紅と藤

 人間たちの戦場の音が遠く聞こえる山間の獣道。革靴の底で踏み分けるように、福島光忠は歩を進める。
 落ち葉の積もった土につま先を引っかけ、下藪に肌を切られながらも、転ばぬように全身の気を張り詰めていた。荒い息がひゅうひゅうと吐き出されて不快だった。
 道ならぬ道を歩くのがこれほどに難しいとは。 
 今度、誰か山登りに詳しい刀にでも相談すべきだ。けれど顕現して日の浅い福島はまだその相手を知らない。
 高山の花を見てみたいといった福島に、山登りの得意な刀を教えてやると言った槍は、今、福島の背にぐったりとその身を預けている。
 福島の大事な槍は今、意識さえなく福島に身を預けている。
 福島の肩口にかかる細い息と、背中に触れている鼓動が彼の生存を示している。刀剣男士が折れる時には肉の体は残らぬと聞くので、まだ彼は存在している。
「……号ちゃん」
 獣道に張り出した木の根を避けた拍子にずり落ちかけた大きな体を揺すり上げた。一緒に持つ彼の本身をしっかりと握り直す。
 福島は歯を食いしばって顔を上げた。
 福島の荒い息に紛れてしまうほどの細い吐息が途切れていないのが、彼の身が解けていないのが、福島が足を止めずにいられる唯一の理由だった。
 獣道は蛇行しながらも山頂に向かっている。
 この道を進んで合流しろ、と言い残したのは背負う日本号だ。それを最後に意識を失った。
「お願いだよ、折れないでくれよ」
 苔むした岩で滑りそうになる足を踏ん張って福島は歩き続ける。
 日本号を背負っている背中がジャケットを越えて濡れている。止血しても止まらぬ、彼の腹に空いた傷から滲む血だ。あと一撃でも受ければ、彼は折れるだろう。
 恐ろしい想像だ。足が止まりそうなくらいに恐ろしい。
 それでも、福島はこの足を止めるわけにはいかない。
 背後から吹いてくる風が福島の背中を押し、汗を冷やす。山の空ッ風にわずかに湿気ったような鉄さびに似たにおいが混ざって汗を冷やす。
「号ちゃん、ああ、がんばってね」
 つい漏れそうになる泣き言を飲み込んで、日本号を背負い直す。
「大丈夫、俺がいるんだ。号ちゃんは絶対無事に連れて帰るからね」
 日本号に言い聞かせるというよりは、ほとんど自分を鼓舞する為に声を張り上げる。
 滑りそうになる獣道を踏みしめて、福島は真っ直ぐに紅い目を道の先に向けた。

 

「馬鹿な、阿弥陀ヶ峰!?」
 きっかけは時空間転送門ゲートの座標エラーだった。
 本丸へ入るはずの門がつなげた場所を即座に把握した日本号が珍しく焦った声を上げた。即座に臨戦体勢で周りを警戒し、咄嗟に土塀の影に隠れた。
 福島が見たことのない強大な時間遡行軍が二口の横をのっそりと立ち去る。
「阿弥陀ヶ峰!?」
 日本号に合わせて抜刀した福島が声を低めて驚く。
 阿弥陀ヶ峰といえば、極めの刀槍たちが向かう最前線の戦場だった。福島は足を踏み入れたこともない。
「門がおかしくなったの?」
「多分な。たまにある。……他のやつ来てるか?」
「……ここに居るのは俺たちだけみたい。転送機は日光くんが持ってる」
 声を落とした日本号の舌打ちが鋭く鳴る。
「──身を隠しながら、本陣に向かうぞ」
 塀の影を進みながら、二口は遠回りに木立に進む。
 しかし、どちらも隠蔽の低い太刀と槍。遡行軍から隠れ切れた時間はそう長くはない。
 逃走の最中に福島の目の前で敵に腹を貫かれた日本号の姿がまだ瞼の裏に焼き付いている。
 返す刀でその槍の首は福島が落としたが、それが限界だった。
 この福島が側にいながら、日本号に傷を負わせることになろうとは。
 なんたる無様な! 己の不甲斐なさに首を掻ききってしまいたいが、今は何より日本号を守ることが先決だった。

