迷い狸と鏡の都

 遙か平安時代から人は町に住み、狸は地を這い、天狗は空を駆ける。これは京の全く本当の理で、ひっくり返ることのない明々白々たる事実である。
 だが待て、しばし。
 実のところ、鏡の裏にも京都があると、そう記したものがいる。遙か昔のどこかの狸である。
 遙か昔、一つの家族がぽつねんと暮らしていた寺があったという。そこに住まうのは一体何ものか。
 人なのか鬼なのか、神なのか仏なのか、兎なのか。はたして狸ではなかったことだけは確かである。
 その一家はある日まるごとどこかへ転居した。転居したのは絵の中の都でありその名を鏡都という。
 よって、人は町に住み、狸は地を這い、天狗は空を飛び、鏡の裏にはもう一つ都がある。

 と、いう高山寺あたりの長老狸の話を生真面目に聞いていたのは、ふはふはの毛玉の頃から生真面目を額に書いていたような長兄だけであり、我々弟たちは適当に毛むくじゃらの左耳から右耳に聞き流していた。
 けれどまあ、絵の中に地獄があるのだからそういうこともあるのだろうと思い直す出来事があってしばらく。
 私はすっかり唖然としながら、京都であってどうにも京都ではない都の街路に一匹で佇んでいた。
 私のよく知る京都ではないことは確かである。
 なにしろ八坂神社の前の通りを、巨大なロボットが駆け巡り、そのロボットが追いかけているのはセーラー服を身に纏った年端もいかぬ少女である。勝ち気な大きな目がきらきらと不思議に赤く光っている。彼女はとんとんとほとんど天狗のように屋根の上を兎のように飛び跳ねていた。
 少女の周りで共に屋根の上を走っているもう少し年端のいかぬ少年らしい二人は、私の見たところ人間ではない。狸ではないが、何かの化けたもののようだった。何しろ瞬きをする間に青い犬のような人魂のようなモノになったりならなかったりしている。
 こんな調子なら、京を大いに賑やかしている国籍問わずの観光客が騒がしいのではないかと思えど、どうにも彼らの姿が一向に見当たらない。
 ベビーカーを引いた若い母親があらあらと笑っておいかけっこを見上げている。母は強しと言うべきなのかは一考の余地がある。散歩中の老夫婦が元気やねえと笑っている。
 奇妙奇天烈なロボットと少女の追いかけっこはずんずん遠ざかり、鴨川の方へ消えていく。音も遠ざかって漸く私は兄を振り返った。
「映画の撮影にしては大がかりだな。ロケをしてるなら通行止めになってそうじゃないか? どうする、兄さん。──兄さん?」
 私の言葉には誰の返事もない。
 それに慌てて足下を見渡した。
 先ほどまで久しぶりに京都に帰ってきていた次兄と歩いていたというのに、次兄はどこへいったのか。まさかロボットに踏み潰されてもしていやせぬか。足下を見ても、蛙の緑色の足の一本さえ見当たらなかった。だからといって毛の一筋も見えるわけではない。
 踏み潰されたかわいそうな蛙だか狸だかの居なかったことにほっとして、私はふむ、と呟いた。
 私はすっかり一匹になってしまっていたらしい。
 長兄に言いつけられたおつかいで八坂神社の前偽右衛門である平太郎に届け物をした帰りであった。次兄と酒を酌み交わすのは私の楽しみでもあったので、このまま先斗町へ繰り出そうとしていた矢先のほんのつかの間の話であった。
「店は選んでくれるのだろう、矢三郎?」
「任せておくれよ兄さん。朱硝子もいいが、せっかく兄さんと行くのだし最近できたおすすめの店がだね」
「おいおい矢三郎。前を向かないとぶっつかるよ。俺じゃないんだから」
「おっと」
 次兄に笑いを含んだ柔らかな声で注意され、私は軽やかな身のこなしで目前に迫っていた電信柱を避け、塀の間に身を滑り込ませた。
──しかるに。それが悪かったのではないだろうか。
 まさか己の庭に等しい京でこんなことになろうとは思っていなかった私の落ち度である。
 とはいえ、行く道もあれば戻る道もあろうものである。一度地獄に落ちているものだから、我ながら妙な度胸がついてしまった。
 私は呆然としながら顎をかく。
「一度うちに帰るべきなのだろうか。それとも弁天様を探したらいいのだろうか」

