲間達に追い立てられてきた第二部隊の面々の声がする。聞き覚えのある笑い声は一文字則宗だろうか。
「うわ、長曽祢さんと和泉守が来たら風呂場狭くなるじゃん。先入ろうぜ国広」
加州がさっさと服を脱いで浴場に駆け込む。
それを追いかけて浴場に入る。
それはありふれた日々の一幕。
それはどことも異なる本丸の一日。
そんなものを積み重ねて、本丸は続いていくのだ。
 

ありふれた任務のおわりに 了