 酷く遠回りをして本陣に向かい、獣道が途切れた先には崖があった。 普段ならひと飛びだが、今の福島が日本号を背負って渡るのは難しい。谷向こうを半里先が本陣だそうだが、一層の回り道を考えるべきだろうか。
 しかし、立ち止まってもいられない。背後から吹く涼風が福島の髪を遊ばせて火照った体を冷やす。わずかに身震いした。重たい錆と鉄とのろいの混ざった遡行軍の匂いが背後から鼻につく。
「はは……、困ったな」
 日本号を担ぎ直して崖を見上げていると、ふと日本号がわずかに身動ぐ。
「……みつ、ただ」
「号ちゃん!」
 横目に見えるうっすらと開く目は濃い藤色に染まり、福島を視認して眉間に皺を寄せた。
 ぐ、と体を動かそうとして脱力する。動けないのだろう。
「無理に動かなくて良いよ」
「……状況は……」
「あと半里で教えてもらった本陣だと思う。でも、後ろ多分敵が尾けてきてて、崖上るのはちょっとキツいなって」
 福島の報告に、日本号の眉間の皺が深まる。四方と天を見やって低く福島の耳に囁いた。
「光忠」
「うん」
「道を変える」
「うん?」
「この改変点、前から不安定でな。万一の備えがある」
「備えあれば憂いなしだね、流石だよ」
「俺が考えたわけでもねェが。この崖を西に向かえば、祠がある。そこに非常用の火矢がある。──あいつらにこっちにきてもらう」
「でも号ちゃん」
 弱々しい福島の声にふ、と息を整えながら日本号が眉を下げて苦笑する。
 彼自身、自分があとほんのわずかで折れてしまうことは分かっているのだろう。
「大丈夫だ。合図ぐらいは俺も上げられるし、折れねェぐらいはできる」
 日本号は自信ありげに目を細めた。
 この重傷で意識があるだけでも並大抵の事ではない。それどころか、的確に場所を把握して指示を出すことが出来るのだから凄まじい精神力だった。
 さすがは日ノ本一の槍だ。
 誇らしさが胸に充ちて、福島は力強く頷いた。
「……安心して、号ちゃんにはもう指一本触れさせないからね」
 たとえ、我が身が折れようともだ。
「俺は……」
 細い息をついて日本号は何かを呟こうとして、諦めたように目を閉じる。その言葉を聞き取ることは出来なかった。
 背後から吹く風は、鼻が曲がりそうなほどの腐臭を乗せて吹いている。

 

 崖からしばらく歩けばしめ縄の張られた白い岩が見えた。その岩の下に祠が見え、福島はほっと息を吐く。
 丁度その周りは木立が開け、太刀を振るうのに丁度良く障害物がない場所である。
 空を見上げれば、いつの間にか太陽は陰り、橙に岩場を染めていた。岩の影に身を潜める。
 岩に槍を立てかけ、白岩の裏に日本号をゆっくりと下ろす。べったりと粘ついた彼の血が福島の上着を濡らしている。
 額に浮かぶ脂汗を血で濡れていないシャツで拭ってやり、かわいそうに思いながらも揺すり起こす。
 自分が強ければ、このまま寝かせてやれるというのに、我が身の脆さが情けない。
「号ちゃん、ごめんね。起きれる?」
「……ん、いや平気だ」
 日本号が祠と岩の隙間を探れば、油紙に包まれた火矢一式が竹筒に仕舞われていた。
「ああ、くそ」
 それに火を付けようとして日本号が舌を打つ。火口がしけっている。火矢を放つには少々時間が掛かりそうだった。
 しかし、それを待たぬ無粋ものが既に近い。
「……来るな」
「来てるね」
 自分たちの来た方向から枝を踏み割る音が聞こえる。粗雑な足運びに、錆びた鉄の匂い。
 火口はまだ点かない。
 日本号のことを思えばこのまま隠れていたいところだが、あいにくと福島は隠れ鬼が得意な方ではない。
「打って出よう」
 不意打ちを見舞えば、少々の有利はとれるだろう。火矢を放つ時間は稼がねばならない。
 日本号に彼の本身を握らせ、福島は細く息を吐いた。
「引き付けて時間を稼ぐから、火矢を」
「まて」
 日本号が呼び止める。
「……使いな」
 福島の目の前に差し出されたものに、福島はぎょっと目を剥いた。倶利伽羅龍の彫り物が美しい大身槍。螺鈿の柄を突き出されて促される。
「え」
「……俺を使え。お前なら使えるだろう」
 代わりにそっちを寄越せと太刀緒代わりのベルトを引き抜かれる。鯉口を切って刃を覗かれ、日本号の眉間の皺が深くなる。
「ばれてた?」
「ったりめーだろ」
 折れる寸前なのは日本号だけではない。
 福島は体こそ軽傷だが、本身に大きな傷を負っていた。
 それこそ、後一合打ち合えば折れるだろう
「光忠、生きて帰るぞ」
 真っ直ぐに福島を見上げる日本号に福島は静かに頷いた。彼の本身を握る。手に吸い付くように柄がなじむ。
 日本号が少し目を見張り、それからふっと笑みを浮かべた。
 遡行軍の気配がついに間合いに入ろうとしている。
 福島は一度日本号と目を合わせ、その槍を持って岩の上に飛び乗った。
「長船派の祖、光忠が一振り! 三名槍を恐れぬものだけかかって来い!」
 自分は太刀だというのに、日本号の美しい槍身は福島の手の中で当然のように美しく閃いた。

