忍び使いの一族 母

遠駆けに行こう、と前々から約束していた日が来た。
朝日が金色の粉を撒き散らしたような美しさで上田を照らし、鶯の澄んだ声が良く聞こえている。
佐助は渋々の風を装いつつ軽装の轡取り姿で幸村の愛馬である月影の馬房に居た。
無論暗器の類いは脚絆の下や袖の裏に山ほど仕込んである。
「佐助っ!」
「おはよう、旦那ァ」
「うむ!」
朝の鍛練を終えた所らしく、まだ肌寒い春の朝に幸村の体は微かに湯気を立てていた。服装はいつもの赤揃えの具足をではなく、背に一本槍を差しただけの身軽な袴姿である。
「夕方には名胡桃城へ着かねばならぬな!」
月影に跨がり、はしゃいだ様子の幸村はわざわざそう言って控える佐助を意味ありげに見下ろした。
「はいはい、途中に食べる団子と昼飯は用意してるぜ」
主の言いたいことを即座に察した佐助は、肩を竦めて背に負った振り分け荷物を叩いた。幸村は幼子の時分から変わらぬ真夏の日差しのごとき笑顔で破顔した。
上田城の裏門を抜け城下町を抜けて軽やかに月影を駆る幸村に佐助は徒でついていく。忍の足は馬の足に並ぶことなど息を吸って吐くことほど朝飯前なのである。
勢い良く土煙を上げて馬を駆る若衆の脇を、轡取りの若衆がこれまた物凄い勢いでぴったりとくっついて走る。
甚だ奇妙な光景であるが、上田に住むもの達にとっては常の二人の遠駆け姿であった。
柔らかな朝日であった太陽も、空の一番上に差し掛かり、春の熱を降り注いでいた頃。 名胡桃へ向かう道すがらで、その小屋を見つけたのは幸村だった。
山陰に隠れるようにして、こじんまりとした家の屋根が見えた。其処から香る快い匂いに、ふと幸村は馬の足を止める。
「あんな場所に、家があったのだな」
「あったっけねー?」
「丁度午だ。軒先を借りて昼飯としようぞ!」
意気揚々と馬の首を向け、草葉の陰に隠れた階段を迷わず上っていく。佐助は慌ててその背を負い、幸村より先にその家の戸を叩いた。
「ごめんくださーい」
「御免っ」
しかし、返事はない。当惑して顔を見合せた主従だがすぐに声が掛かった。近くの畑で田植えをしていた老人だ。
「お侍さま方、その桐の家には誰も住んどりゃあしませんよお。どっからか乳呑み子抱えた親子が住んどったんですがねえ、十何年も前の話ですわ」
「では、ご老人っ。この軒先で休憩しても良うござろうか!」
「誰のものでとありゃあしませんし、どうぞどうぞ」
老人に厚く礼を言い幸村はさっさと御粗末な門を潜り抜け裏手に回った。
月影は門の杭に括っておく。
佐助はざわつく心を抑えてその後ろ姿を見遣った。
――十何年前。乳呑み子を抱えた親子。何処かからか――
「佐助っ!」
張りのあるはしゃいだ声が佐助を呼ぶ。思考を中断出来たことに内心ほっとしながら、佐助は幸村に何ー?と返事を投げた。 幸村の声を追って裏手に回ると、庭に有ったのは見事な桐の大木である。
薄紫の花を敷物のように隙間なく地面に敷き詰め、強い香りをまき散らしていた。佐助は息を呑む。
果たしてそれは、感嘆か恐怖か。
「これは……」
「先ほどご老人が桐の家と仰っていたのはこの事だったのだな。先程から良い臭いがすると思っておったのだ!」
思わぬ絶景に無邪気に喜ぶ幸村に、佐助は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「帰ろう、旦那。ここはいけない」
そう言えなかったのは、単に何も知らぬ幸村に怪しまれるのを恐れたからであった。 佐助はつい先日『あることを』知ってしまっていた。
真田源次郎幸村の“出生”に関する真田家の悲しい汚点。
初めはただの好奇心からだった。
幼き日、まだ幼名で呼ばれていた幸村の溢した帰りたいという言葉。歳経るにつれ本人は忘れ去った幸村のその一言を、佐助は忘れなかった。そして知ってしまった。幸村さえも記憶にふたをした、その出来事を。

 

