明日が非番の酒宴は、本丸の中でも指折りの酒豪で通っている山姥切国広をして酒を過ごさしむるところとなる。一年に一度あるかないかの頻度ですっかり酔っ払ってしまう国広は、上機嫌で鰹の叩きを摘まみながらちびちびと呑んでいた。
──回ったな……。
ふわふわと身体が温かく、ぼうっとした柔らかい眠気が国広の全身を包んでいる。賑やかな周囲がよい子守歌になっていた。
なんとなく肩に掛けていた布を頭から被り直す。少し狭まる視界が心地良い。
「はは、珍しい。酔ってんじゃん」
安定が声を上げ、漣のような笑い声が聞こえる。
「……よってる」
「だろうね。布被ってるよ」
隣に寄ってきた清光もけらけらと笑う。ちらりと布越しに見れば清光とて顔が赤い。安定と囁き合う姿は気が抜けていて、とても楽しそうだった。
良いな、と国広は頬を緩める。
「なに笑ってんのさ」
頬を突く紅色の指先から逃れて広間に視線を向ければ、誰もが楽しげな宴が一望できた。
向かいの縁側では源氏兄弟の背中が並んでいるし、日本号とへし切長谷部の黒田節が眠気を誘う。粟田口の飲み比べは博多と五虎退の一騎打ちのようだ。地面を振るわせるようなあの弾けるような笑い声は誰のものだろう。
「国広ぉ? 何でお前この騒々しさの中寝れるの?」
「大包平と小豆長光のあの大爆笑なんだろうね」
びっくりするほど同じタイミングで頬を突かれまくる。痛くはないが、寝入りばなに水を差されているような気分にむずがると、少し離れた場所から長曽祢と兄弟の笑い混じりの声がした。
「やめてやれ二振りとも」
「寝かせてあげてよ。兄弟はあとで僕と兄弟で運ぶから」
良い子のお返事をした二振りが声のする方に去っていく。船を漕ぎながらも、二振りの置き土産の枝豆とひじきのかき揚げをほおばった。嘘みたいに美味しい味がした。
「しぇふをよばねば……」
「呼んだかな」
「これおいしいな……」
手元を拭いながら顔をだした光忠が、食べているものを察してにっこりと笑う。
「ふふ、きみは本当に美味しそうに食べてくれるから作りがいがあるよ」
布越しに頭を撫でられる。
「布ってことは、珍しく酔ったかな?」
寝るなら隣に布団ひいてあるよ、と聞かれるが、首を振る。まだこの宴席を離れるのは惜しかった。皆が楽しんでいる空気の中に居るのは好きだ。自覚こそなかったが、極める前の時から好きだった。逆に布団を敷いてある隣室から襖越しに聞く宴の声が無性に淋しさを煽った。大倶利伽羅などはそちらが好きだというが。
きっと皆はそれを知っていたのだろう。極める前も、その後も、一度も無理矢理に隣で寝かしつけられることはなかった。
「デザートはちゃんと取っておくよ?」
「……たべる」
光忠が吹き出す声がして、そのまま伊達の刀に呼ばれて席を立つ。
見送った先で、大倶利伽羅が光忠にゆらゆらと薄紅に光るグラスを渡していた。
間違いない、葡萄酒だ。俺も飲みたい。しかし眠い。だが、あれは日向の葡萄酒のはずだ。まどろみに身を任せる心地よさと、美味しいと名高い葡萄酒を飲みたい気持ちが時分の中でアンビバレンスにせめぎ合う。夢とうつつの間をふらふらと彷徨っていると、ふと身体が引かれる。
ぽすんと、少し高めで固い枕に頭が乗った。
「あとで起こしてやろう。寝ておけ」
頭上から聞き慣れぬ低い声が鼓膜を打つ。有無を言わさぬ響きと裏腹に、背中を叩く手のひらは穏やかに一定だった。
「ん?……ん?」
「いいから寝ていろ。本科の方がいいか」
「ほんか……?」
何故本歌? と問うことも出来ずに、瞼が玉鋼のように重くなっていく。ぽん、ぽん、と一定のリズムで背中を叩かれるほどに重くなるようだった。なんとか瞼をこじ開ければ、布の隙間から、鴉の濡れ羽色をした一房が黒い藤の花のように垂れ下がっている。それに手を伸ばす。
「……痛いぞ」
滑らかな絹糸の束に似たそれは、低い声の冷涼さと裏腹に手の中から逃げることはない。
