南海先生と二振りのおんちゃん

かりそめの物とはいえ、肉を貫かれる心地は熱さに似た痛みを南海太郎朝尊の全身に響かせた。足を滑らせて地面に頭を打つ。
「先生!」
「はっ……」
 息が詰まる。江戸城の濡れたような夜闇が視界に広がり、その中に、溯行軍の錆び付いた穂先が見える。じとりとした汗が額に浮かぶ。地面を転がって追撃を避け、転がりざまに刃を振り抜いて首を断つ。
 膝を付いて息を整える。自分から漏れる息が荒い。避け損ねた槍の掠めた脇腹から血が流れているのが分かる。拍動と共に痛みが脈を打つ。
 視界の端に、動揺した表情の二振りが見えた。彼等に笑ってみせる。
「まいった、まいった」 
 自分はきちんと笑えているだろうか。朝尊はあまり彼等に心配されたくはなかった。彼等の方が余程痛そうな顔をするのだから。
「先生」
「避けようとして足を滑らせてしまったよ」
「鈍臭ぇな先生」
 駆け寄る肥前忠広の手を借りて立ち上がる。動けば避けきれずに切り裂かれた脇腹に酷い痛みが駆け抜けたが、朝尊はそれを黙殺した。色の濃い羽織の下で、あまり目立たないのが幸運だった。
「南海先生、まっこと大事ないがか?」
 抜き身の刃を下げたまま、じっと見定めてくるような陸奥守を、むしろ見返して頷く。
「勿論さ」
「ほうかえ。なによりじゃ」
 陸奥守は歯を見せて明るく笑った。褒められているような心地がするのが、なんともむず痒い。
──坂本家の刀に褒められても、何も嬉しくないのに。僕は僕を打った刀工に寄って、こうして顕現しているのだから……、いや、あれ。
 地面で打った頭が少し痛む。脇腹の激痛も体中に響いて、何か変な事を考えているような気がする。 
「先生?」
 一瞬惚けていた事に気がつき、朝尊は慌てて陸奥守に礼を返す。
「ありがとう。それよりも、あと少しで本陣だろう? さあ、行こうじゃないか」
 陸奥守を急かすと、彼は頑是無い子供をあやすような表情を浮かべた。胸の奥の何処かが細い針で突かれたような心地がする。
「いらちじゃのう、先生」 
 部隊の他の刀と共に、朝尊も歩き出す。脇腹に走る痛みの他に、脳の奥が歩く度にずきずきと朝尊を苛んだ。
「おい」
 肥前が朝尊を止める。下からぎりぎりと睨み付けられて朝尊は胃の腑が少しばかり冷える。彼の手が朝尊の篭手を掴む。
「頭、痛いのか」
「え」
 酷く怒っているような、心配げな表情で、彼の脇差はじっと朝尊を見つめた。
──そういうところが似てる。坂本家の、家宝の名刀たちは、いつもじっと目を合わせて自分を見る刀たちだった。自分はそういう所がとても──とても、なんだったか。
 首を傾げると、肥前は更に眉間の山脈を険しくさせる。
「どうして?」
「先生、人の身体ってのは、無理はきかねえんだぞ」
「勿論。そこもちゃんと調べたとも。刀剣男士という存在がどれほど人に寄って──」
「そういう事を言ってるんじゃねえ。先生、そうじゃなくて……」
「溯行軍!」
 同じ部隊の小夜左文字が鋭い声を上げる。
 視界の端に瘴気のようなものを纏った刀が見えた。
「話は後でね、肥前くん」
「おい、ちょ……」