それは、佐助が幸村――当時は弁丸という名であった――の忍として仕え始めて数日目の夜のことであった。
「のう、佐助ぇ」
遠慮がちな小さな声が天井裏の俺の耳に届いた。
この小さな御子様のお守りが佐助に命じられたお仕事だった。
思ったような派手な仕事ではないことや、お坊ちゃんのお守りに辟易しつつ、呼ばれたからには答えねばならぬと仕方なく返事をする。
「何?若様。もう寝なきゃ駄目でショー?」
「うむ……わかっておる。分かっておるのだぞ」
もごもごと上掛けを顔の上まで引き上げて呟く子どもを天井の覗き穴から覗くと、意外と見当外れでもない位置を見ていて佐助は少しばかり驚いた。 規模は小さいとはいえ大名宗家の第二子ということもあり弁丸はかなり広い部屋で暮らしているのだが、その中から佐助の位置を察しているらしい。
生まれた時から忍が側にいる真田の子だからか、それともこの若子が類希な才能の持ち主なのか。
その時の佐助には判じることは出来なかった。 今では、その双方であると解っている。
「のう、ならぬか?」
考えに耽っていた佐助は、弁丸の声に慌てて正気に返った。眼下の弁丸を覗くと、捨てられた仔犬めいた瞳で天井を見つめていた。眠気で潤みきり、半分閉じかけた黒目がちの大きな目で、天井をじっと見られてはとても落ち着けたものではない。
そのまま眠れると思うんだけどなぁ、などと佐助は呆れた。
「だめ、か……?」
まだ細く頼りない眉をハの字にして、うろうろと眠たげな目をさ迷わせている。あと一息で寝れるのに、寝れぬのだろうということは佐助とて分かっていた。
寝れなくて愚図る赤ん坊なんて山ほどいるわけであるし、まだ赤ん坊に毛が生えた歳のこの若子もそうなのだろう。
分かっちゃいるけど、それはそれ、これはこれ。猿にも劣る忍に子守唄を唄わせるなんて、真田の家名に傷がつくに決まっていると考える佐助は心を鬼に若子に冷たく言い放った。
「わがまま言わないでよ。俺様が何か知ってるの?忍に子守唄唄わせるってどうよ」
「そうだな……っ、佐助は忙しいものな。おれなどにかまっておられぬのよな……わすれろっ」
今にも泣き出しそうな声でがばっと俯せに寝返られた。これにはこれより後、真田に猿飛ありと謳われる忍とはいえ、まだ若き佐助の有るか無しかの心が疼いた。
待ってくれ、それじゃあ俺が苛めてるみたいじゃないか!
「あのねえ、真田の若子様。俺はね、乳母めのとじゃないの。忍なの。忍に子守唄で寝かしつけられる武家の若君がどこにいるのよ。今までは一人で寝れてたんでしょ?それとも乳母が居ないと寝らんないの?」
「……ねれぬ」
「は?」
俯せで褥に顔を押し付けながら、弁丸ははっきりと言った。
「きのう、佐助はおれにいらえをしてくれただろう。いままでの父上の忍は、いらえなどしてくれなんだ。ゆうべ、ここへきて初めて、ぐっすりねむれた気がした。めのとなどおれには居らぬし、ぶしの子として情けないが、おれは母上がいつも恋しかった……かえりたかった……」
「なんだい、五つにもなってまだお袋さんが恋しかったの?」
耳を疑うような言葉に動揺を押さえ付け、弁丸に気付かれないように、佐助は何気ない風を装ってからかった。
だが、おかしい。
ここは真田家の居城、上田城だ。若子様の母上、山の手殿は別棟に居るからともかくとして、帰りたいってどういうことなのだ。
然るにこれが、幸村の出生に佐助が疑念を抱くに至った切欠である。
「佐助の子守唄は、母のものと良く似ておって、心地よい」
どうにも佐助のからかいは糠に釘で、嬉しそうにはにかむ子どもにすっかり根負けしてしまった佐助は天井裏から飛び降りた。
「佐助っ!」
「仕方ないなぁ、もー。今日だけだからねっ」
朧気な記憶から、里の子に歌った子守唄を引っ張り出して、口ずさむ。
自分がねえやに歌ってもらったこともあっただろう。
『ねんねなされませ 寝る子はかわいし 起きて泣く子は面にくい……──』
なんとも絆されちまってンなあ、と自分で自分を馬鹿にしながら、佐助は枕元で静かに歌ってやる。
これが元服するまで日常化してしまうことは流石の猿飛佐助でもこの時は未だ想像だにしていなかった。

