この本丸を預かる審神者なるものは、ほとほと頭をかかえて手入れ部屋の隅に蹲る、短刀よりも小さな布の塊に目を向けた。ふるふると蹲るその中に入っているのは、つい先ほど少し長めの手入れが終わったばかりの刀剣男士であった。布の端から、幼子が持つには大きすぎる刀の白鞘が覗いていた。
その様子を目をまん丸にしてみていた山姥切国広は、胡乱げな目になって主を見る。布を無理やり剥ぎ取られた分、いつもより目つきが悪い。
「……どうするんだ、主」
「どうしよう、国広」
「新撰組の奴らに知れたら事だぞ。それに、蜂須賀虎徹にもだ」
虎徹という言葉に反応してか、びくりと布が跳ねる。慌てて審神者が布に話しかける。
「大丈夫、大丈夫だから。怖がらなくていい。大丈夫だよ、ながそ……いや、清麿」
布がひくりとまた跳ねて、更に部屋の隅に躙り寄る。その布の隙間から覗く、怯えた色をした大きな瞳は藤色に輝き、髪も何故か柔らかな藤色をしている。ふくらしい頬と小さな手は愛らしいが、そのどこそこに、本丸で共に暮らす刀――長曽祢虎徹の面影が読み取れるような気がして山姥切は複雑であった。
小さな唇が、震えて声を発する。慌てて耳を立てれば、蚊の鳴くような泣き声が聞こえた。
「おれになまえなんてない。きよまろは、おれにめいをきらなかった」
声変わり前の、ボーイソプラノの震え声に審神者と山姥切は胸を切り裂かれる。
「で、でも君は源清麿の作なんだろう?なら、私達が清麿と呼んでもいいんじゃないかな」
幼き刀は、激しく首を振る。細く脆そうな首がちぎれ飛びそうで、山姥切も審神者も気が気ではなかった。
そもそもの始まりは、長曽祢虎徹の重傷帰還からだ。
大阪城の地下に現れた、謎の空間の調査で、地下深くに放置されていた博多藤四郎を保護し、そのまま更に地下へ潜って、突如激増した槍に重点的に攻撃された。
刀装の隙間を縫う槍の攻撃は、一度は長曽祢の脇腹を貫き、更に続けて肩口を貫いた。運悪く太い血管を破られて、血が噴き出し、隊長であった蜂須賀が即座に撤退を指示した。
手入れ部屋に放り込まれ、人の体は布団に寝かされる。刀身は復元のため、拵えを白鞘に入れ替えた状態で装置に設置された。
示された時刻に、蜂須賀は首を傾げた。
──23時間か。妙に長くないかい、主。
──そうかな? でも彼が重傷を負うなんて初めてだしなあ。太刀並みの体躯だから、これくらいなんじゃないか?
──そうかなあ。もしかして……。
怪訝そうな蜂須賀の懸念を詳しく聞く事は出来なかったそうだ。悲壮な顔をした浦島虎徹によって有無を言わさず引き摺られていく。資材集めに駆り出された新撰組の刀とともに、今は遠征で資材を集めている事だろう。
近侍の蜂須賀の代わりを務めたのが山姥切であった。
しかし、23時間と示されたはずの手入れ時間は、何故か8時間も経たぬうちに手入れ終了のアラームが鳴った。
無論、手伝い札など使ってはいない。
「へ? もう?」
書類仕事に精を出していた審神者は、その電子音に目を丸くする。山姥切国広も首をかしげた。
「見に行ってこよう。国広はそれのキリがついたら来てほしい」
「わかった」
とはいえ、書斎と手入れ部屋は襖一枚で仕切られているだけで、大して遠くもない。頷いて送り出した。
直後、幼子の悲鳴と審神者の素っ頓狂な声の二重奏に、押っ取り刀で駆けつけて、審神者に被り布を剥がされたのである。
「長曽祢がちっちゃくなってる! 服着てない! 国広の布貸してくれ!」
「ちょっと待て、おい!」
剥がされた布を被せられた幼子は、悲鳴をあげて部屋の隅でうずくまり、縋るように白鞘の刀身を抱き締めて震えていた。枕元に長曽祢虎徹の服が散らばっているが、幼子には大きすぎた。
そして今に至る。
「……どうするんだ、主」
俺が写しだからか、と瞬間本気で思った山姥切国広であった。
「じゃあ、何て呼べばいい?」
「……ひとによばれたことないから、わからない」
舌足らずな幼子が恐る恐る答える。
審神者は、痛ましく幼き刀を見た。山姥切国広も、どんな顔をしていいかわからない様子で黙っている。
人や神に奉納される刀には、銘のないものが多いというが、それは目的があって造られた刀であるからだ。いずれ長曽祢虎徹となる、源清麿に造られたこの刀はそうではない。
