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 白石は酒をあおりながら廃寺で広げられた刺青人皮をしげしげと眺めた。
 多少見覚えのある相手のものもあれば、顔も知らない相手もいた。皮になれば面影もあったものではないが、名を聞けば聞き覚えがあるものだった。
 脱獄の常習として顔ばかりは売れていたが、700人近い囚人を全員覚えていたわけではない。そもそも、同房以外の囚人の誰に刺青を彫っていたのかほとんど白石は知らなかった。荷車に乗せられて始めて、ここにいるのが自分と同じ刺青囚人なのだと察したくらいだ。
「あ~これ土井のじいさんのだとよ」
 その中で一等皺くちゃの小さな一枚に見覚えがあったらしい牛山が呟く。
「ああ、あのじいさんか」
 房太郎が笑うでもなく牛山に応じた。
 それにつられて白石も皮を見た。なんとはなしにいずれこの獄の中で死ぬのだろうなと勝手に思っていた、一番の年寄りの皮らしい。
「じいさん、ずいぶん小さくなっちまったなあ」
 生きているときだって吹けば飛ぶようだった小柄な老人は、皮になっても小さい。
 房太郎は牛山に酌をしながら肩にしなだれかかる。
「牛山さん、よく負ぶってやってたよな」
「軽すぎて鍛錬にもならん」
「何度か同房だったけか」
 おう、と牛山が酒を煽った。
 その様子を自分も見たことがあったことを思い出した。 
「賄賂いくらだったの?」
「殴らねえでやっただろ」
 房太郎がげらげらと笑う。
「そりゃあんたと岩息にしかできねェ賄賂だね」
「なんだァ賄賂の話かぁ? 面白いじゃねえの」
 にゅっと顔を出してきた元看守に白石は思わず口元をゆがめて笑った。網走監獄の房の中の話に口を挟んでくる看守そのままの口調だった。
 くら、と視界の端がぼやけていくような気がした。ぎゅうぎゅうに人の寿司詰まった廃寺はまるで雑居房。
 はてさてここは網走監獄だっただろうか。それにしてはずいぶんとぬくい。
「狸じじい」
「たぬきのおっさん」
「穴のぞき!」
「えっもしかしてそれ俺のあだ名あ?」
 緊張感のない元看守の素っ頓狂な声にけらけらと元囚人が声をそろえて嗤う。監獄ならこの話はテッパンだった。ここが監獄ならば、これで一食くらいは抜かれただろう。
 けれどここではあの優しい娘は自分にも飯をだす。だれにでも、分け隔てなく飯を食わせる。
 あれほどに暖かくて、美味い、滋味の深いものがこの世にあるのかと白石はふとしたときにいつでも不思議な気持ちになる。
 ちらりとアシㇼパの様子をみれば、白石たちのいる場所とは二間ほど離れた場所で、同じアイヌの第七師団からの脱走兵ともう一人と何やら話し込んでいるようだった。
 そこにぴったりと忠犬のごとく控えているのは杉元だった。
 ここの話はきっと彼らの耳には入っていないだろう。
「ケツの穴なんて好きで覗いてねェよ! おまえらが隠すからぁ。薬とか刀とかぁ」
「はははっ、なァ白石。誰がうまいんだった?」
「え、ああ──京都の寺本、とあんたかな。下手なのはね、樺戸の山下」
「うそぉ。そいつ知ってるぅ。下手なのお」
「あっははは!!」
 門倉の呆然とした顔に房太郎の品のない爆笑がはじける。牛山も肩を揺らしてにやにやとしている。
「そんなに穴覗かれてんのはおまえくらいだよ」
 門倉が肩をすくめた。
「でもさァ下手なやつに穴のぞかれてると、そいつが女抱くときクソ下手だろうなァって思わねェ?」
「紳士じゃねェやつはわかるな」
 牛山の同意に白石と房太郎と、門倉まで吹き出す。牛山とて囚人、なんだかんだで腹の底まで探られているのには違いない。