しかし――若子の言動の奇妙さは長年の疑念となって佐助の記憶の片隅に残り続けたのである。
その疑念は幸村の影として彼の健やかなる成長を見守り、彼への無垢なる忠義が深まるにつれ佐助の中に、筆から滴り半紙に零れた墨汁が、じわじわと滲むように広がっていった。
幸村が正式に真田家の家督を継いでから佐助は誰にも知らせず動き出した。
そして、日ノ本のありとあらゆる忍を凌駕する真田忍隊隊長としての能力を遺憾無く発揮し、先日遂にその全貌を佐助は知り得たのである。
まさか、こんなことが。
調べている最中、薄々気がついていたとはいえ、はっきりと証拠を集めてしまうと佐助は思わず呟く事を禁じ得なかった。
『真田源次郎幸村は真田昌幸の正室山の手殿の実子ではない。昌幸が手を出した身分の低い女の産み落とした庶子である。』
その女は昌幸が正室山の手殿か、はたまた真田の老臣か、それとも忍びの里かにより遣わされた忍により幸村が三つを数えた時に惨殺せしめられた。
しかも――幼き幸村の目の前で。
人は余りに受け入れられぬ出来事は、己の精神が崩壊せぬよう忘れてしまうのだという。幼子であれば尚更だ。佐助は思い出した。あの夜の他、幸村はその事を二度と口にしなかった。
その事に思い至ったときの佐助の心情たるや、佐助自身ですら御しきれぬ激しい感情で嵐の様に荒れ狂っていた。
忍として感情を殺す訓練をし続けた佐助が、喪ったと思っていた激情に驚いたのは佐助の方であった。
険しい顔をした佐助に気付いていないのか、勝手に小屋に入り込んだ幸村は己の能力で古ぼけた囲炉裏に火を起こすと、薪をくべた。
「佐助、弁当だ!」
「あ、うん」
慌ててへらりと笑い、振り分け荷物から山ほどの握り飯と沢庵、梅干しを取り出した。
「はい、お結びとお焼きね。でも団子ご飯のあとだよ」
「うむ!お焼きもあるのか!でかしたぞ佐助!」
「折角だからねえ、厨に野沢菜もあったしさ。ご飯食べたら早くでよう」
幸村は頷いて佐助の差し出した手拭いで手を拭うと高菜の巻かれた握り飯と鮭の握り飯を両手に掴むと、行儀もあったものではなく頬張った。頬が両方膨らみ、栗鼠のような姿になった幸村を佐助は苦笑いでたしなめる。
二刻も駆け通しの幸村は、あっという間に、山と積まれた握り飯を胃袋に納める。佐助も二三個握り飯を頬張り、さっさと此処を出ようと立ち上がった時であった。突然ふわりと胸の奥から眠気が吹き上がる。気付けば幸村はすでにこっくり船を漕いでいた。
ねんねしなされ
ねた子がかわい
ねんねせん子に
ねんねせん子に縞のべべ
縞のべべ着てどこ行かりょかな……──
何処かから耳に馴染む音律で、柔かな女の声が懐かしい子守唄を歌う。佐助が弁丸に唄ってやった子守唄とよく似た唄。その声が佐助を抗えぬ眠りに誘った。

 

