必死の制止は届かなかった。いつもは一瞬でも立ち止まってくれ、振り返ってくれていた兄は、ロシナンテの一番の願いを聞き届けはしなかった。もう二度と兄には自分の声が届かないのだと思った。
兄の引き金はあっけなく引かれる。久しぶりに窶れきった顔に笑みを浮かべた父は、その笑みのまま事切れた。
悲鳴を上げたまま見上げていた自分に降り注ぐ赤い雨。あの日の血のにおいと味をロシナンテが忘れたことはない。口に入ったものが何かを理解して悲鳴が途切れ、もう立っていられなかった。嘔吐するには腹に何も入っていなかった。
兄がいつの間にか手に入れていた不思議な力で、事切れた父の首を切り取ろうと血だまりに足を踏み込む。母が刺繍に使っていたような細い蜘蛛の糸のようなもので、膝をついた形のままの父の首をぐるりと巻いて絞めた。ぶつんと皮膚が裂ける音と、筋繊維が千切れていく音。
骨に引っかかってうまくいかなかったのか、兄は父の背を足で押してぐっと力を込めた。父の体がロシナンテの横にばったりと倒れる。目を閉じることもできなかったロシナンテの視界に切り取られた首の断面が目に焼き付いた。ごとん、と重たい音を立ててあばら屋に父の首が転がった。
ロシナンテや兄と同じ色をした父の豊かな髪を兄がひっつかんで持ち上げる。頬に垂れた父の血を鬱陶しそうに袖で拭う。
その兄は鬼の顔をしていた。
細い肩で荒い息をして、憎悪と嫌悪にぬりたくられて真っ黒に翳っていた。もう、ロシナンテの兄ではなかった。
それでも彼の口がゆっくりと笑みを象るのを、涙でゆがんだ視界の中でロシナンテは呆然と見上げていた。
「これで神に戻れるえ」
「流石だドフィ」
いつのまにかあばら屋の前に少年が立って、兄を賞賛していた。最近兄とよく連れ立っているヴェルゴというギャングの下っ端だった。
父の首を下げた彼がその声に笑みを深める。
「ドフィ、急ごう。馬車が出る」
「……馬車なんかで行くのか?」
「ああ。馬車で行んじゃなかった。船だ」
「フッフッ、だろう?」
どうして、まるでいつものように笑っていられるのだろう。どうして、軽口を叩いていられるのだろう。
当然のように愛していた兄が、まるで知らぬ人間のように見える。
父の体の傍ら、血だまりの中で呆然とへたりこんでいるロシナンテを、そこで漸く兄は視界に入れる気になったらしかった。
「何してるえ、ロシー」
父の首をその手に荷物のように提げて、彼があばら屋を足早に出る。その足取りは軽い。その背を、昨日までのように追うことは最早できなかった。
「ロシー?」
兄は動けぬロシナンテを怪訝そうに首を傾げた。ひっくり返ったロシナンテの手を、軽い悪態をつきながら引くときと同じ顔で。
その瞬間に、ロシナンテは全部わかってしまった。
ロシナンテの兄はいなくなってしまった。
しっかりもののドフィは、いつもロシナンテを導いてくれた兄はもう、どこにもいない。
ああ、こんなことになるのなら、あの日に死ぬべきだった。父上も、自分もあの炎の夜に死んでしまえばよかったのだ。
「ロシー、どうした」
「ドフィ、急ごう」
ヴェルゴが一瞬ロシナンテをぞっとするほど冷たい目で見下し、兄を急かした。
「ああ。ロシー、早く港に来るえ」
ヴェルゴに促されて兄はゴミ山の中を去って行く。
ロシナンテは、兄の視線が外れた瞬間に、反対側の扉を飛び出した。
ぬめる血で幾度も地面を転びながら、必死に彼から逃げ出した
「ドジ! そっちじゃないえ!」
「ドフィ。あいつならなんとでもなる。また迎えに来ればいい」
背後で自分を追いかける声とそれを止める声が聞こえた気がした。ヴェルゴがドフラミンゴを止める声に安堵しながらごみ山の中を走る。
泥水の中に足を滑らせて、いつも自分たちに乱暴をする人間たちに石を投げられる。いつものように殴られて罵られ、ごみのように放り出され、それでも這いつくばるように駆けた。
いつの間にか日が暮れて、夜が来て、ロシナンテは満身創痍だった。
一面真っ黒の世界が眼前に広がる。ごみ山の端から見えるのは、ロシナンテの世界の終わりだった。小さな月は遠く、それでも波間を白く照らしている。
かつて家族と見た初めての海はこんな色をしていただろうか。髪をなぶる潮風は物珍しく、父母はおっとりと笑っていた。兄はつまらなそうに口をとがらせていたが、それでも広い海と大きな船を見て少し驚いていた。青々と揺れて広く、未知に充ちた美しい海。
今は見る影もなく恐怖と絶望と孤独に塗りつぶされて真っ黒だ。
走り通したロシナンテの足が限界を迎えて崖っぷちに崩れ落ちる。横たわった視界に見える黒い海が涙でぼやけていく。
ロシナンテはもう世界でひとりぼっちだ。母も、父も、兄ももういない。
そこに思い至って、必死に噛み殺していた嗚咽は、とうとうこらえきれなくなる。
ロシナンテはもうふつりと何かが切れて、大声で泣きじゃくった。
そのままどこをどう歩いたものか、いつの間にか泣きじゃくるロシナンテの肩を掴む男がいた。
また殴られるのかと竦んだロシナンテに、身寄りがあるかと聞かれて反射的に首を振る。その拍子に余計に悲しくなって声が大きくなる。
涙でぼやけた視界の中で、大きな白い男が困った顔をしていた。
「身寄りがないのか……! ──じゃあおれと来るか?」
ロシナンテはもう何もかもがどうでもよくなって頷いた。
いつかどこかから帰ってくるドフラミンゴに会わずに済むのなら奴隷だろうが海賊だろうが、命がなくなろうがどうでもよかった。
白い男に抱えられて、ロシナンテは船に乗った。
その日は運命だった。
その夜に何もかも失った孤児を、ただ優しさで拾った男が海軍本部の海兵でなければロシナンテはとっくのとうにどこかで野垂れ死んでいただろう。
ミニオン島の冷たい雪の降る中。
荒い息を吐きながら、撃鉄を上げて、ドンキホーテ海賊団船長に銃口を向ける。不快そうに眉が寄せられた。
後ろの宝箱の子どもはこの告白にきっと裏切られたと悲しんで怒るだろうけれど、偽りばかりの自分のたった一つの本当を知ってほしかった。
やっと少しなついてくれた愛しい子にこれで嫌われてしまうのは少し惜しいけれど。
ロシナンテはあの日から、どうしたってその背に背負いたいものがある。
「M・C──01746……」
ロシナンテは海賊ではなく、天竜人でもない。
名乗りをあげるならばそう。
「おれは『海兵』だ」
完