ひとふり虎徹 中編

「おれを虎徹と間違えた?」
 長曽祢に首根っこをつままれ、自らを金長と名乗った狸はふてくされた様子で長曽祢に頷く。
「殿様の虎徹が外に居ったけん……、ほなけんどなんでまちがえたんかもう分からん」
 狸はふてくされるが、さもありなん。
「殿様の虎徹──蜂須賀家のか」
「ほうじゃ」
──この化け狸の訛りは、四国のものだ。
 おそらく、阿波の狸なのだろう。
 自分は阿波にゆかりはないが、同じ四国の陸奥守のイントネーションと共通点がある。
 その上、金長と言えば、歴史改変が本格化する直前に蜂須賀がわずかに漏らした名前である。
「ほんとうに阿波の金長狸の事だったのか」
 蜂須賀が口に出した金長と言えば、阿波の金長狸なのだろうと事前調査で判明はしていた。
 しかし実際に狸が喋っているのを見ると感心してしまう。
 何しろ、長曽祢の打たれて存在しいきた時代はそろそろ江戸も終わろうかという時期。化けものたちが現れなくなりつつある過渡期であった。長曽祢は噂は聞けど、物の怪のたぐいは見たことがなかった。
 初めて本丸の外で見る物の怪をまじまじと観察していると、狸が怪訝そうな顔をする。
 こほんと空咳して身を揺すって背を伸ばした。防火槽の蓋に乗せてやれば、逃げるでもなく狸が小さなけむくじゃらの胸を張った。
「貴様、刀の憑き物だろう。なんでこんなところでうろうろしてる。はぐれか」
 狸の丸い目を見返して、長曽祢は声を潜めた。
「蜂須賀家の虎徹を探しに来たんだ。あいつの兄──のようなものでな。貴殿は場所をご存じか?」
 随分と表情豊かな狸はきょとんとして、それからしっぽをぴんと張った。
「何じゃ。おまさんもか!」
 狸だからなのか、獣だからなのか、この化け狸というのはどうにも、脳天気で陽気な質らしい。ほんの先ほどまでの警戒心がころっと薄れ、長曽祢の方が面食らった。
「ああ」
「ほなけんど、殿様の虎徹は今、殿様の蔵に居らんのよ……」
「どこに居るのかは知ってるのか?」
「刀の先生んやって殿様のとこのつきもんが教えてくれたんで。わしは狸だから蔵には入れんかったんよ」
 狸の言葉に長曽祢は内心で膝を打った。その男が件の、真贋の目利きも出来ない研究者だろう。もしかすればその周辺に遡行軍が集っている可能性もある。
「……案内してくれないか」
 長曽祢の頼みに、化け狸はしっぽを立てて請け負った。