あどけなく幼い顔の何処かよく知る面立ちの幼子が敷布から飛び起きて、回りを見回した。そして母が見えぬことに泣き出しそうな顔で母を呼ぶ。
「かあさまあっ」
驚いたことに、すぐ側の囲炉裏の端にいた佐助の姿は幼子には見えていないようだった。 粗末なおくるみに身を包んだその幼子は、赤子に毛が生えたぐらいの歳だが、明るい茶の髪と黒目がちの鈴を張ったような瞳に佐助はどこか既視感を覚えた。
「旦那……?」
唖然としていると、まだ頼りなくよちよちと歩く幼子が板間から土間へ滑り降りた。
「かあさま、どこ?」
佐助は思わず、大きな黒瞳を潤ませる幼子に手を伸ばそうとした。しかし、その手は幼子に触れる事なくすり抜ける。
その事から佐助はこの光景が『現実ではない』と理解した。佐助はまろうどであった。佐助はこの光景に干渉できず、逆もまた然り。
言わば芝居の観客に過ぎないのだ。
「かあさまぁ、どこなの……?」
あどけない表情できょろきょろと幼子は小屋の中を見回した。桐の花が雪のように玄関の外で散っていた。
そして佐助は当初の驚愕が去ると、幼子の幼い口調に気づいて目を見張った。
佐助が『彼』と出会ったとき、彼は既に一端の『武家の子』だった。
だが今はどうだ。 申し訳程度に『かあさま』と呼ぶものの、その他は丸きり下々の百姓の口調で甘えた声を出すこの幼子は、どこにでもいる甘えたい盛りの幼子であった。
佐助は、自分が受けている衝撃の真髄が理解出来なかった。幻滅などではない、もっと遥かに深い衝撃である。 それは、主の奪われたものの大きさに震撼し戦く心であった。
愕然とする佐助に影がかかる。
気づけば戸の外に魚籠一杯に魚を捕えた若い女が立っていた。背負子には野菜が盛られている。
「弁天丸、起きちゃったの」
「かあさまっ!」
若い女は飛び付いてきた幼子を軽々と片手に抱き締めた。 継ぎの入った小袖を着ているものの、若い女は幼子とよく似た鈴の張ったような瞳と明るい茶色の髪をした佳人であった。弁天丸、と呼ばれた幼子は嬉しそうに破顔して母の胸に飛び込んだ。弁天丸――幸村の幼名である弁丸に通じる音だ。
更に、その光景は佐助に再び深い衝撃を与える。――今にして思えば、母に甘える彼など見たことがなかった。 若い母は、弁天丸を抱き締めて、柔かな頬に額を擦り寄せた。
「弁、弁天丸」
「かあさま?」
「大きくなったね……弁」
「まだ、もっともっと大きくなるの!べんはかあさまをまもるんだから!」
「うん、弁が大きくなるまで、それまでは母様に守らせてね」
母は肩口に息子を抱き寄せ立ち上がり、手の荷物を置いて戸の外を振り返る。
何も知らぬ幼子は母に抱かれる心地好さにきゃらきゃらと底抜けに明るい笑い声をあげていた。
佐助はその母の顔にぞくりとかけ上がるものを押さえられなかった。
息子を抱く手と裏腹の、凍てつく鋭い殺気を孕んだ瞳。闇色の忍の目付きは、我が子の肩越しに木立の向こうを見据えている。 その木立に複数の影を認めて佐助は三度目を見開いた。
ならば、まさか、この日が。
「弁天丸」
「かあさま、どうしたの?」
「母様はずっと――弁天丸の事が大好きよ」
きょとんとしている弁天丸をそっと土間に戻し、きつく抱擁を送る。そして、玄関の扉を後ろ手に閉め、懐からクナイを抜くと、颯爽と扉の前に仁王立った。 佐助は、――止せ、待ってくれ、あの人を一人にしないでくれ――と手を伸ばす。土間に一人取り残された弁天丸は、ことりと首を傾げていた。
更に何かを叫ぼうとした途端、その景色が遠くなっていく。佐助が瞬きをして目を開けば、先程の桐の植わった家はなく、闇の中で上下左右なく佇んでいた。
驚く佐助の前から、幼子が駆けてくる。その幼子は立ち止まると佐助を見上げた。その瞳にあどけなさはなく、佐助のよく知る成長した青年のものだった。
「だ、旦那?」
「佐助。俺はずっとお前に知ってもらいたかったのやもしれぬ。俺自身過去に沈めた真実を」
幼子の姿でありながら、今の口調で幸村は苦笑した。
「ありがとう、佐助」
そして、今度は佐助の目の前を通りすぎて駆け抜けて、腰を屈めて待つ母の元へ飛び付いた。
それを見る佐助の心は酷く穏やかで、しかし今にも涙が出そうにもなっていた。 母の胸に抱かれる幸村に、母は優しい子守唄を歌う。
忍の郷の子守唄を。

 

 ぱちんと薪の罅る音で佐助は目を覚ました。雨の音も止み、静寂の中で清涼な空気が漂っていた。側の気配に慌てて振り返ると、肩に掛かっていた羽織が落ち、囲炉裏端でいつになく静かに薪を弄っていた幸村が顔を上げた。
「起きたか、佐助」
「え、嘘。俺様まさか、寝てた!?」
「近日、任務が立て込んでおったからな。疲れがでたのだろう。俺とお前しか居らぬのだ、気に病むな」
「だからって、遠駆けで忍が主差し置いて寝るなんて……俺様に限ってそんなこと……それに、あんな夢――」
「夢?」
幸村のきょとんとした顔に、佐助は慌てて口を閉ざした。 生々しい夢の感覚は、佐助の実感に残っていたが、笑い話としてもそれを幸村に話すことを佐助は躊躇った。
佐助の様子をどう思ったのか、幸村は膝を叩き、そう言えば、と相好を崩した。
「夢と言えば、俺もいい夢をみた!」
「えっ?」
「覚えておらぬがな、良い夢だった。長く離れた故郷に戻ったような……懐かしく暖かな夢だったぞ。佐助」
幸村は目を細めて笑みを深めた。 佐助は、幸村にかける言葉を捜すことが出来なかった。
何と謂えば良いのか解らぬ、あくまでも夢の話である。幸村は何も覚えていないと言うが――幸村の見た夢は。
「旦那。また、来よう」
「うむ。そうだな。また来ようぞ」
佐助の何とか絞り出した言葉に、幸村は明るく笑って頷いた。
それは戦乱の続く世界の束の間の春の日。
戦国は否応無く彼らを飲み込み、あまたの武将を天下分け目へ集わせた。