刀鍛冶の活計のために打たれた刀に銘を切らぬ意味を、審神者はもう知っている。
「じゃあ、どうしようかな……」
しかし、これに名付けるわけにはいかないことも審神者は知っていた。
審神者は刀の名をつけることはできない。呼ぶことはできても、つけることはできぬ。それが彼らの名だ。
「──まぁ、ともかくだ」
ぽん、と膝をたたいて破顔する。このままこの幼き刀を怯えさせ続けていることはないだろう。
審神者は片膝をついて幼い刀に手を差し伸べた。警戒を解いた幼い刀の手を引いて国広に渡す。
「二振りでおやつ食べに行っておいで。ついでに短刀たちに服を借りよう。小夜の服だったら着物だし、着れるよね。国広、よろしく」
首を傾げる幼き刀を、審神者の意を悟った山姥切国広が布ごと抱き上げる。
強張る体をあやして宥めて、ことさら優しげに問い掛ける。そんな声も出せるのか、と審神者が驚くほどだ。
「厨に行くぞ。心太は好きか?」
「と、ところてん?」
「つるっとして、つめたくて、甘い」
「つるっとして、つめたくて、あまい?」
国広の説明に彼の片腕に乗る幼き刀は、きょとんと目を丸くした。鸚鵡返しに山姥切国広の言葉を繰り返して、首をかしげる。
幼い刀の手の中の白鞘の刀をそっと取り上げて、審神者に渡す。幼き刀は抵抗はしなかった。
「行こう」
幼き刀を抱き上げたまま、山姥切国広 は審神者を振り返った。
──頼む。
とその顔が告げている。
「わかってる」
審神者は言葉なく頷いた。
二人の足音が遠ざかるまで笑顔で見送って、一つ息を吐いて表情を改めた。山姥切国広は直接触れたことで気がついたのだろう。
──あの子の在り方は不安定すぎる。
「【こんのすけ】」
審神者の声に応えて、管狐が現れる。
『すでに連絡はしてあります。この手の不具合は稀にありますので、すぐに直るかと。銘切られる前というのは、初めてですが』
「なるべく早く頼むよ。あそこまで存在が希薄だと、私の力じゃ維持しきれないかもしれない」
あの幼き刀の魂は、あまりに不完全だった。脆く、危うい幽霊のような未熟な存在だった。物語を持つ前の、銘なき刀。ゆえに、姿が幼く、言葉も拙い。姿さえも変わるほどに、存在が揺らいでいるということだ。
──紫の髪。紫の目。もしかしたら……。まだこの戦にいない、源清麿という刀は──
思わずぞくりと背筋に怖気がふるう。このまま、かの名もなき刀が魂を失えば、この本丸の長曽祢虎徹も消えるだろう。そして現れる刀は一体誰だろうか。
「対処法を、早く調べておくれ」
『かしこまりました』
「……審神者っていうのは本当、不甲斐ないものだね」
白鞘の刀身の存在を確かめるように撫でながら、誰に聞かせるわけでもなくつぶやいた。
刀匠に銘を切られぬ刀とは、銘を切るに値せぬと言われたも同義であるのだと審神者は習う。
長曽祢が酒宴でぽつりと漏らしたこともある。
──だから、偽銘であれ、近藤さんが俺を虎徹と呼ぶのがな、本当に嬉しかったんだ。
──長曽祢は本当に近藤さんが好きなのだね。
──蜂須賀や浦島には、悪いと思ってはいるんだけどなあ。
かの銘なき刀に『長曽祢虎徹』と名付け、その魂を宿らせたのは、新撰組局長近藤勇その人だ。
そう物語った人々の声が、彼をそう形作る。
審神者なるものという己は、古今東西の名刀を蒐集しているに過ぎぬ。審神者に使われた刀が名を持つことはなく、名もなき刀に魂を宿らせることはできない。
あくまで出来るのは、既存の魂を振るわせ、喚ぶことだけなのだ。
「銘が無いだけで、あれ程……か」
審神者は額に手を当ててため息をついた。
『保守から通信が入りました』
こんのすけの声に、ジェスチャー操作で通信画面を立ち上げる。厳しい顔のS.Eには見覚えがある。
「もしもし。そちらから手入れ部屋の刀剣復元装置のバグの報告があったのだが、本当か?」
「はい」
「そうか……。原因を調べるプログラムを送るから、刀剣復元装置にインストールしてくれ。その後は私の言うことに従うように」
「了解しました」
その頃、食堂代わりの続き間では、本丸に残る刀剣男士たちがお八つに集まっていた。