**

──此処か。
 蜂須賀家別邸とは大きく離れたこぢんまりとした屋敷の一角。それなりに名の知れた研究家なのか、屋敷のなりは立派だった。敷地の端、古い蔵にはしっかりと鍵が掛かっており、天窓からなんとか潜り込む。なるほど、狸には入れぬわけである。
「蜂須賀……」
 狸に案内された土蔵は埃っぽく長曽祢は思わず口元を裾で覆いながら埃を踏みしめるようにして奥に歩を進めた。
 大名家伝来の刀を仕舞う場所ではない。
 つまりは既に、真贋不明とされた蜂須賀が主家から払い下げられているのかもしれぬ。
 自ずと顔が険しくなるのが分かった。
「いないか、はち、蜂須賀家の虎徹の刀は」
 潜めた声を掛ければ化生する程ではない器物の精たちがどよめいた。
──虎徹?
──われらに声をかけたか?
──あの新入りやないか?
 その物の精たちがざわめく先。長曽祢は雑多に積まれた物を掻き分けるように奥に潜る。
 薄暗く湿っぽい、ここに数年いるだけで錆びてしまいそうな長持ちの上に、簡素な刀箱があった。
 そこにぼんやりと後ろを透かす一振りの刀の付喪神つきものが居た。
 刀箱が乗せられている古い長持ちの上で居住まいを正している一振りの刀の憑き物は、明かり取りから差し込むもの悲しく細い明りの中で、煤けて見窄らしく、それでもしゃんと背を伸ばしていた。
 長曽祢は嫌な予感が背筋を冷たく下っていく。
 陰の中で色の見えぬ長い髪が彼の顔を覆っている。
「虎徹、か……」
 彼を呼ぶ自分の声が震えていた。
 油を差し忘れたブリキの玩具のような動きで彼が閉じていた目を開いて驚いたように振り返る。
 彼の紫雲はかき曇り、灰色に煤けている。こちらを向いた揺らめく阿波の海色の瞳さえも、かき曇っている。風前に晒された爛れた蝋燭の火のような姿だが、確かにその面影は蜂須賀虎徹であった。
 その顔は、長曽祢の”弟”の面立ちであった。
 彼はこちらを見て首を傾げる。
「……呼んだか?」
 静かな声で、彼は長曽祢に問いかけた。険の無い表情を向けられてむしろ落ち着かぬ心地になる。
「まるで人のようだけど、刀の憑き物かい?」
 目的であった蜂須賀虎徹を見つけた。
「ああ。おれは刀だ」
 喜んでも良いはずなのに、まったく喜びなどは沸き上がっては来ない。それどころか、ふつふつと重苦しい暗雲が立ちこめて胸を塞いでいく。
「お前は虎徹、だな?」
 長曽祢の尖った声に、彼は首を傾げてくつくつと笑った。その声のなんと寒々しいことか。
わたし﹅﹅﹅が虎徹?」
「そう、だろう」
 虎徹であるはずだ。
 密かに沸き上がってくる恐怖を押し込めながら、長曽祢がその刀に尋ねる。蜂須賀である筈の、その刀は目を眇めて長曽祢に笑みを向けた。
「他の虎徹に会ったことがあるんだね? わたしに似ていた? それともあなたが虎徹?」
 長曽祢は言葉も失い、喉の底で言いたかったことが何もかも蟠って詰まったような息苦しさに喘いだ。
「おれは、長曽祢虎徹、の、贋作だ。……弟、のように思っている相手が、虎徹の真作だ」
 喉の奥からつっかえつっかえ絞り出した長曽祢の応えに、煤けた髪の化生は少しの驚きのあとで、ふわりと微笑んだ。
「贋作の。……ああ、わたしも似たようなものさ」
──ああ。
 長曽祢は背後から貫かれたかのような痛みを伴う衝撃を初めて感じた。握りつぶされそうな心臓の痛みは全身を引きちぎらんとする。
──お前が。
 喚きだしたいような、泣き出したいような衝動のその奥底に、己が”弟”と呼んで引かぬ刀の姿を見る。戦場に紫雲の髪を棚引かせ、己を贋作と呼んで憚らぬ、堂々と輝く刀を、必死に思い出す。芯金には真作の虎徹の誇りを、その上に優しさを巻いて鍛えたかのような一本気の刀は、間違いなく虎徹の真作であった。
 ちがう。と長曽祢は内心でうなりを上げた。
 この刀は偽物ではない。
「……どうかしたかい。大丈夫かい?」
 黙り込み、うずくまった長曽祢を彼はわざわざ長持ちから降り、しゃがみ込んで覗き込む。
「……ああ」
 心から心配を露わにしているその刀は、長曽祢の絞り出した肯定にほっと安堵する。
「良かった。わたしなんかにかかずらった所為で何か良くないことが起こったかと思ったよ」
「……”なんか”じゃない」
「あはは。真贋も判らぬ、二束三文にもならない身だが、こうして話ができるのは嬉しいよ」
 刀はざっくばらんに笑うと、膝を崩して裾をさばき、ぽんと蔵の長持ちに腰を下ろした。
 彼の粗野な振る舞いにぎょっとする。彼はいつも長曽祢の前では蜂須賀家に伝わる虎徹の真作としての振る舞いを忘れたことはなかった。今のように裾がはだけるような所作に長曽祢の方がどうにも見ていられない。
