思い出は海の下

 かれこれもう10年乗り続けてきた船だ。あっちこっちガタガタで、文句はいくつも思いつく。
 潜水艦のくせに多分世界で一番やかましいモーターがあったし、塗装の剥がれだって細かく見ればどこそこにあった。ハッチの下のはしご階段は実はいくつか段が外れていたし、いつか機関部で燻製をしたせいでいまでもちょっと香ばしい。
 居住区はそろそろ手狭になってきていたし、リネン庫は工夫しないとケットが全員分入りきらなかった。
 船外のタラップは錆びてそろそろ新調しなければならなかった。タラップの二代目を買ったときの設計図を本棚の奥から引っ張り出していたのはついこの間だ。
 キッチンのコンロは火をつけるのにちょっとしたコツが必要になってきていた。
 潜望鏡はもう古い型で、次に収入があれば新型にしようと検討をつけていた。
 備え付けの冷蔵庫も鍵なんてついていなかったからもめ事の種になっていた。
 船長室にはキャプテンの収集した北の海から偉大なる航路に至るまでのコインケースがあった。時々、思い返すように見返していたのをしっている。
 キッチンにはみんなの食器があった。ジャンバールサイズの食器は大きくて、食器棚を広げたのは二年前だった。
 シャチが捨てるに捨てれずにいたいかがわしいT.Dは実は倉庫の隅に眠っている。
 ペンギンが几帳面につけていた航海日誌の買い置きがないと言っていたのはワノ国への海路の途中だったはずだ。
 医務室のカルテは壁一面に埋まっていて、管理が大変だった。ウニやハクガンが増えるたびに揃え直していた。偉大なる航路のカルテと、北の海のカルテの書き方が違ってミーティングになったのは三年前だっただろうか。
 オペ室の超音波診断装置の新型機を買ったのはついこの間。そこに加わったワノ国の刀鍛冶が作ったいろいろな種類のメス。まだ一度しか試していないままだった。
 それでもその切れ味にもっと買っとけばよかったか、なんて医療班が驚いていたのだって、つい昨日のことだった。
 つい昨日のことだったのに。

 

 ローの体がぐったりと力を失い、それを確認してベポはぐんと水を蹴って浮上した。振り返って目を凝らす。
 もうすでにウィナー島は遠く小さくなっている。黄色い潜水艦は、既にもうどこにも見えない。
「う、うう……」
 漏れそうになる嗚咽を堪え、気を失っているローを背負い直す。鼓動はまだ、ベポの耳に聞こえていた。それでもいつもの鼓動よりずっと弱々しい。
──彼が起きていたらきっと無理矢理にでも島へ戻そうとするだろう。
 敬愛する人にそう命じられてそれを拒否することはベポにとって酷い苦痛だ。だから、先に気を失わせてしまった方が良い。
 あとでどれだけ恨まれたって、憎まれたって覚悟の上だ。嫌われてしまうかもしれなくても構わない。
「死なないで、キャプテン」
 必死に潮をかき分けるベポの心臓もちょっとばかり変な音を立てている。強くなったり、弱くなったりしている。無理を言って同盟相手から譲り受けた月の獅子スーロン化薬は、その強さにふさわしいリスクを伴っていた。
「大丈夫、大丈夫……」
 塩水に涙が混ざって消えていく。だからベポは泣いてなどいない。キャプテンの命を抱えているのだから、ベポはまだ泣くわけにはいかない。
「キャプテン、ローさん……また、思い出たくさん作ろうよ。こんどはさァ……」
 何か言葉を吐かないと、悲しみに呑まれてしまうような気がした。
「ソナーの邪魔しない、静かなモーターでさあ」
 船大工がいくら宥め賺しても、機嫌を損ねたらひどい音を立てたモーターは、まるで少年の癇癪のようで愛嬌がある。文句を一番いうのもベポだったが、嫌いではなかった。
「階段も、全部新しくてさァ」
 二段に一本は抜けていたはしご。体の大きいジャンバールやベポたちにとっては、丁度良い幅になっていたのは二人の秘密だった。もしかしたら皆知っていて直していなかったのかもしれない、と今更思う。
「機関部でもう燻製しないでよ、キャプテン」
 おいしそうな匂いなのに、どこにもない燻製に宿直の機関部詰めの皆が地団駄を踏むのがお決まりだった。ベポだって一緒になって「キャプテンの馬鹿!」とブーイングしたものだ。
「居住区、広くしてさ……」
 狭い居住区。ベポは何の不満もなかった。ガルチュー文化のミンク族だから、みんなにふれあえる距離の狭い居住区がベポは大好きだった。
「次の船はリネン庫、広くしようね……」
 なんとか詰め込める折り方と入れ方を開発したのはシャチだった。廊下に積まれていたケットが全部入ったときにはローが直々にシャチを褒めていた。
「キッチンのコンロも、最新型にして……」
 コツを新入りに伝授するのは、ベポの仕事だった。
 愛おしいふね
 我らの母艦ポーラータング
 航海士であるベポが航路を指し示し続けていた、相棒。
 鉄の艦は海の底へ沈んでいくだろう。たった一隻で、さみしく、海溝に沈み、錆び朽ちていくのだろうか。
 ひゅ、と冷たく胸を刺す痛みに足が引きつりそうになり、ベポはことさらに明るく続けた。
「キャプテンのコインも、集め直そうね、手伝うよ。新世界のコインも、南のも西のも東も」
 声が途切れがちになるのを自覚して、ベポは腹に力を込めた。
「シャチの裏T.Dも処分できたし!」
 波が高くなってきている。
 もうそろそろ、ウィナー島の気候海域を抜け、新世界の海に出る。
「ペンギン、航海日誌また書いてくれるよね。おれあれ読むの好きなんだ」
 肌に感じる新世界の海の気配に、ベポはようよう口を閉じた。
「……大丈夫、キャプテン。おれを信じて」
 背に負うローの鼓動が止まっていないことを確認して、ベポは大きく息を吸い込んだ。
「おれはミンク族で、ペンギンとシャチから泳ぎをたたき込まれた、極寒港育ちのシロクマで、ハートの海賊団の航海士だから」
 艦が失われても、道に迷っても正しい航路を示すのが航海士だ。

 今示すべきなのは生きる道だった。

 キャプテンを、ハートの海賊団の心臓を生かす航路をベポならば見つけられると、信じられてここにいる。
「──だから、死なないでキャプテン」
 ベポは泳ぎを止めずにひと息に新世界の海へと飛び出した。
 潮水にまざって涙が融けていく。だから、ベポは泣いてなどいなかったのだ。