 頭上から突きかかってくる槍に遡行軍は虚を突かれたかたちになる。槍の究極とも言える日本号をまるで己自身であるかのように扱う福島は、そのまま脇差しを一振り突き殺す。 不意を突かれて体勢を崩した遡行軍の群れを福島の振るう日本号がはじき出す。
 一振りを塵に返したのと同時に、祠の裏から火矢が鏑矢のような音を立てて上がった。
「足下がお留守だよ」
 火矢に気を取られた打刀の足下をすくい上げて心臓を貫く。
 |槍《日本号》は手の中で意のままに滑り、穂先はしなる竹のように踊る。祠の裏に行こうとした短刀を石突で弾く。
 あっという間に二振りを屠られ、残りの二振りが距離を取る。
 その後ろからまたも異形の影が現れる。
 それでも、福島は口角を上げて笑った。
 花吹雪の中に居るような高揚感。
「天下一の槍に貫かれたいものからかかっておいで!」 
 啖呵を切ってみせれば、ざわりと敵部隊が怯む気配がする。
――号ちゃんを使いながら、俺が遅れをとる訳がない。
 敵陣に穂先を突きつければまるで倶利伽羅龍に睨まれているかのように福島と日本号を囲む輪がじりりと広がる。
 その瞬間、全く気配なく、包囲していた遡行軍の首がぼろぼろと落ちる。
 触れるだけですっぱりと棚を圧しきる名刀、木々に紛れ気配を消す藤四郎の兄弟、それから隊長である一文字一家の左翼がそれぞれに包囲網を作っていた刀の首を見事に落としていた。
 火矢を見て急いで来てくれたのだろう、体中に傷や土汚れを残していた。
「無事か日本ご――福島か!?」
 顔を上げた長谷部が福島を見て目を丸くする。博多と厚もまた、福島の姿に驚嘆の声を上げる。
 けれど歴戦の刀剣男士である彼らは驚愕の顔のまま、急に現れた援軍に反応しきれずにいる遡行軍を屠っていく。それぞれに極めて久しい刀たちには流石に歯が立たぬ様子であった。
「無事か」
 唯一極めていない日光が足早に福島に近づいて尋ねる。
「号ちゃんが重傷だよ」
「分かった、重傷が二振りだな。帰城する」
 日光が淡々と頷き、祠の裏の日本号に肩を貸す。
 博多と厚が日本号のその有様に絶句し、長谷部もまた眉を寄せる。
 日光の持つ端末が光を発して帰城装置が作動する。
 今度こそ、門の向こうは本丸であった。
 待ち構えていた悲愴な顔の主と、仲間たちがわっと福島たちを取り囲んで担ぎ上げ、手入れ部屋に運び込まれる。福島は燭台切に、日本号は蜻蛉切が背負う。実は日光も重傷だったらしく、山鳥毛が問答無用で担いでいた。

 

 それぞれの部屋に入る直前に、福島は日本号に声をかけた。
「……号ちゃん」
「ん」
「どうだった?」
 蜻蛉切に担がれながらも日本号はふ、と目を細めた。
「そうだな……。呑みたくなった」
「号ちゃんってば、いつの間にそんな飲んだくれになったのさ」
 福島に居た頃は、呑み過ごす福島たちを諫めて回っていた上品な槍だったというのに。
 その言葉に、日本号はくつくつと愉快な様子で笑う。そのまま腰に差していた福島の本身を渡す。福島も手になじむ螺鈿の柄を日本号に差し出した。馴染みすぎて、手入れ部屋にまで持って行くところだった。
「……黒田ふじも良かったが、お前は福島そうびがよく似合う」
 福島には日本号の言う藤の意味は分からない。
 分からねど、今はただ、この槍が無事だということが何より嬉しかった。