 虎徹が、かの人の憧れた虎徹の真作がこのような筈がない。
「おい」
 思わず諫めるが、彼は意にも介さずに長曽祢に水を向けた。
「あなたは、自分を打った人を覚えている?」
「……源清麿だ」
「源清麿! 四谷正宗と名高い刀工だね。江戸三作じゃないか。通りで立派な姿だよ。あなたの姿も見てみたいな、きっと良く切れそうな刀なのだろうね」
 彼は手を叩いて褒め称える。
 それがひどく腹立たしい。
「だがおれは……、贋作だが、虎徹、なんだ」
「そう」
 彼は感心したように頷き、長曽祢の言葉に噛みつきもしなかった。いつもならば長曽祢がそういえば「お前は贋作だ」とはっきり伝えてくれるというのに。
 その反応に噛みつくように反論する。
「……お前は許せないだろう。お前は真作の虎徹だ!」
 彼は沈黙した。
 長曽祢の視線から逃げるように何も見えぬ蔵の梁のむき出しの天井を向く。
 暫く沈黙が続き、蜂須賀はふ、と口元だけで笑う。長曽祢が見たことの無い、悲しい笑みだった。
「……さあ、どうだろうね。虎徹の真作ならば、贋作を許さないだろうが……」
 天井を見つめる曇り空の瞳が自嘲に濡れている。その目は何を見ているのだろう。薄暗く埃にまみれた梁の奥ではないことは確かだ。
「──は真作、ずっとそう思っていた」
 彼の視線がつかの間長曽祢を向く。
 その瞬間、雲間が晴れたように彼の目が碧く澄んだ。蜂須賀の色だ。虎徹の澄み切った碧の瞳。
 長曽祢はそれに縋るように彼の肩に手を伸ばした。衝動的に彼に怒鳴りつける。
「そうだ! お前は虎徹の真作だ!」
 長曽祢が言いつのれば、彼はふっと力なく笑って肩を竦めた。掴みかけた糸がするりと手の中から消えたような失望が長曽祢にのしかかる。
「……なんてね。もう分からなくなってしまった
。贋作かもしれぬものをお家には置いておけぬと出されてしまった……」
 彼の海色の瞳がまた絶望の曇天に閉ざされる。
 その諦めたような顔に、何かを言いつのろうとした矢先に彼が唐突に手を叩く。
「あなたはどうしてここに? この屋敷の主人に買われたの?」
「いや……この屋敷の主人に用がある人の、刀だ」
「腰にさされている?」
「いや……、そういうわけではない」
 出鼻をくじかれ、咄嗟に言葉を濁すと、彼は嬉しそうに笑う。自分に向けたことのない顔を向ける彼に思わず顔を反らした。蜂須賀は蜂須賀であるはずなのに、もはや全くの別の刀となってしまったようで、長曽祢には何を言えば良いのか分からなかった。
「あなたの主はまだここに用事はある?」
「ああ」
 頷けば、彼はぱっと顔を明るくさせた。
「じゃあまた来てくれないか?」
 長曽祢は一瞬黙り込んだ。
 この刀を一分一秒とてもう見ていたくないという気持ちがふと溢れて言葉になりそうだった。慌てて首を振る。
「あ、ああ。来ても良いのか」
 彼は嬉しげに手を合わせる。
「あなたが暇なら。もう此処から出れなくなってしまった。昔はもう少し外に出かけていたような気がするんだけど。あなたの話を聞かせてくれないか。虎徹の真作の弟がいるんだろう?」
 そこでふと、外で待っている狸を思い出した。
「ああ、だが話を聞くなら良い相手がいる。あんたを訪ねに化け狸が来ている。四代目金長と名乗っていたが」
 金長の名は覚えていたらしく、彼は一瞬表情を強張らせた。しかし、それは見る間に笑顔に隠される。
「……それは懐かしいな。……でもここには来させないでほしい」
「何故」
「だって、こんな姿を友人に見せたくはないよ」
 弱った顔をする彼に、長曽祢は頷くほかなかった。自分も、蔵で埃を被った姿などがあれば他の仲間に見られたくはないと思うのに、この誇り高い刀ならどれほどそうだろうと想像がついたからだ。
 彼は安心したように微笑んだ。
 それで気が抜けたのか、電球が切れるように、彼の姿が明滅する。
「ああ。眠くなってきたな……」
「ではそろそろお暇しよう」
 長曽祢の目にさえ、憑き物の姿が薄れているのがわかった。化生同士で話をする力さえ、彼にはもう少ないのかも知れなかった。
 天窓からの微かな月明かりの下で、細い手首をゆらして彼は立ち去る長曽祢を見送った。長曽祢は俯きがちに彼になんとか笑いかけた。
「……また来る」
 自分が笑えているのかどうか、長曽祢にはさっぱり分からなかった。腹の底に蟠る違和感と不快感。
 握りしめていた拳を開けば、食い込んだ爪の跡がくっきりと残っていた。
 懐を探って通信機を取り出す。
 コールは数秒で、貌を出した浦島に自分でも驚くほど胸が閊えるような気持ちを覚えた。