 溯行軍との白刃戦は朝尊に戦闘以外のこと──傷や頭の痛みだとかを──を考える余裕を奪ってくれる筈だった。脇差しの一振りと刃を併せる。手入れもろくにされていないのだろう、錆びた猪首切先が朝尊との鍔迫り合いの末に脆く折れた。
 江戸の夜。八百八町の夜。
 暗殺にもってこいなこの夜。
──この時間、彼はきっと寝ていない。お酒は飲まないけど、勉強熱心な男だったから。いや、僕は何を言っているのだろう。この時代、まだまだ彼は生まれてすらいない。
 痛む頭は、妙に余計な事を考えさせるようだった。朝尊の自制心を無視して、思考が暴走している。いつもは考えないようにしている筈のことが、朝尊の脳裏によぎるのだ。
 其れだというのに、戦闘に集中している自分は考える自分と別に存在して、敵を斬ろうとしている。
──江戸で僕らはあんなに楽しかったのに。どうして。
 朝尊の一閃が陰にひそむ蛇骨の様相の短刀を切り捨てる。
 屠った短刀が消える。破壊され、時間軸への楔を失った遺体は時間流に呑み込まれて元の時代へと帰る。折れた刀剣男士も同じ。大概は本丸に帰るまでに時間圧に押しつぶされてしまうが、仲間によって持ち帰られることもある。溯行軍の骸が残るのは、流れのない時、閉じられた歴史の中だけの話だ。朝尊が罠を作れるのも、結局あのような特殊な空間でだけの話。
──破壊されれば、自分はどこへいくのだろう。肥前は、陸奥守はきっと悲しむだろう。僕が折れたら、悲しんでくれるだろうか。僕を惜しんでくれるのだろうか。彼の刀だった僕を。
 背後に、大太刀がその大きな刀身を振りかぶる風切り音を聞く。咄嗟に刀を振り上げて大太刀の振り下ろした刃を受け止める。傍に肥前がいるのが見えた。
「肥前くん!」 
 咄嗟に彼を呼ぶ。全て承知したように肥前が地面を蹴り、石垣を踏み台にとんぼを切った。
「そこかよ」
 大太刀の物打ちを押さえる朝尊の髪一筋ほどの距離で、彼の刀身が大太刀の片腕を断つ。銀色の流星のように、自分の呼びかけに応じて動く脇差の美しい軌跡に、朝尊はつかの間言葉を失った。大太刀はその一瞬の隙を突き、置き土産とばかりに朝尊を蹴り飛ばす。
「ぐっ……」 
 的確に傷の残る脇腹を抉られて、視界がちかちかと明滅する。中傷程度だったはずの傷は、折れる間際の傷へと悪化したらしい。その上、血を流しすぎている。思わず舌を鳴らした。
──ああ、もう。帰って手入れを受けるまでは隠したかったのに。
「先生!」 
 少し離れた場所で敵を屠っていた陸奥守が朝尊に駆け寄る。朝尊を抱き起こして、その手にべったりと付いた傷に表情を険しくさせる。
「先生、こりゃ重傷やいか…っ。いかん、みんな、撤退じゃ!」
「チッ……」
 霞む視界の向こうで、肥前の背中が殺気を漂わせている。鋭い舌打ちが聞こえたかと思えば、片腕を失って嫌な笑みを浮かべた大太刀の首を落とした。抜き身の刀をだらりと下げて、俯いている。
 その背中を、朝尊は知っている。 
 あやかしの多い土佐で、好奇心の大きい朝尊は幾度となくそういうものに目を付けられては、彼等に助け出されていたものだった。視界の端から白く霞み始めているものだから、ますますかつての姿に見える。
 あの土佐の朝靄の中で見た姿。懐かしい日。

