「だいきー!」
軽やかな幼子の声が桐皇大社の深奥にこだまする。
幼子の名は大我。止むに止まれぬ事情によって桐皇大社の庇護を受ける、まだ齢六つの童男であった。
黒檀の黒々とした社は静謐に静まりかえり、冷涼とした空気が社を包み込んでいる。そのような荘厳な濡れ縁をぺたぺたと歩く5、6歳ほどの幼子は、つややかな赤絹の水干姿で何かをきょろきょろと探している。その瞳はぱっちりと丸く、黒々と輝いていた。短く整えた髪も艶やかに黒く、つんつんとした手触りを想像させる。整った顔立ちをした愛らしい童男に、蔀の中の少女が顔を上げる。
「たっくん、どうしたの?」
濡れ縁の角から顔を出したのは、桃色の長い髪をした、この世のものとは思えぬほどの美貌を柔らかに綻ばせた年若い娘だった。
「さつき!」
呼ばれた童男は白く小さな歯を見せて屈託無く彼女に駆け寄った。豊満な胸で大我を抱きとめた娘――さつきは、そのつんつんとした髪を撫でる感触を楽しむ。
「なあ、今だいきとかくれんぼしてるんだ。どこにいるか知らねぇか?」
「大ちゃんと? うーん、そういえばさっきから見てないなあ」
「そうかあ。だいきをみつけたら、とっておきのおやつをやるって約束してるんだぜ」
「ああ、むっくんが持ってきてたおやつ!」
童男はこくこくと頷く。むっくんと親しげに呼ばれてはいるが、彼こそは国の五つ柱の一柱にして、青峯山脈と格を同じくする国の最高峰たる紫峯の総鎮守、陽泉神社の主神そのものである。
無論、桐皇大社の深奥に坐す娘もまた、桐皇大社に祀られた女神であった。そして、大我の探す『大輝』こそが、桐皇大社の主神にして、国の五つ柱の一つ、慈悲深き青山公である。
さつきは逡巡した後、屈託無い笑顔で庭の奥を指差した。
「あ、そうだ。もしかしたら泉の方にいってるかも。あそこは岩ばっかりで隠れやすいの」
さつきの指差す方には、黒黒とした飛び石がしっとりと濡れた苔の海を割り開いて続いている。飛び石の奥に目を凝らすと、遠くに青空と見まごうほど青い何かが風にかすかに揺れ動いている。
「あおい?」
ぽつりと呟くとさつきは少し目を見張って、すぐに柔らかく表情を和ませた。
「たっくん、目が良いんだねえ。ふふ、そっか……、たっくんがウチに来てから、もう一年が経つんだね……」
さつきの桃色の瞳が、ふっと悲しげに揺れたように見えて、大我は慌ててさつきの手を握る力を強めた。
「どうしたんだ、さつき? なにか悲しいことがあるのか?」
「んーん、なんでもないよ。ほら、多分あの青いところで大ちゃん待ってると思うな。おやつ持ってるのも大ちゃんだよ!」
「おやつ!」
大我ははっと我に返って、縁側を飛び出した。素足で飛び石を、言葉通り飛び跳ねていく。その背を見つめ、さつきは長い髪に触れた。伏せた瞳は幾ばくかの愁いを孕み、そして慈愛を多分に含んでいた。
「一年……か。早いなあ……、本当に……」
転がり落ちる水晶のような微かな声は、静謐な社に吸い込まれて何処にも進まない。時の止まったようなこの神域で、人の子が生きる意味を考えねばならなかった。
「だいきー!!」
飛び石を跳ね飛んで木立を抜ければ、途端に開けた視界に大我は目を白黒させた。
庭に自然を繋げたように、大河の目の前には大きな岩に囲まれた淵がある。その奥には鬱蒼と茂る太古の森が広がっていた。そして何より、その淵の周りには空よりも青い花が木漏れ日のようにぽつぽつと綻んでいる。あまりに鮮やかで美しい花に大我はぼうっとそれに見惚れた。
――このはな、どこかでみたことが……。
ふとそんな考えが脳裏を過ぎり、大我は小さな顎を振って気を取り直した。それは本能に近い忌避であったことに、大我自身気が付いてはいない。
「だーいきー!」
大我は岩場を羚羊のように飛び回って大輝――青山公の姿を探す。
透き通って底深くまで見通せる淵の底を覗き込んでいた時だった。大我を一飲みにできそうな大きな魚に驚いた大我はつるりと足を踏み外した。
苔生し、霧深い山の奥であったことも大きな原因であっただろう。
真っ逆さまに淵に落ちそうになった大我は、表情を凍りつかせて離れて行く岩に小さく短い手を伸ばす。思わず喚ばう名は、 自分を守護する神の名であった。
「だいき……っ!」
「大我!」
その小さな手は大きな手に掴まれ、そのまますっぽりと腕に抱きかかえられた。青薄衣を翻し、音もなく大我を抱き留めた青年は、微かな波紋を水面に垂らして水面に着地した。
人より頭二つ高い長身にしなやかに筋肉のついた体躯、浅黒い肌に、藍色の髪と瞳の青年。
「あっぶねえなあ!」
冷や汗をかく青年はため息を吐いた。咄嗟に目を閉じていた大我は、その声と、慣れ親しんだ感覚にぱっと目を開き、青年を認めてくずれるように破顔した。
「だいき! 見つけたぞ!」
「見つけたっつーか……。見つけさせられたっつーか……」
「なんだよ、おーじょうぎわがわるいぜ、だいき! おれのかちだな!」
青年の腕の中で胸を張る童男に、青年は再びため息をついて天を見上げた。そのため息は呆れよりも多くの愛しさのようなものが混じっている。
「かはっ。はいはい、テメェの勝ちだぜ、大我」
大我を抱いたまま水面を闊歩し、青山公は岩場に胡座をかいた。膝の上に大我を乗せたまま、懐を探る。探り当てた二つの饅頭のうち、片方を大我に渡す。今蒸し器から取り出されたばかりのような饅頭に大我は目を輝かせた。
「まんじゅう!」
「詰まらせねえように食えよ」
「ほふ!」
大我が両手で抱えるほどの饅頭を、大輝は片手でかぶりつく。ほんのりと紫色をした餡は甘く、駆け回った大我の舌を喜ばせた。何よりその大きさが大我の貪欲な胃に嬉しい。神域に来て日を追うごとに、大我の食欲は増すばかりだった。
「おれこれすきだ!」
「そーか。花見ンときは紫原に頼んで持ってこさせてやるよ」
「はなみ?」
「おう。あの青い花が満開になったら、花見すンだよ。さつきの舞も見ものだし、黄瀬も踊りにくるぜ。紫原は菓子持ってくるし、赤司は飯もってくるし、緑間は酒持って来るし。テツも来るしな」
「おまつりか?」
「かはっ、そうだな」
足をばたつかせてはしゃぐ大我の黒髪を、大きな掌が鷲掴んで撫で回した。乱暴そうに見えて全く優しく、慈しむようなそれは大我の何よりも好きなものだった。疲れと満腹に加え、あやすように撫でられて、大我はうとうとと微睡む。
「……花見までは、大丈夫だよな……」
そんな小さな青山公のつぶやきは、夢現の間に紛れて大我に届くことはなかった。
それからすぐに、大我は全ての記憶を失って桐皇大社を追放される。
火が消えたような社の奥に、もう童男の声はしない。
了