**

『長曽祢兄ちゃん? 何かあった?』
「蜂須賀を見つけた」
 言葉にして漸くわずかに安堵する。凍り付いたような感情が漸くわずかに穏やかになり、息を吐く。
「真贋不明の虎徹としてな」
『蜂須賀兄ちゃんが……』
 浦島の促しに、長曽祢はなるべく淡々と先ほどの土蔵の中の彼の様子を伝える。
「ああ。……だが、蜂須賀は真作だろう」
『うん。間違いない。蜂須賀兄ちゃんは真作だよ。……でも、贋作にされちゃったんだね……』
──贋作にされる。
 長曽祢は臍をかむような気持ちで拳を握った。
 自分は偽銘を切られた贋作である。その頃の記憶は朧気であるが、源清麿から虎徹にされた贋作である。
 だが──彼らに迫る恐怖は違う。
 本物で有りながら贋作と断じられる恐怖はいかほどのものだろうか。
「浦島……。そちらの蜂須賀の様子は」
『……相変わらずのんびりしてるよ。しばらく忙しかったから良い休憩だよって主さんが』
「そうか……。褪色はどうだ」
 浦島の沈黙が重い。優しい”弟”だと、心から思う。
「言ってくれ」
 促せば、彼は少しの逡巡のあと、はっきりと口にする。
『進行してる』
「こっちの”蜂須賀”と同じように」
『そう……。本丸の蜂須賀兄ちゃんの姿は、その時代の蜂須賀兄ちゃんとリンクしてると思う。どうかな』
 投影された今の蜂須賀の姿は、確かに土蔵の中の蜂須賀と同一だった。色褪せた人形のような姿に言いようのない感覚が一層蟠る。
「だが、完全に改変されたわけじゃない」
 長曽祢の言葉に、画面の中の浦島が力強く頷く。
『もちろん! まだまだ任務はこれからだし!』
 浦島がふと柔らかに微笑む。
 快活なそれではなく、穏やかに笑う時の顔が虎徹はそっくりで、自分はそれが好きだった。
「あ、そうだ金長狸を忘れていた」
『えっ、本当に居たの!? 会えたの!?』
 すっかり蔵のあたりに置き去りにしてきてしまった狸のことを説明すれば、浦島は声をひっくり返して驚いた。
「しまったな、礼も言わねば」
『だねえ……狸って何が好きなんだろう?……あれ?』
 ふと話の途中で浦島が計器に反応する。同時期に浦島の背後から聞き慣れたサイレンが鳴る。反射的に長曽祢は立ち上がった。
『長曽祢兄ちゃん。時空震を観測したよ。場所は蜂須賀兄ちゃんちの別邸! 時間遡行軍の遡行痕!』
「任せておけ」
 浦島の報告を聞くや否やで、長曽祢は宿のガラス窓を飛び出す。煙突を足がかりに温泉街の屋根の上を男が飛ぶ。
 ステッキの先を煙突の上にたたき付ければ、軽快な打音。共に刀剣男士としての長曽祢虎徹の姿が西に傾いた月光に照らされた。

