忍び使いの一族 業

多岐にわたる掟を持つ真田忍において、唯一の暗黙の掟と言うものがあった。口に出すことも文にすることも許さぬ秘された掟。代々の掟の中で最も新しいその掟は最も守られるべき掟として定められていた。
破られたのはたったの一度。しかし、それに伴う裁きは生温い拷問など比べ物にならぬ恐怖であった。
硬く硬く守られてきた掟が二度目に破られたのは、奇しくも武田及び真田において最大にして最高の舞台上であった。
「うぉぉぉぉっみなぎるぅぅぁぁっ!!家康どの!手心無用で参られよ!」
「無論だ、真田!お前には……ワシも手加減など出来ん!」
真田丸の頂上舞台にて、大阪夏の陣最後の決戦がおこなわれていた。
片や武田の総大将にして最後の西軍の将であり、虎若子と謳われる真田幸村。
片や東軍総大将にして、もっとも天下に近い東照の権現徳川家康。
そして、それを見守ることしか許されぬ真田忍隊隊長、猿飛佐助。佐助は熱血真田砲の砲身に立ち、彼らを見つめていた。
刃と拳を交わす二頭の若き虎が目下に望める。得物の長い幸村が優位に見えるが、元より長物相手を想定した家康の徒手空拳は、隙を逃さず幸村の槍の懐を狙う。互角の戦いに、幸村は政宗相手とまではいかぬものの、楽しげに気を高ぶらせていた。口角を上げる幸村と反して、家康は未だ関ヶ原の大戦の精神的な負担から回復しきっていないらしく、黄色の頭巾の下にはもはや笑みは見えなかった。
と、その佐助が血相を変えてすがめられていた瞳を見開く。
互角であるという一点に問題が潜んでいた。幸村の槍先が家康の頭巾を裂くこともあれば、真空すら生み出す高速の拳が、幸村の額を掠めることもあるわけなのだ。
「っ!」
覚悟をもって傍観者に徹していた佐助が、そこで初めて声を出した。
最期の別れは戦の前に済ませたものの、これは話が違う。
幸村が辛うじて避けた拳が、幸村の額を掠め、鉢巻きを吹き飛ばした。
幸村は息を詰め、強風に煽られ飛んで行く鉢巻きを目で追う。西日に目を刺され動きが止まる。その隙を逃すほど、家康は甘くはない。水月を狙う地をも砕く拳が、唸りをあげて幸村を襲った。
しかし。
家康の拳は、水月を捕らえる前に停止した。がらんがらんと音がした。
拳を止めたのは、幸村の手であった。打ち込まれた右拳を、右手ひとつで握り込み、勢いを完全に殺している。幸村は俯き、顔は影となって見えなかった。
「手遅れか……」
佐助は舞台に下り、幸村を見た途端に肩をおとした。幸いなるは、二頭の虎の他にこの舞台に兵卒が居ないことだろうか。
二槍は床へ転げ落ちていた。
間髪いれず、幸村の左拳が驚き動きの鈍った家康の横っ面を張り飛ばした。
家康は二間ほど吹っ飛び、仰向けに床へ叩きつけられる。体勢を整える時間も与えず、幸村は家康の鎧に覆われた胸を踏みつけた。絶妙な体重の掛け具合に、家康はもがこうとも動けない。
状態が極限状態を維持しているのか、幸村の体からは、陽炎が迸っていた。
「……つまらぬ」
一瞬何を言われたのか解らずに彼を見上げた。嘲りを含んだ、氷よりも冷えた瞳が家康を見下ろしていた。
ぞくりと背筋に氷塊を滑り込ませられたかのような怖気が懐いた。
なんだ、この豹変は。
「おい佐助。これが天下に最も近い東軍の総大将なのか?佐助っ!」
「は、はい。間違いなく、東照権現徳川家康に間違いないですよ」
「この様な男がか?胸糞が悪い。己を己で戒め、その事に気が付きながらも見ぬ振りをして信頼すると嘯いた相手すら韜晦する。まだ三成どのの方が俺好みだぞ。詰まらぬ戦をしておるなぁ佐助よ。この様な、死した目をした男と槍を交えるなど、無駄にも程がある。天下泰平?笑わせてくれる」
苛立ったような科白と同様に、幸村の表情も不機嫌なものに変わっていく。
家康は、己の野望すら嘲笑われ鋭く幸村を睨み付けた。
「万民の泰平を……お前は軽んずるのか!?」
「応。天下泰平など妄言だ。戦が終わるわけがなかろう?人は争うものだ。人とて獣の一種にすぎん。
獣が縄張り争いするのと、人が天下を求めるのも、一つとして変わらぬのだ。無理だな。
貴様の言葉は美しく飾り付けた荒唐無稽な戯れ言だ。
武士の戦が無くなろうと人は争う。裏切り、憎しみ、愛憎の果てに、己で己を殺すことさえしてのけるだろう。仮初めの平穏などなんの救いにもならん」
幸村は滔々と嘲った。家康は強張った表情で言葉もなく幸村を見上げた。
哀れなほど、その顔は目の前の男への恐怖で染まっていた。
「ああつまらん。その様な詰まらぬことで、貴様は友すら手にかけたのか」
一際大きく家康の目が見開かれた。
半分開いた口から、何かが溢れようとしているようにすら見える。
戦慄き震える手が舞台の板目を引っ掻いた。
