「いつからお前は声を殺すようになったかな」
頂上戦争にて破壊されたマリージョア。
既にこの場に充ち満ちていた死の気配は遠く、潮風ばかりがすがすがと砕けた岩盤や、処刑台であった瓦礫の残りを吹き渡っていく。
もう数週間は放置される手はずのからっぽの広場に一人、犬の帽子を深く被った老兵が処刑台の瓦礫の上に腰掛けて、煎餅をかじっていた。
海軍の英雄“拳骨”のガープ。
牽制も兼ねた東の海遠征から彼が戻ってきたと聞き、センゴクは積み上がった書類を一時置いて仮設本部を出てきた。
結果、それは正解だったらしい。
「ガープ」
正義を背負うコートを脱ぎ、横に置いたまま、声をかけたセンゴクには目もくれずに視線はただ一点を見つめている。
バリバリと音を立てて煎餅が飲み込まれていく。
ここに来たのがおつるか自分以外なら、この男はさっさと英雄めいた顔で笑って「サボりがバレた」と嘯くだろう。そうして清も濁も合わせて飲み込んで立ち上がり、再び英雄として人を守るだろう。
──早く来て良かった。
とセンゴクは思う。
もう年数を数えるのも馬鹿らしくなるくらいの長い付き合いだ。昔は互いに声を上げて泣いた日もあったように思う。互いにそれを見せなくなったのはいつからだっただろう。センゴクにはもう思い出せない。
「誰も居ないぞ、ガープ」
ガープの前に立てばセンゴクの影がガープに掛かる。潮風に自分のコートが翻って影が増える。
初めて気がついたような顔を作りせずに、ガープは乾ききった笑い声を上げた。
「わはは、海賊が死んだだけじゃろうが」
「そんな顔でいわれてもな」
かたくなに目元を隠したままの帽子を取れば、老兵はセンゴクを見上げてうっそりと目元を細めて笑ってみせた。皺の寄った目元が朱い。誰も見せずにきっと泣いたのだろう。
「わしを笑うかセンゴク」
「いや」
白くなった短い髪をかき混ぜてもう一度帽子をかぶせる。センゴクの行動に一つも文句を付けないガープにもう一度念を押す。
「……いいや」
「そうか」
ばり、と年老いても衰えない頑健な歯が煎餅をかじる。
「あやつらが自分で決めた道だ。──わしも覚悟をした。それだけの話だ」
ガープの視線が再び一点を差す。センゴクも同じ方を向いた。
そこは“火拳”のエースがその命を燃やし尽くした場所だ。
もう雨ざらしになって血の一滴も残っていない。けれど、あのとき咄嗟に押さえつけたガープの張り裂けんばかりに強張った身体から伝わった感情は生々しくセンゴクの手に残っている。見聞色の覇気が一瞬塗りつぶされるような激情。
──エース……!
この男がどれだけ情に篤いか、すこしでも接したことのある海兵はだれもが知っている。
「それでも、おまえも人の親だ。割り切れないことくらいあるだろう」
「ぶわっはっは、お前が優しいと槍が降るわい」
センゴクに孫達の話をするときのやに下がった目元も、弧を描く口もとも、柔らかい声音も、どれだけこの男が孫たちを愛していたか知らしめていた。
十年前に一人を失ったと伝えられた際の嘆きようも、実は生きていたと知ったときの喜びようも、密かに隠した海賊王の遺児が自分を“ジジイ”と呼んだと言う時の嬉しげな様子も、その子が海賊として名を上げてしまったときの顔も、白ひげを親父と呼ぶようになったと知った時のふてくされたようで安堵したような顔も。
センゴクが一番知っている。
おそらくは──彼の孫たちよりも。
バキン、と煎餅が割られる。割られた半分を差し出されて受け取った。
「慣れることはねェが、飲み込みかたはお前に教わったな」
「教えなきゃよかったよ」
センゴクは涙が出そうなほどに塩辛い煎餅をかみ砕いて呟く。
「塩辛いな」
「ああ。辛いんじゃ」
ガープはくつくつと喉を鳴らして笑い、くしゃりと顔をゆがめて瞬きを繰り返し、溜まっていた涙を小雨のように瓦礫に降らせた。
センゴクの影の中で、英雄が己に許せる最低限だった。
若き日、彼が感情を露わにして地に伏せんばかりに泣いていた日を思い出してセンゴクは小さくため息をついた。あの日のように泣かせてやれればどれほど良いだろう。
だが老いたのだ、互いに。
唐突にそうはっきりと自覚した。
ガープは煎餅をかみ砕いて飲み込み、老いをみじんも感じさせぬ身のこなしで立ち上がり、コートを手に取った。
「じゃが、好きで食うとる」
正義の二文字を翻して羽織り、センゴクの落とした影を出て振り返る。「ありがとうな、センゴク」
一体何を差しているのかセンゴクには分からない。
悲劇の後も世界はつつがなく周り、太陽は素知らぬ様子で眩しい陽光を老兵に注いだ。
「何の話だ」
センゴクはそれだけ答えるとガープの背を追って仮設本部への道を戻る。
まだ仕事は山積みだが、その山で最後になることをセンゴクは予感した。
完