***

 別邸の周りにいたのは一部隊に満たないほどの遡行軍だった。
 驚いたことに別邸の塀より先には潜りこまず、塀の周りをうろうろしている。何かを探しているようだった。
 背後からの奇襲となり、乙種程度の短刀・脇差の偵察部隊であったこともあって朝が来る前にあっさりとかたが着く。
 改変点の遡行軍としては違和感を感じるほどの敵に、長曽祢は腑に落ちぬまま通信機を開いた。
「浦島、殲滅完了。どうやらおれを探していたみたいだな」
『時空震の停止確認。近郊に遡行軍の反応なし。長曽祢兄ちゃん、怪我は?』
「手応えのない敵ばかりでな。全くだ」
『良かったぁ』
 計器を確認していた浦島が、ふと首を傾げる。
「どうした?」
『ん、次元孔ワームホールの規模と、遡行軍の数が合わないね』
 これくらいの規模の残留ゲージ粒子量なら、二部隊は送り込まれてると思うんだけど、と長曽祢にはいくら教え込まれてもよく分からない計器類の違和感を連ねる。まったく頼もしい弟である。
 いくらか出力したデータを見比べていた浦島が眉を下げて通信機に向き直る。
『もしかしたら、まだ潜んでいる部隊がいるかも。気をつけて。俺も見逃さないようにするよ』
「あい分かった。無理はするなよ」
 はーい、と快活な返事と共に通信が切れる。
 刀を鞘に納めれば、自分の装束のテクスチャが張り替えられてツエードのダブルスーツ姿となる。
──捨て駒か。
 浦島は本丸でも指折りの偵察上手だ。
 おそらく先ほどの遡行軍は、この改変点が政府に察知されたかどうかの捨て石として残され、本部隊は別にいる。
 先行調査員として派遣された刀剣男士が対流している事は知られてしまっただろう。
 気を引き締め直していると、ふと足下近くから獣の鳴き声が聞こえた。
──先ほどの遡行軍が探していたあたりの藪だ。
 思わず膝をついて藪の中を覗く。
「金長どの」
 すっかり頭から抜けていたあの小さな化け狸であった。
「だ、大丈夫か」
 恐怖に震える小さな狸を、捨て置くことも出来ずに長曽祢は慌てて小さな狸を抱えた。
「すまん、巻き込まれていたのか」
 泣き声と共にぴすぴすと鼻を鳴らされて、長曽祢は苦笑する。
「大丈夫だ。先ほどの敵は追い払ったぞ。怖かったな、すまない」
「お、怖くおとろしないわ!」
 ふわふわとした頭の毛を撫でてやれば狸がきゃんきゃんと吠える。身を震わせて逆立った毛を整えて丸っこい目でこちらを見上げてくる。
 幾度か咳払いをして落ち着き払った様子を取り繕う。
「なあ、刀の憑き物つきもん、殿様の虎徹には会えたか?」
「ああ。さっきはすまなかったな。……会いに来てくれて嬉しいが、今は会えないと」
 会いたくない、と言われたとこの小さな狸に言うのは憚られて少しばかり言葉を濁す。狸はしょんぼりとヒゲを垂らしたが、それでもすぐに顔を上げた。
「まあ元気ならかんまん」
 姿よりもさっぱりとした様子で狸は鼻を鳴らした。長曽祢が歩き出すと、ちょろちょろと足下を着いてくる。
 どうやら少し懐かれたらしい。
「虎徹はええ刀じゃろう?」
「そうだな」
「殿様は何を考えとるんじゃろうな。あんな良え刀を偽物やなんて」
「殿様がそう言ったのか?」
 思わず横をみると、狸は頷いた。
「殿様の太刀が教えてくれたんやよ。変な気配がするバケモンを殿様の古い太刀らや屋敷の憑き物たちで追い払いよーたら、今度は変な噂が流れるようになったんで。ほいでとうとう殿様が家臣に勧められて刀の先生に下げ渡したんよ。『調べろ、真贋定められねば戻さずとも良い』やって」
「変な噂?」
 はやる気持ちを抑えて狸を促す。
「殿様は目利きが出来んけん、虎徹の偽物をありがたがっとると」
 そういうあけすけな嘲弄が大名の耳にはいることがあるのか、と驚く。一国の殿様に対してずいぶんな言いぐさだ。時代が時代ならば手打ちになるだろうに。
 つまりはそれが許されるのがこの時代のあり方なのかもしれなかった。自分の知らぬ、四民平等の謳われて久しい時代だ。
 しかし、武家にそのような噂が流れるのは屈辱なことだろう。よりもよって一藩の藩主の当主にとってそれは何よりの不名誉になるだろう。
──それ故に、蜂須賀虎徹を真贋鑑定の名目で手放した。
 長曽祢はほっと安堵して口元をわずかに緩めた。
 つまり、そう鑑定した愚か者にきっちりと真贋を極めさせれば良いということだ。
 あの蔵の様子を見れば、そもそもその研究者を名乗る不届き者は鑑定をする気もなかったのだろう。
 黙って考え込んでいる長曽祢の横で狸はぺらぺらと良く回る舌を回していた。阿波踊りに化けて紛れた話やら、屋島の禿やら団三郎やらに化け術を倣ったなどの話を聞くともなしに聞き流していると長曽祢の宿に着く。
 塀の上にいる狸を見上げる。
「金長どの、朝ご飯でもごちそうしようか」
「金長狸たるもの、施しは受けんでよ」
 狸は鼻を動かしてふかふかの胸を反らした。
「ほなけんど、借りはちゃんと返すけんね!」
 金長狸と別れ、従業員に見つからぬよう屋根伝いに窓から部屋に戻る。
 堅苦しいスーツから浴衣に着替えて布団に潜り込む。
 明け方の宿は静まりかえっていた。遠くで鳩が鳴いているばかり。本丸の中で聞こえる晩酌の声も、厨当番の包丁の音も、仲間達の寝息の音さえない、同じ部屋の二振りの刀おとうとたちの気配もない。
 人の気配ばかりの宿の中で長曽祢は目を閉じた。

