愚者には翼はない

『こちら”恋人ザイン“! “愚者アレフ“応答願います。無事ですか! 応答を!』
 ノイズの入った通信が、耳元で悲痛な声を上げる。
『――ちさと、ここはもう駄目だ! パンドラに嗅ぎつけられてる! “愚者アレフ“! こちらは無事です! 俺たちはδ拠点に向かいます! 規定期間、帰りを待ちます! 早く!』
 ぷつ、と通信が遮断される。皆本はその音に漸く目を開いた。
 耳元に触れ、地下に潜った所為で通信が遮断されたことを悟る。
「しまった、東野君たちに心配をかけてしまうな」
 皆本は脇腹を押さえ、ゆっくりと壁に手を突きながら立ち上がった。
 普通人ノーマルは衆愚と成り果て、恐怖に駆り立てられた凶行を繰り返す。
対する超能力者エスパー女王クイーンの下へ集い、過剰な暴力を奮いはじめた。
 復讐が復讐を産み、激化する諍いは止まらない。
 最悪へ収束していく未来で皆本は一人だった。
 自分の心からの頼みを断れないことを知りながら彼の思いを踏みにじり、子どもたちを守ることも出来なかった無力な罪人はたった一人で逃亡していた。
 見る影もない薄汚れたコートを翻し、汚水の匂いが酷い下水道を壁を伝いながら歩く。自衛隊での行軍訓練を受けてなければ、とうに心が折れていただろう。

 かつての第三帝国の言葉スローガンをもじって”人類浄化”を叫ぶ普通人ノーマル勢力に皆本は追われていた。一方で、女王を殺す未来の罪人として超能力者エスパーにも命を狙われている。
 皆本を手助けするのは、彼自身が作り上げた中立組織“ARCANAアルカナ“だった。皆本の理想に賛同する者達で作り上げた地下組織。
 エスパーとノーマルの戦争を忌避する心ある人たちによるそこが今の皆本の巣だった。
 その中には、とある銀行の頭取やコメリカの上院議員の一家の名もある。子どもたちの幼なじみの名前も、元B.A.B.E.Lの職員の名も。
 皆本は彼らに惜しみなく知恵を授けた。エスパーとノーマルの和平のために奔走した。
 自分が居なくなっても活動は続けられるように。

 皆本は息を吐いて立ち止まる。ふと来た道を振り返れば、べったりと黒い隘路が出来ていた。
――どうりで、寒いはずだ。血を流しすぎた。
 深々と溜息を吐いて皆本は溜息を吐いた。
 ふと、無性に青い空が見たくなった。空などもう、何日も見ていない。
 見つかる危険と、近づいてくる耳障りな死に神の跫音。二つを天秤に掛けて、皆本は乾いた音で笑った。
 いまさら、惜しむ命でもない。
 重たい身体を引き上げて、皆本はマンホールを持ち上げた。閑散とした地方都市の一つは、かつての賑わいを失って寂しい風が吹いている。
 暴徒達は破壊して去ったらしい。
 見上げた空は煤に薄汚れていた。
 そのとき、皆本に去来したのは途方もない徒労感と、喪失感だった。
 かつて、少女達が飛んだあの眩い空は、今や見る影もない灰色に穢れていた。
 回復した通信機のスイッチを入れて、口を開く。
『 こちら”愚者アレフ“。聞こえるかいみんな』
『はい、こちら”恋人ザイン“と”戦車ヘット“です。ご無事ですか!』
 若い娘の声の応答。皆本はシャッターの立ち並ぶショッピングモールの階段を上がりきって、漸く座り込んだ。
『これが最後の通信になると思う。すまない、さっき撃たれてしまったんだ。δには向かえないと思う』
 息を詰める声が通信に乗って聞こえた。
『そんな……っ』
『今どこに居るの!? 兄さんが向かうから、座標を教えて!』
 青年の声が通信に割り込み、悲痛な声を上げる。
『……”テット“。君たち兄弟が僕らに参加してくれたことを嬉しく思う』
 外つ国の超度七レベルセブンの元少年は悲鳴を押し殺した声を上げた。コードネームを忘れている。
 テレパスか盗聴器に聞かれてしまったかも知れないが、誰かがここにたどり着くより先に、皆本の命は尽きるだろう。
『光一……!』
『僕が居なくなっても、どうか諦めないでくれ。エスパーと、ノーマルの戦争を止めるんだ……』
 いくつもの涙声の肯定が、皆本を慰めた。
 ぱちぱちと目の前が明滅した。ひゅうひゅうと喉からすきま風の音がした。
 白く爆ぜる世界の中で、世界が色を取り戻していく。
 皆本の手は空へ伸びる。その手には、熱線銃ブラスターが握られ、指は引き金に掛かっている。
 都合の良い走馬燈。愛おしい子どもたちが、幼い姿で皆本に手を伸ばす。立ちすくむ自分の背を押すのは、十年来の大事な友人。
――ここに居て良いんだよ。
 と、彼らは皆本の手を引く。なんて、都合の良い夢を見ているのだろう。皆本の、幽冥の境にあれど明晰すぎる頭脳が、走馬燈の欺瞞を嘲笑った。
 皆本はゆっくりと空へ伸ばした手を下ろした。
 皆本には翼はない。空を行く彼女たちを見上げる愚か者にすぎぬ。
 下ろした手の中の熱戦銃をこめかみに当てる。ひんやりとした金属の感触。
「――愛してる」
 いつかどこかで聞いた言葉をなぞるように口にして、その引き金を引いた。

 潮が引いていくように消えていく知覚の外で、誰かの悲鳴と、暖かな力が身を包んだような気がした。