それに何故か、自分でも驚くほどに安心した。そのまま満ちた潮が引いていくように、寝入っていった。
※※※
すう、すうと整いはじめた寝息を耳にして、日光一文字はこくりと頷いた。
表情はぴくりともしていないように見えるが、近しいものがみれば、非常に満足そうにしていると分かるだろう。
「寝たようだな」
手の平は相変わらず一定のリズムを刻んで彼の背中を叩いている。
自分の髷にじゃれついていた頃を感慨深く思い出す。膝の上どころか、日光の手のひらの中にすっぽり収まってしまいそうなものだったが、すっかり図体は大きくなり、日光の太ももは彼の頭で一杯一杯である。
「随分大きくなったものだ」
「いや……日光殿」
しみじみと呟いた日光に、漸く口を挟むに至ったのははす向かいでワイングラスを傾けていた山姥切長義であった。
「なにか」
「何かじゃないよ」
深い溜息を吐いて、日光をじとりと睨め付ける。
「あんまりそいつを甘やかさないでくれ。もう六百年は過ぎた刀だよそれは」
「だが眠そうだった」
「だからってあやして寝かしつけないでくれ。眠いなら隣の布団部屋に自分で行かないとだめだろう。子どもじゃあるまいし」
山姥切の切実な苦言にも、日光は小首を傾げて不思議そうな顔をする。
「子ども扱いしたつもりはない。お前も呼んでいないだろう、山姥切」
「呼ばないでくれるかな!」
「起きるぞ」
口元に人差し指を立てられて、山姥切の勢いが針を刺された風船のようにしぼんでいく。無意識のうちに、寝ている子を起こさぬように声が潜められる。
「そいつの沽券にも関わるだろう」
「昔はよくこうしていた」
山姥切は溜息を吐く。
「日光殿くらいのものだったね。あの城で九十九に満たぬものを構うのは」
「そうだったか」
「黒田へ渡ってからは、其処の刀を弟分にしたんだって?」
「弟分は刀だけではない」
いつの間にか爆音の黒田節が止んでいる。日光の視線の先には不自然なくらいに背を向けている槍と打刀。側に居る短刀たちは苦笑してひらりと手を振った。
その隣、大太刀の集まっている座卓で一際大柄な日光二荒山神社の御神刀一振りがちらりと日光に目を向けて首を傾げる。千里眼の大太刀に日光は何でも無いと首を振る。
──随分と人らしくなった。
日光の藤写しの瞳が、それと分からぬほどに細められる。
山姥切は何故か口いっぱいに酸っぱいものでも詰め込んだような顔で葡萄酒を煽る。
「猫殺し君もそうだったね。金鯱が成るか成らないかくらいの時によく声を掛けてた」
「そうだな。どら猫も一文字の男である」
話題に出された南泉一文字は鯰尾藤四郎、骨喰藤四郎に背を宥められている。なにやら酒に噎せたらしい。
「……二度と相見えぬものと覚悟して黒田に渡った」
酸味と芳醇な香りの葡萄酒を喉の奥に滑り込ませて日光は呟いた。視線が落ち、白い布にくるまって健やかに寝息を立てる長義の写しを見つめる視線は穏やかに凪いでいる。
──折れず、曲がらず、毀れず、健やかにあれ。九十九の先まで。
後代の刀へそう願いを掛けるのはあの里のならいのようなものだった。自分も先達にそう言祝がれた記憶がある。あの時代で百年残る刀など古備前の宝刀や三条、天国の刀くらいのもので、どんなに良い出来の美しい刀でも戦場へ行けば直ぐになまくらになって折れていく。
何の力も無い刀のつきものにできるのはそうやって願うだけだった。
自分が大切だと思うものにそう願いをかけるようになったのは、そういうふるさとの風習が魂に根付いているからだろう。故郷の刀達、二荒山の太刀、北条の刀、黒田の刀槍──。
遂に黒田に渡り、元の主家の凋落を聞き、其処の刀の行方の知れぬも知った。太平楽の世で再び名を聞いたときの気持ちも、その後でまた喪われたと聞いた時の気持ちも日光一振りだけの思いである。
──血を分けた弟の如く守ると、言葉にしたのは冗談でも何でも無い。
「日光殿、酔ってるんじゃないかな」
「そうかもしれんな」
そういう口で日光は葡萄酒を傾けた。
小田原の城の子守唄 了