「おいおい、ずいぶん毛深いのが迷い込んでるじゃねえか」
 ぽてぽてと下鴨神社の方面へ歩いていると若い声が背中にかけられ、私はぎょっとして振り返った。ずいぶん古い型の原付を引き連れた有髪の若い、整った顔立ちをした僧侶が花見小路に溶け込むようにそこに居た。手にはビニール袋が提げられている。
 僧侶は確かに私を見て呆れた顔していた。
 私は慌てて居住まいを正して頭を下げる。
「お坊様、つかぬ事を申し上げますが、ここは京都でしょうか?」
「ああ、鏡都きょうとだよ」
「きょうと」
鏡都きょうとであり、境都きょうとであり、お前にとっては凶都きょうとかも」
 言葉遊びをする若い僧侶はどこか次兄のようなひょうひょうとした顔立ちをしているが、怪訝そうな目つきは長兄のような生真面目そうな色をしていた。
 どうも器と中身がちぐはぐな人間で、はたして人間といってもいいものかと迷うものがあった。私をして初めて見る人間に、どぎまぎしているのを察してにやりと口角をあげた。
「ははぁ、お前八坂の狸じゃあないな?」
「は、ご慧眼で」
 私は腹をくくって頭を下げた。
 頭を下げるついでに化けの皮が剥がれていないか確認をしてみたが、どうにもそんな風ではない。いつもの腐れ大学生の化け姿には一筋も毛は見えていなかった。
 私の化け術の問題ではないことにほっとするが、私が狸であることはこの青年はしっかりと確信しているようだった。
「どこの狸だ?」
「私は下鴨矢三郎と申します。下鴨総一郎が三男、下鴨神社が糺の森に住む狸の一匹にございます」
 僧侶は面白いものを見た顔で私を見つめ、頷いて答えた。
「俺は明恵という。つい先頃死に損なった人間で、この鏡都の管理人代理を押しつけられているかわいそうな男さ」
「はあ……」
 都の管理人といわれて思わず脳裏に描くのは決まった時間に吸い込まれては出て行く市役所の役人たちである。狸にはとんと無縁の場所だが、人に分け入って暮らす以上なんとはなしに知っている。
 だが、あそこに居るのは大体がスーツを着込んだ老若男女で、僧形の役人などいただろうか。
「分かってないなァ」
 私が一つ素直に頷くと、明恵と名乗った青年はくつくつと笑って手招いた。原付を引きながら八坂神社の方へ戻っていく。
「おいで」
 その背を追いかけて隣で歩く。
「いったいここはどこなのでしょう」
「分からんでもいいだろう。狸なのだから」
「はあ、明恵様はどうにも狸にお詳しいようで」
「迷ったものを返してやるのも仕事なんだ。ここは人も天狗も迷ってくるが、狸はうちに帰りたがるものが多いからなァ」
「はあ」
「望む人間なら置いといてやるが、望まぬ狸を置いといたところでしょうむない」
 家に帰りたくない狸などいるのかしらん、と考えているのを悟ったように明恵はふ、と笑う。
「矢三郎、お前家族がいるだろう」
「おります」
「狸だものなァ」
「狸も人も天狗も家族はおりましょう。明恵様にもいらっしゃるのでは?」
「ああ。やっかいなもんだ。仏の兄と鬼の姉と、この間、神と仏の間に生まれた妹ができた」
「それはおめでたいことで」
「おめでたいものか。おかげで散々だ。ビシャマルをまた壊したら俺が鞍馬に怒られるのさ」
 明恵青年は肩をすくめるが、その横顔にありありと慕わしさが滲んでいる。
「俺も家に帰れば兄に叱られます。お使い一つも上手にできない阿呆狸だと。この間など、お前は俺を困らせるために生まれてきたのかと言われて大喧嘩をしました」
「兄とはそういうもんかもな」
「どうにも長兄は弟を叱るのが生き甲斐のようで」
「どこも同じだな」
 軽口を叩くと明恵青年は喉の奥で笑う。
 八坂神社の大鳥居をくぐると、やはりどこかいつもの神社とは異なっていた。
 何より、いつでもあふれかえっているカメラを提げた観光客の姿がない。先ほど分かれたばかりの前偽右衛門八坂平太郎の姿もなかった。いるのは都人らしいものばかりである。
 きょろきょろしている私を横目に、明恵青年は神社の屋根に声をかける。
「母さん。いるかい」
 その声に応えてふわりと風が動いた。
 明恵青年の視線の先を私は追って振り仰ぎ、文字通り仰天した。
 美しい着物を着た天女のように美しい女が屋根の上からこちらに重力などないもののように舞い降りていた。少女のようにきらきらとした赤い目は、先ほどのセーラー服を着た少女の目とよく似ている。
 豊かに靡く銀色の髪が夕暮れ時の神社の空に輝き、髪の間に見える黒い耳がふわふわとしていた。玲瓏な玉のような美貌は、明恵青年を見た瞬間にぱっと華やいで大輪の花が咲いたような暖かな笑みとなる。
「薬師丸! まあまあ、来てくれるなんて嬉しいわ!」
「今日うちでメシ食うだろうに」
「早くあえたのが嬉しいのよ」