**

「虎徹の刀はいるか」
 幾らかの下準備を終えた次の夜。
 蔵に同じように潜り込んだ長曽祢が彼を呼べば、蔵の中の物の精たちがまたざわざわと起き出す。
──まただ。
──また来たぞ。刀なのに人間みたいなものだ。
 子どもの囁き声のような声を無視して蔵の間を踏み分けるように昨夜の刀箱の側に寄る。
 近づけば、彼は長持ちの上に壁にもたれるように目を閉じて座っていた。
 声をかければ長曽祢を驚いた面持ちで迎えた。
 彼の様子は昨日と変わらないように見える。見慣れた刀剣男士である蜂須賀虎徹と同じ気配だというのに、褪せた色彩とぼろの着流しにやはり違和感を感じざるをえなかった。
 それを強いて腹の底に押さえながら手を挙げる。
「……また来たぞ」
「本当に来たんだね」
 感嘆の息をわずかに零し、蜂須賀はわずかに口元を緩ませた。
「来ると言っただろう」
「でも、あなた夕べはなんだか怒っていたから」
 そんなつもりはなかったので、決まりが悪くなって頭を掻く。
「べつに、怒ってなどいない。それより……お前疲れてないか」
 声の調子が昨夜より少しばかり疲労しているような気がする。いつも気を張って顔色を変えないこの刀の疲労が、実はわずかに声音にでることを知ったのは数年前の話だ。
 つい先だって対大侵寇強化プログラムの終盤あたりも、こんな風にほんの少し声に張りがなかった。
 本丸から持ってきた勝ち栗をポケットから取り出そうとすると、彼がきょとんとした後で吹き出した。
「あはは、刀の憑き物が疲れるわけがないだろう? 刀箱で寝てばかりなのに」
「ああ」
 自分が刀であったときの記憶はもう遠く、そういえば疲れたことがあっただろうかと思う。
 清麿に打たれ、偽銘を切られ、かの人に渡ってから常々腰に差されていたものだから、暇をする時間も寝てる暇も疲れたと思う隙なかったように思う。故に刀箱で寝ている刀の気持ちはあまり想像がつかなかった。
「そうなのか」
「そうとも。疲れるはずないんだよ」
 彼は肩を竦めて笑う。長曽祢が何も言えなくなっていると、彼は沈黙を破るように呟いた。
「あなた、今日はどこに行っていたんだ? 蜂須賀の湯には行った?」
 首を振り、そもそも温泉に行ってないというと笑われる。
「嘘だろう。君の主は何しにきたんだか」
「……この屋敷の主に用があったんだ」
 へえ、と彼は感心したような顔になる。
 それからまたしばらく話をする。
 彼はとんと昔のことが良く思い出せないようで、外の話をすると随分と素直に喜んだ。
 その夜以降、長曽祢は毎日のように蔵に足を運んでいる。

**

『つまり、件の刀剣研究家を名乗る男が鑑定もせずに蔵にしまい込んでるわけか』
「旧藩主のお家でも見破れなかった虎徹の真贋を見破った慧眼──と触れ回っているな」
 今夜の宿直の三日月が眉を顰める。
 自分の肩書きは元士族の青年実業家であるので、彼の客になるのはわけもなかった。刀剣研究家を名乗る男は、親の遺した屋敷と資産で骨董道楽を極めようとしているようだったが、どうにも誰にも見向きをされていなかった。死んだ親に世話になった伝手で札下に使ってもたっているようなもので、肝いりも誇張だ。
 その理由も明らかだった。
『正しく鑑定すれば、すぐ分かることだというのに』
「あいつは目利きができんのだ。目を閉じて刀を見ていてるのかと思った」
 長曽祢が零すと、三日月がけらけらと笑う。
『おぬしが言うとは、相当だな』
「笑い事ではないぞ。名高い刀が好きなんだそうだが、名を見ているだけで目が悪い……」
 自分とて蜂須賀や歌仙ほどに目が肥えているとは言わぬが、刀の目利きの腕なら人間よりは上だろう。
「流石に数打ちを長光の名刀と言われてはな……」
 数打ちに名刀なしとは言わないが、長光だと持ち出された刀の、違うんだがな……という情けない声なき声といったらなかった。
 どちらかと言えばその刀は江戸新刀の流れを汲んでおり、その上備前長船長光に似せた出来というわけでもなかった。
 なんともいたたまれぬ気持ちで男の話を聞く羽目になり、戦でさえかかぬような嫌な汗をかいたものだった。
「あれに掛かったら、あなたも長包丁だ」
『そ、それは大変だったな』
 切々と愚痴めいて話せば、流石の三日月も苦笑を滲ませて労う。
『虎徹の刀を見せてはくれんかったか』
「それはまだだな。だが、プライドと人の目を気にする男だ。乗せれば見せてくれるだろう」
『その男の周りに時間遡行軍の気配が残っているのは確かだな?』
「ああ。残り香がわずかに。接触はされているようだが……しっぽを掴ません。昨夜もおそらく来ていた」
 客として入った屋敷のあちこちに、わずかに瘴気のような気配が残っていた。浦島の見立ては正しかったらしい。
『こちらの計器に悟らせぬとは厄介な……』
「だが、近くに居るのは間違いないだろう。見張りを強化するさ」
『うむ。だが、おぬし一振りの調査任務だ。無理は禁物だぞ』
「それに関しては、あなたに言われたくないなあ」
 からかえば珍しく苦虫をかみつぶした顔の三日月ががっくりと頭を下げた。
『おぬしまで……。もう耳に胼胝だぞ』
 笑って定時連絡を終えれば、長曽祢は顔を上げて部屋を出た。
 彼の蔵に行けば、彼はやはりどこか疲れた顔をしていたが、長曽祢を笑って迎えた。
「ともかく、俺はあの刀剣センセイになんとか蜂須賀を正しく極められる人か場所に持って行ってもらうよう頼むつもりだ」
『うむ、たのんだぞ。そちらの蜂須賀とも話をすることだ。お互いにな」
 三日月が目を細めて笑い、その日の報告は終わった。