 門倉まで興が乗ったのか指を立てる。
「それでいったら、若山の親分は慣れてたんじゃねェかなぁ」
「姫な」
「姫だよなァ」
「……えっそんな有名だったの?」
 牛山と房太郎が顔を見合わせてしみじみとうなずく。
「白石は顔合わせたことなかったっけか。同房になるとうるせェぞ……」
「シコるときに姫姫ってよォ、うるさくてかなわねえ」
「純愛じゃん……」
 一瞬感動しかけるが、門倉が首を振る。
「いや、普通に若えのとか新入りとか陰で犯してたろ。知ってんだよ」
「怖ァ……、同房じゃなくてよかったァ。俺かわいいから犯されちまう」
「あ~~……」
「なに!?」
 牛山と房太郎が顔を見合わせて悲しげな顔をする。二人の視線が自分のケツに向いて、ぞわっと震える。
「……あいつもそれなりに選ぶだろ。多分」
「俺は白石のこと好きだぜ!」
「ひでェ!!」
 おざなりな慰めに泣き真似をする。白々しいので誰にも届いていない。
 雑居房の中で話をしているようなノリになっていく。今回は元看守まで話しに混ざってくるのでどんどんと下世話になっていく。
 房太郎の知っている囚人の余罪。牛山が話半分に聞いていたスリの天才の手口。白石もいくつか話のネタを披露する。
「──それで、あの間抜けその金が見つかったからって、その店の……」
「何の話をしているんだシライシ?」
──その店の親父を殺したせいで足がついて──
「その店でおばんざいがおいしかったんだってさ、アシㇼパちゃん」
 自分でもびっくりするような滑らかな嘘が口から滑り出た。房太郎が目を丸くしているのがみえて、ひどく尻の座りが悪かった。
 いつのまにか話し終わったのか、あぐらの白石の肩からのぞき込むような形でアシㇼパがそこにいた。
「おばんざい? なんだそれはおいしいのか?」
 アシㇼパが首をかしげる。アイヌの娘は明ける間際の夜空の色をした青い目を輝かせて尋ねる。
「おいしいよぉ? 俺も一回くらいしか食べたことないけどね」
「美味いぜ、お嬢。京都の名物だ」
 牛山がさらりと白石の話に乗って、料理の話を続ける。
 首をかしげたアシㇼパが呟く。
「杉元も食べたことあるかな」
「さあ~聞いてみる?」
「うん! 白石はオバンザイつくれるか?」
「どうかな~、にしん蕎麦なら作れるかも」
「蕎麦は私もシサムの町で食べたことあるぞ。白石ぃ~、オバンザイつくれ~!」
「んも~、アシㇼパちゃん眠いでしょ」
「眠くない!」
 おねむの顔をしながら意地を張るアシㇼパに白石はくすくすと笑いながら手を引く。
 下世話な話は聞こえていなかったのだろう。アシㇼパのような少女の耳に入れるようなものではない。
 ひどくほっとしていることに、白石は自ら気がつくことはなかった。

 

「なにあれえ」
 甲斐甲斐しく腰を曲げて少女の手を引く白石を見送って、門倉は小さく驚きの声を上げた。
「お嬢の耳に入れる話じゃねえとでも思ったんだろ。あいつも紳士じゃねえか」
 牛山がうなずきながら酒をさらに煽る。白石が杉元の肩をたたいてアシㇼパを任せ、ついでに料理について尋ねているのが見えた。
「あいつ、あんなやつだったっけか」
 房太郎が首をかしげる。
「看守やってるときァ、いつ脱走するかヒヤヒヤしてたが、檻の外にいた方がいいやつっててなァいるもんだ」
 杉元とアシㇼパに何かをねだられ、白石は刈り上がった頭をこすって困ったように笑う。結局作るか、案内することにでもなったのだろうか。
「ふぅん……、シライシにも出来たってことなのかねえ」
 房太郎がその三人をみて目を細めた。呟いた言葉は酒器の中にこぼれて誰にもとどくことはなかった。

 

※Filotimo:栄誉、誇りある人