 美しい母君の愛情表現によるハグを困った顔をしながらもまんざらでもないような顔で受け流した明恵青年は、母君の肩を叩いて私を指さした。
「母さんの方が得意だろう?」
「あら? 迷い込んでしまったのね。狸のぼうや」
 あっという間に看破されたが、もう驚くこともできぬ。
 宝石をはめ込んだような赤い目が私をじっと見つめて慈愛に充ちた微笑みを浮かべた。これは人の目ではないと私ははっきりと悟る。まるで仏像と相対しているような心地になる。これにかかっては、化け姿などあってなきものだろう。
「薬師丸だってできるでしょう? この子はちゃあんと太い毛があちら側に絡まっているもの。それに今一生懸命ひっぱってもらってるわ。ちょっとしたらすぐに帰れるわよ」
「遅れたら兄貴に小言を言われるんだってさ」
「あらあら、仲が良いのねえ」
 人ならざる美貌と、海より深い慈しみ深い眼差しに私は少しばかり心臓をどきどきさせながら頷いた。
 母君はその眼差しを私の後ろに向けた。一体何があるのだろうかと振り返ってみるが、そこにあるのは鳥居の向こうに見える、京都であって京都ではない祇園である。
 しかし、ぱちりと瞬きをした瞬間に見慣れない町並みが陽炎が立っているようにゆらゆらと揺らぐ。
「あなたを一生懸命ひっぱっているのはきっとお兄さんたちね。かわいそうに、泣きそうになってるわ」
 それを聞いて私がそわそわとしてしまったのが分かったのか、母君はくすくすと笑みこぼれて私の頭をなでた。
「大丈夫、ちゃあんと帰れますよ」
「ありがとうございます」
「いいえ、おなじふわふわの毛玉のよしみよ。私、じつは兎なの」
「ああ、そんなような気はしておりました」
 長いふわふわとした黒い耳はやはり兎の耳であったらしい。母君はころころと少女のようにはにかんだ。
「うふふ、私たち兎は跳んで跳ねるのが取り柄だけれど、あなたたち狸はころころと柔らかいのが得意だもの。きっとちゃあんと道を通れるわ」
「ああ、俺がやるとどうしても道がズレちまうからな。母さんがいるときでよかった。狸の身で一月行方不明はつらかろう」
 ぽつりと呟く明恵青年は安堵したようにやはり鳥居の向こうを見つめていた。
 ぽん、と彼の手が私の肩を叩く。
「耳を澄ませて、よく声を聞け」
「はい」
 明恵青年の声に従って耳を澄ます。すると、遠くの方で我が名を呼ぶ声が聞こえる。
「矢三郎、矢三郎!」
 怒ったように声を張り上げているのは長兄である。
「矢三郎ぉ、どこへ行ってしまったんだい。手を繋いでおくんだった」
 半分べそをかいているような声は、次兄である。次兄が泣くような大事はそうそうあるものではない。
「矢三郎兄ちゃあん」
 弟の声からすると、これは本当に泣いている。
 姿は見えぬが、それは確かに聞こえている。
「声が聞こえるか?」
「ええ、兄たちが私を呼んでいるようです。弟がべそをかいております」
「ふふ、素敵なお兄さんたちだわ」
「まっすぐ、その声を目指していくんだ。声が聞こえるならば帰れるだろう。──もう来るんじゃないぞ」
「は、このたびはお世話になりました。ご親切、この下鴨矢三郎決して忘れませぬ」
 私はもうずいぶんと気がせいていたが、今家に帰れるのは彼らの親切のためであることはとっくに気がついていた。
 ここは私の都ではなく、おそらく彼らの都なのだ。
 迷い込んだ狸をわざわざ送り返してくれる親切にありつけたのは本当にありがたいことであったのだろう。
「如意ヶ嶽薬師坊にあまりひねくれるなと伝えてくれ」
「あらあら」
「さあ、振り返らずいけ。狸ならまあ大丈夫だろうが」
 明恵どのの言葉に頭をさげ、兎の母君にも頭を下げて私は一目散に八坂神社の鳥居をくぐり抜けた。
 ぱりん、と薄い硝子を割り抜いたような音がして私はぎゅっと目を閉じ、腹に力を込めてもう一歩進む。

 

 嗅ぎ慣れた街の匂いがして、私は剥がれ落ちそうになる化けの皮を叱咤してぴんと立ち上がった。あの京都にはうっすらと墨の匂いばかりが漂っていていたことに漸く気がつく。
 夕暮れだった街はあっという間に夜がふけ、祇園の街に大きな月が掛かっている。
 まったく、奇妙なこともあるものである。
「戻ってきたか、良かったな」
 振り返ると八坂平太郎がいつものアロハシャツに袖を通してにやにやと笑っていた。
「はあ、戻りました」
「次の祇園祭では明恵上人と古都様によくよくお礼申し上げておくといい」
「ははっ」
「さ、そろそろ矢一郎さんたちのところに行っておあげ。糺ノ森へ帰したが、心配で夜も眠れぬ様子だった」
 古狸に促され、私は駆け出した。
 長くこの都に暮らし、まだまだ私の知らぬめまぐるしく面白いことがある。
 それにわくわくとして、私はしらずに笑っていた。
 面白いことは全く、良きことである。