**

 幾度かの夜を越え、彼は随分と自分に気を許すようになった。
 反比例するように自分が焦燥に駆られている。
 刀剣研究家の男は困ったことに蜂須賀虎徹を正しく鑑定できる場所へもっていくつもりはないようだった。
 男の遊びに連れ出されては幇間たいこもちのまねごとに疲弊しきり、慣れぬ女遊びをそつなくこなさねばならぬのもまた戦とは別の骨が折れた。全く切ったはったでは済まぬ戦は刀には向かない。
 今宵もまた、花街からその足で蔵に潜り込む。随分天窓を潜り込む手際が良くなった。
「随分疲れているねえ」
 蔵に潜り込むと、いつも彼は起きていた。
 日を追うごとに、始めにみたようなブリキの人形のような感情のない幽霊のような有様ではなくなってきている。けれどお疲れ、と労う彼もまた、不思議とどこか息苦しそうな顔をしていた。
 それが彼の境遇の心労故か、それとも別の理由があるのかが分からなかった。
 問えば、蔵の刀が何を疲れるか、と一蹴されてしまう。
「……お前もな」
「──そうかな」
 彼は空とぼけて肩を竦めた。ふと言いよどむ彼に重ねて尋ねようとすると、彼が話を変える。
「今日も刀の先生と一緒に糸川べりかい?」
「あ、ああ……」
 思い出してげっそりと答えると、彼はけらけらと声を立てた。
「今日は何をしたんだ? 金比羅船々? 虎拳とらとら? 投扇興? 棚の上の投壺を呼ぼうか」
「悪い遊びを覚えるもんじゃない」
 請われるままに教えてしまったのは自分なのだが、お座敷遊びなど知らぬ大名差しには随分面白かったのか、気に入ってしまったようだった。
 ふと蘇る光景がある。
 本丸でも新撰組じぶんたちや陸奥守が酒盛りで興じているのを時折見ていたような気がする。自分がいるので混ざりはしなかったが、もともと興味があったのかもしれぬ。
 改めて彼を見る。
「どうしたんだい?」
 不思議そうに首を傾げる、褪せた色の刀。物語が歪んでいるだけで、彼もまた蜂須賀虎徹であることには変わりが無い。
──蜂須賀虎徹。
「なあ……、聞きたいことがあるんだが」
 彼は怪訝そうに首を傾げた。
「……おれとお前、どちらかが折れるかもしれん戦場なら、お前はどちらを取る?」
 彼はきょとんとしたあと、苦笑いをしながら答えた。