佐助は、痛ましそうに家康を見つめ、幸村の傍らに片膝をつく。
「幸村さま。東軍の将たる徳川家康公への過度の非礼は幸村さまの評価のみならず、真田、引いては武田の威信に関わりますお止めください――っぅぐっ」
佐助の肩に鉄の棒が数本突き刺さる。鉄帷子すら貫いたそれは、間違いなく幸村の手から投擲された棒手裏剣であった。
数ある手裏剣のなかでも最も扱い難い棒手裏剣をこの数この威力で投擲する主に、佐助は冷や汗を浮かべた。
「主に口答えするとは、偉くなったな佐助……」
「め、滅相もない……!」
「俺が甘やかし過ぎたか?それとも……この詰まらぬ男に鞍替えか?ああ、言っておったなぁ、武田を抜けることも考えたと……実行に移す算段がついたということか」
「ちが、違う!!」
背信を匂わせる主に、佐助は大きく否定した。その主従の姿に、戦慄いていた家康も落ち着きを取り戻した。
「真田が……真田ではない……?」
呟いた声は小さく、聞き取れたのは忍だけだった。俯く佐助の拳がきゅっと握られる。
つまりは――――肯定。
幸村の気が逸れたことを見逃さず、家康は身を捩って幸村から距離を取った。腰をため、未だ震える拳に力を込める。
幸村は、やはり嘲りの交じる笑みで家康を見た。手には小さな黒鉄の礫が握られている。
「ほう、まだ折れぬか。重畳重畳」
「貴様は、なんだ。本当に真田……真田幸村か?」
「なんだと来たか……。なんだもなにも俺は真田だ。最も真田に近い……真田幸村だ」
「ワシの知る幸村は、大きな炎のような猛将だ。眩しく明るく、夜を照らす篝火であり、山を焼く業火のような男だ。真田幸村は、人の善性を信じていたはずだ!このワシと同じく!敵対していようと、ワシと幸村の間には確かに絆があった、それを見間違えるワシではない!!」
「……虫酸が走る」
幸村は、笑みをおさめて表情を消した。触れてほしくない部分でもあったかのように。
情けも義理も正義感も道徳心も、今の幸村は持ち合わせない。あるのは、人の傷を抉り、人の苦しむ様を悦びとする残酷な心ばかり。人を人とも思わぬヒトデナシ。
どうして幸村がそうなったのか、真田の人間は異口同音に答えるだろう。
“忍使いの業”だと。
人を人と思わぬ忍を、人とせず道具として使い、己ばかり人として生きる忍使いの、相応の報いだと。
そして、真田一族でもっとも業の強い者が幸村であったのだ。
故に、紅蓮の鬼と彼は称された。
「ワシは、戯れ言であろうと、仮初めのその場凌ぎに過ぎずとも、天下を泰平へ導く……。どれほど人が争いあう生き物であろうとも、ワシは人の心を信じる。
人が絆を結びあうことが出来れば……お前の言うような救いには成れずとも……何かがかわるとワシは信じているからだ!
泰平でなければ、それすらも出来ないのだから!」
家康は、堂々と胸を張った。彼の無心の願いのもたらす輝きは、直視することも難しい太陽のようなもの。影すら照らす、あまねく光。
幸村は、舌打ちして苛立ちのままに家康を睨み付けた。
「戯れ言をっ!!」
幸村は、手の中の礫を投げつけた。
十数個の鉄礫は、恐るべき勢いで家康を襲った。忍の使う暗器の一つである。
家康の籠手に傷をつけつつも、それらは叩き落とされ舞台の板目に潜った。
数々の暗器を繰り出す幸村に、相対する家康。
戦いは初めへ回帰した。
手裏剣は飛び、くないは床へ刺さり、炮烙火矢が爆発するそのなかで、佐助の耳に偶然幸村の声が差し込んだ。
「その天下に、けして相容れぬ存在がいることを、知らぬのか!」
その声には苦渋が滲んでいるように感じて、佐助は注意深く幸村を見つめた。
そして、唐突に理解に至った。
驚愕をもって、それを受け入れる。
真田は忍を使う一族。誰よりも忍を信じ、理解した一族だった。
彼はその代弁者。
「ああ、旦那……っ!」
忍は思わず主を呼んだ。もういいと叫ぶ。忍は主の背後を取り、鉢巻きを額に巻き直した。
「いいんだ、いいんだよ。泰平に俺様たちなんて、要らないんだ……!!」
ぼろぼろと忍は泣きながら主を抱き締めた。主は弱弱しく首を振った。
「よくなど、ない――――」
それから二頭の虎はまた槍の穂先と拳を交えた。そこにはもう、炎の影であった忍はいない。
大阪夏の陣最終決戦、戦国時代に終わりを告げる大戦は、真田幸村の討ち死にで幕を閉じる。
その後、忍と言う存在は闇へ融けるようにそっと消えていった。光であまねく照らされた世の中には、忍はやはり相容れなかったのだろう。
最後の真田の忍使いは、そう綴って筆をおいた。
真田信之が息を引き取れば、もう、真田は忍使いとは呼ばれない。業は、ここで途切れるだろう。
真田忍の滅亡は、華々しい戦歴と相反してとてもゆっくりで、とても静かなものだった。