──今まで一番悩んだことは何かと言われれば、夏の日を思い出す。
両親が居なくなって──まだ物心もついていない妹と、死を理解するには幼い弟と、高校に通っていた自分を置いて──どう生きていくのかを。
ぽっかりとあいた喪失の空白と驚愕と恐怖と哀しみと見当違いの責任感と愛と夢と、ありとあらゆる混沌とした感情を鯨幕にくるんで抱え込んで、ヒヨシは立ちすくんでいた。
火葬場の空は青く澄み切って入道雲が美しく立ち上がり、白々と輝いていた。
弟妹は曲がりなりにも周りの異様な気配に気がついていたのだろう。息を潜めるようにおとなしくしていた。
なあヒヨシちゃん、二人を預かっとこか。
幾人もの親戚筋だかなんだかの幾人かが心からの親切でヒヨシに尋ねた。
入れ替わり立ち替わり誰かが来た家で、弟妹はいつにもましておとなしかったので、大丈夫だと踏んだのかもしれなかった。まだ高校生だったヒヨシをおもんぱかったのかもしれなかった。今になっては分からない。口々に掛けられる弔問にてんてこ舞いしているうちに聞こえてきた言葉に、ヒヨシは混乱した。
お前も今は落ち着かにゃあでよ。何、しばらくの間だがや。
うちでも良えよ。急なことでかわいそうじゃ。
ヒマリちゃん、今夜はおばちゃんとこ来やあね。
年上の誰かがヒヨシの肩をねぎらい、ヒマリを抱き上げる。ヒマリは人見知りだから、勝手に抱き上げてほしくなかった。
「待って、待ってくれ。頼む、待って」
枯れた声で悲鳴を上げた。咄嗟に弟を抱えて妹抱き上げる腕に縋った。
悲鳴のようだった。弟の青い目がヒヨシを見上げ、ヒヨシの学ランの裾を握りしめた。
「っ、待ってください」
大人たちは顔を見合わせてヒヨシの頭を撫でる。これほど自分の身長を恨んだことはなかった。ヒヨシが何を言っても、この人たちには幼子のわがままになってしまう。
それでも、このまま二人を連れていかせたくはなかった。一つ屋根の下で家族として暮らしていくことが出来なくなる予感だけがひしひしと背を凍てつかせる。
「すまん、おっちゃんらが急じゃったな。でも、高校生でこんな小さい子二人ともは無理だでよ……」
「ヒヨシちゃんも自分の生活を犠牲にするわけにもいかにゃあがね」
「まあまあ、昨日の今日だがね。考える時間を作ってあげんとかんが。もうお開きしよまい」
誰かが口を挟み、それもそうだと誰も彼もが帰っていく。
それに幾度も頭を下げながら見送って、選考と焼香のにおいが充満する部屋ががらんとした。
ぐしゃりと床に崩れ落ちるようにしゃがみ込んで、ヒヨシは床を見つめて動けなかった。
自分が今までどうやって立っていたか分からなくなっていた。
「にいちゃん……?」
弟が心配そうな顔でヒヨシの頬を撫でた。この子の声を久しぶりに聞いたような気がした。知らない人ばかりで、慣れない服を着て、どれだけ緊張していただろう。もと気に掛けてやればよかった。
それなのにあまりに優しくて、情けなさからぼろぼろと涙が零れる。
「なかないでよぉ、にいちゃん」
一緒にしゃがみ込んだ弟がヒヨシの膝に抱きついて自分のほうが余程痛そうな顔で泣いている。反対側の膝には声も立てずに鼻をすんすんと鳴らして泣いている妹がいた。小さくて可愛らしい自分の弟妹と離ればなれになる可能性が涙が出るほど憎らしい。
「泣いとらんわ、兄ちゃんは強いんじゃ」
二人を抱え込むように抱き寄せて、太陽のにおいと汗のにおいと、線香の匂いが染みこんでしまった髪のにおいを吸い込んだ。
泣き疲れた弟妹を寝かし付けて、ヒヨシはただただ必死に考えた。
穏やかな寝顔と寝息と赤い目の端、暑苦しい夜の熱気と扇風機の回る音、まだ体中から燻る線香のにおいと、舌の奥に残る涙の塩辛い味。