そこに現れた、謎の幼き刀を抱えた山姥切国広に一時騒然となったが、今は落ち着き、短刀たちは幼き刀を囲んで和気藹々と心太をすすっている。一人二人、意味ありげな視線を山姥切国広に寄越す者がいたが、山姥切国広は立てた指を唇に当てた。それだけで、聡い短刀たちは決して幼き刀の名は聞かず、その存在を受け容れた。
小夜左文字の内番服を拝借し、漸く服をまとった幼子から、布を取り返した山姥切国広は少し離れた障子に背をもたれた。
障子の陰からの胡乱げな視線に、こっそりと溜息をついた。諦めて振り返る。
「なんだ、燭台切」
心太を作ったのも、持ってきたのも彼だった。
卓袱台で短刀たちに囲まれながら、おっかなびっくり心太を啜る幼き刀から目を離さず、障子の陰に立つ燭台切光忠は、声を低めて山姥切国広に尋ねる。
「何があったか聞いてもいいかい?」
「……手入れ部屋の不具合だそうだ。今のあいつは、長曽祢虎徹ではないし、源清麿でもない」
「だからか」
燭台切光忠も痛ましげな顔をする。
「惨いものだね。光忠も銘切らぬままで刀を売ることはあったけれど……」
「そもそも、そういう刀は化生にはなり難いそうだ。長曽祢もあの頃に魂を得てはいなかったと思う」
「主はどうしてるんだい」
「今対処法を調べているはずだ」
「僕にできることはある?」
「……このことを伝えたほうがいいだろう、他の刀にも。万一、今のあいつが消えてしまえば、長曽祢虎徹も消えるかもしれない。それは避けたい」
「OK、任せてくれ。鳩を飛ばしても?」
「頼む」
踵を返した光忠の背を見送り、山姥切国広は息を吐いて卓袱台を見守る。燭台切なら良いように伝えてくれるだろう。正直、助かった思いだった。
幼き刀は黒蜜のかかった心太に、舌鼓をうっていた。
「美味しいか?」
薬研藤四郎の問い掛けに、幼き刀は破顔した。その表情に怯えは無く、山姥切国広はほっと胸をなでおろす。
「うん、うまい。すごいなぁ、おいしい」
「もっと食べるか?」
愛染国俊が己の皿から心太を移し、はにかんだ笑顔で礼を言われていた。
「僕のもあげる。酢醤油だから、甘くはないけど」
差し出された小夜左文字の心太を啜り、酸っぱさに顔をくしゃくしゃにして驚く。その様子が無邪気で、山姥切国広の顔も思わず綻ぶ。あとは、審神者が対処法を聞き出してくれれば、問題無くこの非常事態は終わるだろう、と山姥切国広も、短刀たちも高をくくっていた。
空気を凍らせたのは、からん、と箸が卓袱台に転がる音だった。
幼き刀が箸を取り落としている。
「──どうしました?」
平野藤四郎が慎重に尋ねる。
幼き刀は、己が手を顔の前に翳した。うっすらと、顔が透けている。
「あ……」
乱藤四郎と五虎退が、悲鳴を押し殺して口元に手を当てた。大太刀ながら愛染国俊と共にいた蛍丸が目を見開き、薬研藤四郎と前田藤四郎の顔が険しくなる。張りつめられた緊張の糸に、引き金となった幼き刀は怯えたように立ち上がり、後ずさった。山姥切国広と反対側の襖に背を押し付けて立ち止まる。
その幼き顔は、青褪めて恐怖に引き攣っていた。消滅への恐怖と、己が存在への悲しみに塗りつぶされていた。触れていなくてもわかるほど、彼の存在が希薄になっていく。
何がきっかけなのか分からない。だが、急激に存在が薄れている。
山姥切国広は呼び止めようとして、呼び止めるべき名前さえわからぬことに、狼狽える。
「おれは、おれのなは……おれは……」
すがるように、幼き刀が呻く。
「わかってる、あんたはあんただ!」
山姥切国広の言葉に、幼き刀は大きな朝ぼらけの目を潤ませた。
襖に押し付けたその体が、どんどん襖の模様を透かしていく。失われゆく恐怖に山姥切国広の腹の底が凍り付いた。戦場でもない、こんな形で仲間を失うなんて──。
「待て、行くな!」
待て、と言わねばならぬ気がした。
「行かないで!」
五虎退が悲鳴を上げて彼を呼ぶ。
がたがたと震えながら、幼き刀は自分を抱くようにうずくまった。
「大将はまだか!」
薬研藤四郎が焦り声を上げる。
希薄になっていく彼を抱き上げたのは、金襴具足の刀剣男士だった。
「やれやれ、何をしているんだ。長曽祢虎徹」
す、と襖が開かれて、入ってきた蜂須賀虎徹に幼き刀が抱き上げられる。
