博士の愛した夢物語

その部屋は閑散と人の気配はなく、ただキーボードを走らせる音だけがリノリウムの壁にうんざりと反響する。
 二人して足並み揃えて入局してすぐの頃、ESP研究の若きホープとして皆本が発表した研究成果。邦訳が間違ってないか見てくれよ、なんて笑って頼まれたのを昨日のことのように思い出せる。いきなり日本最大の工学学会へ放り出されて発表させられたのだから、皆本の期待は高かった。それをベースにした書きかけの論文が、今、電子の海から消えていく。
「もう少し待っててくれ賢木」
 皆本はこちらに背を向けて、黙々と作業を進めている。
 ふと覗いた窓の外には雄大な富士山が見える。
 あの山を崩すことの出来る超能力者と、崩せずとも人を殺せる普通人たちによって、超能力者と普通人の共存を願ったB.A.B.E.Lはその理念を喪い崩壊の一途を辿っている。
「構わねえよ。誰も来てる様子はねえし」
「良かった。でも、嗅ぎ付かれるのも時間の問題だろう」
 定期的にクリーニングに出していた仕立ての良い立て襟のコートはもうかつての面影も見る影もなく、毛羽立ってよれよれだった。コートと同じように彼の顔もまた、疲労が色濃い。
「――それも駄目か」
 透視して見える電子の海の中に、二人で共同執筆した論文が見えて思わず呟く。ESP医療の権威で、厳しい掲載基準を有する学術雑誌の査読を一発でアクセプトしたものだ。こんなことがなければ今ごろには掲載されていただろう。皆本と自分で理論化し、普遍化した生体コントロールの基礎研究だ。今後五十年、発展するESP医療の礎になるはずの。
 皆本はちらりと此方を見て、目元だけで微笑んだ。
「これが発表されれば、普通人は超能力者を不死身だと思い込むだろう。雑誌に送った方は、襲撃時に灰にしてくれたそうだ」
「そうか」
 賢木には何を言うこともできなかった。その研究成果がそう扱われるかも知れないと、思わなかった訳はない。
――この世界が平和なら、きっと二人で登壇しただろう。
 電気椅子のスイッチのようなエンターキーは賢木の苦悩など素知らぬ顔で打ち込まれる。
 皆本のプログラムは誰にも止められない。
 研究者としての彼の成果は全て消え去っていく。跡形もなく、1バイトのデータも無く。
 ESP研究で学位を取った、若きPh.D博士の存在ごと殺すそのプログラムは、今十全に世界中を走り回っている。
 ひとつ、『エスパー犯罪―特務エスパーによる制圧事例―』は、特務エスパーの現場運用主任としての皆本にしか書けない。どれだけあの時のパネルディスカッションが白熱したか、賢木は覚えている。あとから捜査課の警部やら公安のエスパー対策班まで駆けつけたのを見て、賢木は笑い出しそうになった。次のディスカッション用に溜められていた補講ごと消えていった。
 ひとつ、『ESP制御補助機構理論――リミッターへの応用――』は、今まで超度を2段階下げるのが限界だったリミッターを小型・軽量化した上で3段階まで押さえることを可能にした発表だった。制御が難しい高レベルサイコキノの自傷事故が減少したことを知っている。今消えたデータは、それをさらに4段階まで下げ、なおかつ能力の制御の補助をする為のものだ。
 ESPロックよりも安価に大量生産でき得る画期的な開発だった。
――これで、テレパスの自他混濁や、サイコキノの自傷事故もきっと少なくなる!
 そう言って、どれだけこの友人が楽しそうに笑っていたかなど、賢木や彼の愛しい子どもたちチルドレンしか知らぬことだ。
 低レベルのエスパーへの手枷として転用される前に、その研究は彼の笑顔の思い出ごと消えていく。
 ESP研究者として、工学者として、特務エスパーの指揮官として、彼の明晰な頭脳に蓄えられ分析され、書き出された研究は、兵器への転用を懸念された。
 B.A.B.E.Lの崩壊を目前にして、皆本が選んだのはその全てを無に返すことだった。
 お前のやってきたことが、全部消えて無くなってしまう世界に、守る価値などあるのだろうか。

 

