神喰いの国 ―青山公と赤き虎―

 

――生きたいか。
 
 早霧霞む青山、禁足の霊峰青峰山脈。
 かの清浄な空気は邪気を払い、その山には国守五柱の神のうち、生命を慈しむ最も慈悲深き神が坐すという。
 決して入ってはならないときつく言われていた火神がこの山について知るのはそれだけだった。人を喰らう妖を狩り立てて踏み込んでみて、その理由が肌に染みる。余りに清らかな山の雰囲気は、人が手前勝手に踏み込むことを躊躇わせる繊細な風格があった。
 こうして、闘いに敗れて血で山を穢し、さらには死の穢をさえ持ち込まんとすることが、無念に思えるほどに。
 しかし、しとどに濡れた苔生す深山を流れる滝壺の岸で、火神は静かな選別の声を聞いた。
 どうどうと滝の音が響き、木の葉が風にざわめいている。それにも関わらず、その声ははっきりと自分の耳の奥に届いた。低く居丈高で静かな声は、確かに火神に選択を持ちかけていた。どこか懐かしい響きを孕む声に、火神は意識をふっと持ち上げた。
 生か死か、どちらかを選べと持ちかけるなど、まるで神のようではないか。
 重たい瞼を、万力の力を使うような気分で持ち上げる。薄暗がりから脱した視界は、白い玉砂利の岸と自分の流した赤い血、濃緑の森影を認める。そして、頭上の方に美しい青絹の長袍と黒い沓が焦点が合わぬながらにぼんやりと見えた。
 先ほどの不遜な問いを自分にかけたのは頭上の存在に間違いなかった。
 動けぬまま体の隅々を確かめれば、しとどに塗れた重い衣服は己の体の熱を奪っていた。清らな霞の中に血煙が立って生々しい鉄の臭いが、微かに鼻を付く。最早一寸たりとも指先は動かず、ただ血の気が引くように体の先から冷たく痺れていった。
 漸く死への実感がひしひしと迫り、胸が塞がる。
 頭上の存在は、再び問うことはなく、火神の返事をただ待っているようだった。
 夜明け前の夜のような不思議な揺らめきをもった藍色の目が、深く火神を探る。こちらを値踏みするような高慢な視線に、火神は持ち前の負けん気でぎろりと見返す。藍色の目は愉快そうに細まった。
 気力が刹那に蘇り、火神は男に吐き捨てた。
 妙にすっきりとした気分で、火神は意識を放り捨てる。
――生きたいか。
 と、高慢に居丈高に問うその声こそが、まるで祈りめいて聞こえたことだけが意識の遠く消えゆく火神の最後の疑問だった。
ふっつりと途切れた意識の何処かで、優しく頭を撫でる手を感じたような気がした。ふわりと浮かび上がるような心地に、懐かしい匂いが火神を安らかな眠りに誘った。

 

「おお、起きたか。もう目ェ覚まさへんかと思ったわ」
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井が遠くで白木の木目を晒していた。まだ半分寝ているような頭のままで視線を天井からそらせば、几帳の裏から黒髪の男が顔を出した。
「あんたは……」
「人に名前聞くんやったら、先名乗り」

 
 それは火神が初めて見た焦りの表情だった。ぎらぎらと目は弓をつがえる妖を睨みつけているが、脂汗は額に滲んでいる。足は半歩退がり、肩はひどく強張っている。
 その視線は、妖の番える箆は丹塗りで白羽の矢羽が付いた矢から外れない。
「本当に――青山公には丹塗りに白羽の矢が弱点なんだな」
「どこでそれを知った?」
 血の気の引いた唇で、青峰は妖に問い質す。妖は人の三倍はあろう舌をだらりと下げて、厭らしく口角を吊り上げた。
「名前は知らん。だが、神にも弱点があると唆された。それは確かに事実だった。お前を射殺し、この俺が神喰いの力を得る!」
 きりきりと弓が引き絞られる。
「猟妖師などに神喰いが遅れを取るものか!これで人が食い放題だ!」
 妖の高らかな哄笑に、火神の頭に血が上った。矢を向けられている青峰も、苦々しげに妖を睨んでいる。
「生かしてくれて有難うよ、慈悲深き青山公。そのまま、俺の餌になってくれ」
 火神が聞いていられたのはそこまでだった。
 妖のつがえた矢が青峰の心ノ臓を定めて放たれる。青峰は苦しげに身をよじって避けようとするが、体の方が言うことを聞いていないような有様だった。丹塗りの箆に白羽の矢羽が紅と白の軌跡を描く。確信した勝利に歓喜する妖の下卑た笑い顔。
 それら全てを視界に収め、火神は腰に佩いた刀を鞘走らせた。

 

未完