「……蜂須賀」
蜂須賀虎徹は山姥切国広に目配せをして頷いた。
「遅くなって悪かったね」
遠征から急いで帰ってきたのだろう。具足姿のまま、幼い刀を片手に抱いて目を合わせる。
幼い刀の紫色の瞳が揺れる。
「──ちゃんと思い出せ長曽祢虎徹。虎徹の銘を騙っておきながら、消えるのは許さないからな」
「な、がそね?」
抱き上げた幼き刀の背をたたき、蜂須賀が揺すり上げる。襖から同じく具足姿のままの浦島が駆け付けてヒュ、と鋭く息を呑んだ。
蜂須賀は長曽祢に嗜めるように言い含める。
「そうだ。長曽祢虎徹だ。お前の茎に切られた銘は、長曽祢虎徹。贋作であれ、お前は『長曽祢虎徹』としてここにいる。忘れるな」
「兄ちゃん……っ」
蜂須賀の腕の中を覗き込んだ浦島虎徹が、歓声を上げた。顔をくしゃりと笑み崩し、幼き刀のまろい頬を撫でる。
「長曽祢兄ちゃんがちっちゃい! すげー!長曽祢兄ちゃん、俺だよー浦島だよー。長曽祢にいちゃん!」
「うらしま……」
「うん!」
山姥切国広と短刀たちは、固唾を呑んで見守った。
幼き刀に微笑みかける浦島。彼が背中に隠した拳はかたかたと震えている。
「お、れは」
「長曽祢虎徹」
「でも、いいのか」
「良い悪いじゃない。あんたは長曽祢虎徹だろう。新撰組局長近藤勇の佩刀、贋作の虎徹」
「そうだよ、長曽祢兄ちゃん。俺の大好きな兄ちゃんだよ」
蜂須賀は透けた体を揺すり上げる。浦島も共に何度となくその名を呼んだ。
次いでやってきた新撰組の刀達も、彼の名を呼ぶ。
透けた体は戻らぬものの、その侵食はゆるやかに食い止められていた。
ばたばたと廊下を走る音がする。直ぐに審神者が縁側を駆けてきて、怒鳴り声をあげた。
「長曽祢虎徹っ! まだ消えてないか!? 用意できたから、手入れ部屋に!」
一番早く動いたのは蜂須賀で、審神者に続いて手入れ部屋に駆け込んだ。山姥切国広も浦島虎徹も新撰組の刀達も、短刀たちも、本丸の端々で気を揉んでいた刀達も手入れ部屋に駆けつけた。
「虎徹さん、大丈夫だよなあ。消えたりしねえよなァ……!」
「大丈夫だよ、兼さん! だって、だって、長曽祢さんは近藤さんの刀だもの」
不安で落ち着かない和泉守兼定を、同じく落ち着かぬ様子の堀川国広が宥める。加州清光と大和守安定は、手入れ部屋の前から決して動こうとはしなかった。
審神者が手入れ部屋から出てきたのは、それから十数分後で、その笑顔に刀剣男士の腰が幾つか抜ける。
「もう大丈夫。ちゃんと長曽祢虎徹に戻ってくれたよ」
「よかったあ……」
加州清光が、ついに縁側にへたりこんで呟いた。その肩を安定が抱く。和泉守だけでなく、鼻を啜る音がする。喜びが本丸をざわめかせた。
薬研が身を乗り出して訪ねる。
「大将、なんだって長曽祢虎徹は急に消えかけたんだ?」
「修復システムが誤作動しかけて、あやうく彼が打たれる前まで遡りかけたんだ。刀剣男士としての魂さえ消えかけた……」
ゾッとした顔で審神者は腕をする。
「何にせよ、和泉守と堀川と清光と安定それから蜂須賀と浦島が呼び止めてくれていたお陰でギリギリ間に合った……」
深い安堵のため息を吐いて、審神者は縁側にずるずると座り込んだ。
「あと、5分でも遅かったら、長曽祢消えてたかもしれなかったって言われたよ……。良かった、間に合って、本当……良かった」
涙声の審神者の安堵に、刀剣たちも肩の力を抜いた。
審神者が気を取り直して顔を上げる。
「蜂須賀、ありがとう。お前のおかげだよ。良く認めてくれた」
蜂須賀は首を振った。
「大したことはしてないさ。名前を呼んでやっただけだよ。……贋作とはいえ、あれは“長曽祢虎徹”だから」
「長曽祢兄ちゃんは、俺たちの兄ちゃんだもんね」
「ふん。不愉快だけどね」
蜂須賀は鼻を鳴らす。その普段通り具合に、ようやく、日常が戻ってきた。
長曽祢虎徹は、その夜に目を覚ました。恐ろしい夢を見ていたような気がする。恐ろしく、悲しい何かがあった気がする。何故か目を開くと涙が溢れて頬を伝い、堪えきれずに嗚咽をもらした。両隣には蜂須賀と浦島が眠っている。
弟たちを起こさぬように、長曽祢虎徹は暫くずっと布団の中で泣いていた。
長曽祢虎徹の銘の話 終