** 

 蜂須賀虎徹の預かり主の男男の花街通いにつきあわされ、その足で宿に戻る。
 この時代に出陣している遡行軍は、気配はすれども姿を見せぬ。また自分も同じように宿を転々として身を隠しているのであちらもこちらを補足していないだろう。
 いたちごっこのように気配を追いながら、なんとか男を懐柔させようと手を尽くしているが、男は中々虎徹の真贋を明らかにしようとはしなかった。
 つい零れたため息が部屋に転がる。
──いかんな……。
 重い腰に自嘲が漏れた。新撰組局長の愛刀としても、今の主の虎徹としてもまったく情けない。
 昨夜、彼につい問いかけてしまった言葉。
 彼の答えはひどく長曽祢に衝撃を与えた。
 いつもなら巡回がてら彼の居る蔵に足を運ぶ時間になっていたが、部屋から出ることが出来なかった。先日、気まずいまま分かれてしまったことが尾を引いているのが自分でも分かる。
 浦島にも、「蜂須賀兄ちゃんと喧嘩したときと同じ顔してる」と心配をかけてしまった。
 まだ任務は続くだろうし、今夜くらいは頭を冷やした方が良いかもしれぬ。
 ごろり、と寝返りを打った拍子に昨夜の声が蘇って顔を顰めた。
──そりゃあ、あなただろうね。だって、わたしは実戦経験のない贋作、引き替えあなたは経験豊富な実戦刀。戦力になるならあなただろう。
 それを聞いた瞬間の腹の奥がざわめく感覚は奇妙なものだった。苛立ちにも似ているが、もっと複雑で、開けてはならぬ鍵に手がかかったかのような焦燥感も混ざっている。
「それが本当に理由なのか、蜂須賀……」
 部屋でまんじりともせずにいると、珍しく人の気配が部屋に近づいた。
 小太りの人の良さそうな仲居が自分に客だという。少し含み笑っているようで奇妙に思いながらも旅館を出る。
──おれに客?
 先行調査員が追加されたのだろうか。
 そう思いながら旅館のラウンジに出る。旅館の出口にいたのは女であった。
 見知らぬ女がそわそわと所在なさげに髪をくしけずっている。
 主の手で女性の姿に変じた刀剣男士、という線は見ればすぐに消えた。刀剣男士の気配ではない。
 しかし、彼女の目的は確かに自分であったようで、自分を認めた途端、見知らぬ美女が駆け寄ってくる。
「だ、誰だ?」
 たじろぎながらも誰何すれば、女は気ぜわしい様子で長曽祢の袖を引いた。
「わしじゃ、わし!」
「金長どのか?」
 声も鈴が鳴るような声なのに、表情は確かに狸だったころの面影がある。
 阿波の訛りの女──一転して金長狸の化けた女が今にも泣き出しそうな様子で頷く。
 どうにもただ事ではない。
 引きずられるように旅館の外にでる。
 表情を引き締めて女姿の金長に詳しく聞けば、うわずった声で縋るように告げる。
「殿様の虎徹がバケモノになる!」
「バケモノ……?」
 その声と同時に、懐の懐中時計が鳴った。
「浦島!?」
 懐中時計型通信機を取り出せば、具足姿で険しい顔をした浦島が前置きもなしに話を切り出す。
『時空震が蜂須賀兄ちゃんの居る屋敷で観測された。……同時に、瘴気が発生。本丸でも、そっちでも』
「は……? 瘴気が、本丸とこちらで同時に……?」
 瘴気──便宜上そう呼んでいるだけのもので、時間遡行軍独特の穢れた気配のことだ。ゆがめられた歴史の余波によって生まれる何か。
 本丸で発生するわけがないもの。
「まさか……金長どの、バケモノになるというのは……」
──こちらと本丸でリンクしているものは一つしかない。
「浦島、モニターに時間遡行軍のサンプルデータを」
『わかった』
 モニターに時間遡行軍のデータを投影すれば、金長はおっかなびっくりながら、頷いた。
「これじゃ」
 浦島が息を詰める音が聞こえた。
「……浦島」
『時間遡行軍への変異は、不可逆の改変だ。このままなら──』
 浦島は一瞬言葉を継ぐのを躊躇い、唇を噛んだ。それでも、彼は気丈にモニター越しに長曽祢を見て告げた。
『──蜂須賀兄ちゃんは破棄される』

**

 押っ取り刀で向かうのは、彼の居るはずの蔵であった。
 その蔵の周りに、肌を刺すような気配がある。
──時間遡行軍。
 蔵を囲む時間遡行軍の一部隊が赤い目を光らせてこちらを待ち構えていた。隊長らしき大太刀の口元が厭らしく歪んでいるのは気のせいではないだろう。
──まっていた、とでも言いたげだな。
 担いできた狸に隠れるように囁いて、長曽祢は油断無く鞘を払った。
 まずは一太刀と、切り込む。それを避けた大太刀が片腕で自分の影に居た誰かを突き飛ばす。
 突き飛ばされてよろめいた人影が、太刀筋の真ん中に飛び出した。慌てて刀を引くが、わずかに腕を切られた人影は、ぱっと赤い血を流してよろめく。
 その人影に、心臓が凍り付くような寒気を覚えた。
──そんな馬鹿な。
 大太刀に押し出されるようにして、盾にされたものが信じられなかった。確かに切った感触があったというのに、その姿は。
 青ざめた自分に、時間遡行軍が下卑た顔をする。

 時間遡行軍に囲まれている刀は──そのうなだれた姿は──間違いなく、あの蔵の中の蜂須賀虎徹となるべき刀だった。

後編に続く