 電子の海の中、存在すらしなかったことになっていく文字とデータを目を閉じた世界で見つめながら、賢木は地団駄を踏みたい気持ちになった。二度と現れ得ぬこの天才の、なにものにも代えがたい財産を、棄てなければならない。電子の海に還っていくデータの一キロバイトを再び生み出すには、きっと50年は更に掛かるだろう。
 ひとつ、『合成能力の再現理論』。低レベルの超能力者複数人で、一つの合成能力を作成する理論。この研究に、賢木も合成能力者として参加した。宿木や犬神、ティムもバレットも参加しているから、棄てなければならない。
 ひとつ、『ESPの医療転用の新展開』。ひとつ、『ECCMの脆弱性の指摘』。ひとつ、『長距離指向性ECMの効果』。他にも、ザ・チルドレンの運用報告、シャドウ・オブ・チルドレンの実績報告、演習報告書、何もかも。
 ものの三十分もせずに、皆本のプログラムは電子の海の中の彼の研究成果を全て消し去った。それを最後まで確認し、皆本はゆっくりと顔を上げた。何かがごっそりと抜け落ちたような、見たことのないような表情に、賢木はどんな言葉もかけることは出来なかった。どんな言葉も、賢木の思いを表すには陳腐に過ぎた。
 自分の人生の殆どを、この男は自ら殺したのだ。
 時を同じくして、ヘリコプターの音が遠くから聞こえてくる。
「――タイミングがいいな」
「すまない、待たせてしまった」
「逃げるぞ」
「ああ」
 皆本と共にコートを翻して研究棟から飛び出す。ヘリコプターが屋上に降りる。武装した集団を尻目に、バイクを駆り立てて研究所を離れた。もう二度と戻ることはないだろう。
「……ごめんな、賢木」
 思いっきりアクセルを踏んだ大型バイクの駆動音が耳を劈いているのに、その声ははっきりと聞こえる。腰に回された皆本の手から伝わっているのだろう。
「何が!」
「お前との連名のもあったのに」
「構わねえよ、兵器やらヘイトスピーチに使われる方が嫌だね」
 殊更軽く笑い飛ばせば、腕から伝わる思考がすこしほぐれる。
「なあ、賢木」
――ぞくり、と背筋が凍るような嫌な予感がした。
 触れているところから透視よめる思考は穏やかなのに、その底にはぞっとするほど冷たい覚悟が横たわっている。その蛇のような怜悧で哀しい目がゆっくりと彼の中で鎌首をもたげている。
「言うな」
 咄嗟に反駁する。稲妻のような恐怖に、賢木の声は震えていた。
「言わないけど」
 透視んでくれ、と囁かれる。
「嫌だね。透視なくても分かる。断る」
「頼むよ、賢木」
 彼の額が背中に当たる。
「嫌だ。頼むよ、皆本。それを、俺に透視ませるな」
 賢木の声は、あまりにも弱く、縋り付くような響きを隠す余裕もなくなっていた。
 背中越しに、皆本がくすくすと笑う振動が聞こえた。
「お前は優しすぎるなあ……」
 数ヶ月ぶりにきいた穏やかな思考こえがたまらなく寂寥を孕んでいた。それは賢木に心臓を撃ち抜かれるよりも苦しい痛みを齎す。歯を食いしばって、呻いた。
「なんでだよ……っ」
 雨でもないものが、二人分風圧に吹き飛ばされて頬を滑った。

 

 一週間後、賢木は一人屋上に立っていた。
 秘密裏にコンタクトを取った相手に指定された場所。やはり迎えに来たのは超能力者の女王たちだった。
「賢木先生……!」
 薫と葵、そして紫穂は両手を挙げて立つ賢木に驚きを隠さなかった。きちんと名乗りを上げて、パンドラへ保護を求めたが、それでも実際に見るのは衝撃だったのだろう。
「薫ちゃん……いや、破壊の女王クイーン・オブ・カタストロフィと呼んだ方が良いかな?」
「止めてよ、センセイまで!」
「センセイ、どうして? 兵部はんらはスパイやろうって言うとるんやけど」
「そうよ、貴方が皆本さんから離反するなんて」
 紫穂が鋭い目をむける。敵意を向けない二人と異なり、彼女だけは銃から手を離さない。この子だけは、賢木がどれだけ皆本に救われたか知っている。紫穂にとっての薫と同等の思いを向けていることを、彼女だけが知っている。
「疑われるのは当然だけどな。俺は超能力者だ。保護を求めるものは断らないんだろう? 女王クイーン。それに、この世界に俺以上のサイコ・ドクターは居ないぜ? お買い得だと思うけどなあ」
 三人は疲労こそあれ、重篤な異常は見られない。そのことに賢木はひとまず安堵した。
 彼女たちが迎えに来た時点で、賢木が迎えられることは確実だと分かっていた。限界を迎えつつある兵部の診療、傷ついた超能力者への治療。パンドラが不足しているものを賢木は十全に手にしている。
 葵と紫穂は、薫の判断に従うだろう。
 破壊の女王の道を行くエスパーたちの女王は、まっすぐに強い瞳で賢木を見つめ、頷いた。
「……うん。センセイが望むなら」
 薫が手を伸ばす。かつて手のひらにすっぽりと包んでしまえた手はしなやかに伸び、威厳さえ湛えて、賢木に伸ばされる。
 その手を取って、賢木はB.A.B.E.L友の横を去った。
 

 遠く、それを見つめる影がある。屋上に吹きしくビル風にコートの裾を揺らし、愛しい少女たちに手を引かれた友人の姿が消えるのを見届けて高い空を見上げた。
 淡い蒼穹に普通人ノーマルの手は届かない。
「……ごめんな」
――僕の研究を、僕のやってきたことをお前が覚えていてくれるからあんなことが出来たんだ。なあ、平和になったら僕の研究をお前がもう一度やり直してくれよ。……賢木にしかもう出来ない。
 なんて狡いことを言ったのだろう。結局友人を泣かせてしまった。賢木が、自分を大事に思っていることを知りながら突き放したのだ。
 瞬いた拍子に厚顔な涙が頬を滑る。乾いたコンクリートの色を変えた。
「薫、葵、紫穂……ティム、バレット……賢木……。どうか生きてくれ」
 はたはたと滴るものでコンクリートの色が変わる。
 幼い頃から肌身に親しみ、そして彼らと出会ってからぬぐい去られていた浮き雲の孤独が再び皆本を包み込んだ。
「どうして、こうなったんだろう」
 伊ー八号に予知された未来、揺らいでいたはずの未来は結局、薄汚れた未来に収束した。
「……ああ、未来を白紙に戻せたら」
 それは夢物語。
 普通人には過ぎた願い。
 皆本はコートを翻して屋上を去った。背中にべったりと、絶望と孤独を貼り付けて。
 その夢物語を叶えるのが、超能力だと今はまだ、誰も知らない。