その夜以上に、ヒヨシは人生で悩んだことはない。
「誰にも相談もできんもんで、困ったわ」
「それはまた、どうして」
「高校も出とらんガキが、親戚に預けずに弟妹養いたいって言い出したら俺でも反対するが。たわけたこと言ってかん、ってな」
「……常識的に考えればそうかもしれませんが」
「じゃろ。それを言われたくにゃあで。でも、俺に子ども二人きちんと育てられる自信なんてもんはにゃあ。親戚に預かってもーて、たまに顔を見に行くんがええのんは俺もわかっとった」
ドラルクは穏やかに頷き、彼の透明になったグラスに赤いワインを注いだ。ヒヨシは礼を言ってグラスを乾かす。
「あなたの中ではもう答えは出てたと」
ヒヨシは弟よりも大きく丸い目を細めてドラルクに微笑んだ。気が抜けて微笑んだ表情はドラルクの同居人とよく似ていた。この男のかいなに包まれて育ったのだろうということが分かる。
ドラルクは彼に合わせてワインを乾かした。
飲ませすぎていることは分かっていたが、彼がこの酔いを求めていることもわかっていた。
酒精で緩めた口からしか出せぬ言葉というものが人間にはたくさんあることを、ドラルクはこの短い暮らしの中で学んでいた。
「俺は一人で生きていけるんじゃ。一人じゃったら、たぶんどこでも、何してでも生きていける。プロのヒモにでもプロの詐欺師にでも、非合法の退治人でもなんでも」
「プロの詐欺師は似合いそうですな。隊長さんはお口が上手い」
「お前には負けるわ」
「吸血鬼の素質もありそうだ」
「それはちょっと思っとる」
きっとこの男は吸血鬼とよく似ている。似ているからこそ、伝説的な退治人になれたのかもしれなかった。楽しいことが好きで、人が好きで、享楽的で、美しいものが好きだ。
「でもな。俺は一人でなーんも考えず、気楽に過ごす人生よりも、小学校のぞうきん縫ったり、父兄参観に緊張して並んだり、三者面談で怒られたり、遠足の弁当作ったり、あいつらのただいまとおかえりを聞いたこの人生を選んだんじゃ」
そしてそういうものをすべて吹っ飛ばしてかまわないほどに、自分の家族を愛している。真祖が血族を愛するように、父母が己を愛するように。ジョンがドラルクを、ドラルクがジョンを愛するように。
その思いになんら差異はなく、ドラルクは自分よりも遙かに若い青年に心からの賛辞を述べた。
「愛ですね」
ヒヨシは花が満開に開くように笑みを深めた。我が意を得たり、とばかりだった。
「じゃろ」
流石のドラルクにも、この男が三十路の男であることを忘れそうになるほど嬉しげで、幼い。彼の愛が人の器からあふれ出したような顔だった。
写真に撮って売れば、同居人あたりから札束をせしめられそうだとふと思い立って、ついぱしゃりとカメラを向ける。
「……やめんかはずかしい」
「いい顔でしたよ」
「三十路のおじさんを撮ってどうするんじゃ」
「ロナルド君に売ります」
「流石に、買わんじゃろ……。兄貴の顔じゃし……」
ヒヨシは言葉尻の呂律を妖しくさせてべたりとテーブルに突っ伏した。
「一枚一渋沢くらいは大丈夫でしょ、ね、ロナルド君」
ちらちらと覗いていた銀髪を呼べば、目も鼻も真っ赤にした顔が二つと、人間たちにハンカチを差し出しながら自分もべそべそになっているアルマジロが一つ覗く。
「あれ。ヒマリ嬢まで」
「いまの………………寄越しやがれください」
「ください」
ドラルクはジョンを受け止めて、ジャボで涙を拭きながら微笑んで笑った。この一玉の重みも、ロナルドが軽々抱える兄の重みも悩みも人生も、激写した写真に言葉を失って真っ赤になる弟妹の顔も、なにもかもが愛に満ちている。
愛の満ちたかたち 了