──ははは、おんしゃあまっこと先生みたいじゃのう。
──こがにこんまいがに、よう勉強しちゅうにゃあ。

 快活な二つの笑い声が、どうして耳に残っているのだろう。
「いかん、先生! しっかりしとおせ、わしが分かるかえ!」
 陸奥守の常にないほどの狼狽えた声に、朝尊は朦朧と口を動かして、頷いた。

 

「陸奥守、帰還が出来ない、まだ残ってる!」
 蜂須賀虎徹が敵短刀を切り捨てながら声を上げる。藤色の髪を翻して振り返った蜂須賀は目を丸くした。
「陸奥守……?」
「蜂須賀、先生んこと、見ちょってくれんか」
 先ほどの切羽詰まった声が嘘のように静かな声だった。朝尊を抱え、俯いているので表情が見えない。蜂須賀には随分と久しぶりな感覚だった。陸奥守が戦場で余裕を無くす様など、極めて以来初めてだ。
「あ、ああ」
 陸奥守の抱える朝尊を蜂須賀はそっと受け取る。羽織の色が変わるほどの出血に表情を改めた。 
 あと一撃でも受ければ折れてしまうだろう。
 蜂須賀は彼の刀を抱きかかえて鋭く刀を構えた。
 陸奥守から預かった以上、虎徹の名にかけて護る。
 蜂須賀の間合いには何人たりとも入れはしない。

 

「お小夜、あと何振りじゃ」
 今、蜂須賀の間合いの内以上に安全な場所はない。陸奥守はそれを経験上知っている。
 対峙する敵部隊との戦闘終了が認可されるまでは帰還は認められない。しかし、彼が安全な場所にいる以上、速やかに最後の一振りを仕留めれば良いだけの話だ。
「二振り──否、あと一振りだよ」
 小夜が石垣の陰の打刀の首を切り、小夜の報告が変わる。
 始めに確認した様子では、あと一振りは打刀だったはずだ。最も夜目の利く小夜が城内に視線を巡らせる。肥前が陸奥守の横に滑るように寄る。
「おい、陸奥守」
「肥前の、覚えちゅうかえ、半平太の腰にあった先生を」
「ああ」
「わしらぁによう懐いてくれちょったにゃあ」
 肥前が怪訝そうな表情で陸奥守をちらりと見る。そうして、ふ、と息を吐いた。
「……手が掛かるちびだったな」
「ほうじゃ。いらちな子やき、八百八狸の宴会に飛び込んだことがあったろう」
「あんときは金長に随分頭を下げた」
 にやりと肥前の口元が緩む。阿波の蜂須賀がため息を吐く呆れた声が後ろから聞こえる。
「まあ、先生喰おうとした馬鹿狸わりことしいは切り捨てたけんど」
「ほにほに──そこじゃ!」
 陸奥守がホルスターのS&Wを引き抜いて引き金を引く。銃声と共にかしゃんと乾いた骨の砕ける音がする。怒りに青筋を立てた陸奥守の咆哮が石垣に響く。
「おんしゃあ──うちんくの子に何しゆうがじゃ!」
 同時に駆けだした二振りの刀が、鏡写しのような型で刃を振り上げる。陸奥守が袈裟掛けに、肥前が逆袈裟に切り、打刀は断末魔を上げて消えていく。
 刀が消えると同時に、蜂須賀の持っていた帰還装置に帰還可能の表示が現れた。
「帰るぞ」
 袖で拭った刃を鞘に納め、陸奥守の肩を肥前が叩く。
「……おん」
 蜂須賀が帰還装置を作動させる。盤面の多い懐中時計のようなそれが逆回りに回り、刀は時を下って行く。
 

 懐かしい夢を見たような心地よい眠りから目覚める。
 朝尊の目の前には、そろそろ見慣れた手入れ部屋の天井が広がっている。どうやら無事に帰還したらしい。
 そっと横を向けば、白鞘に納められた自分が手入れされている。恐る恐る頭に触れてみれば地面にぶつけた後頭部はすっかり治り、痛みもない。
「いやはや……」
 刀の時間を巻き戻す手入れ装置は、この本丸で一二を争う最先端機器である。朝尊にもそのシステムの概要しか分からない。装置のモニターにはわかりやすく残りの手入れ時間が表示されている。
 残り時間はあと半刻もない程だった。
「ふむ──」
 朝尊は顎を擦ってぼやいた。
 とても嫌な予感がする。
 頭を打ってからの記憶が曖昧だ。
 意識が朦朧としている間に何かを口走ったような気がするし、そもそも傷を隠していたのも知られずに帰還するつもりだったのだ。隠していると知られてしまえば、あまり良い顔はされないことくらいは分かっている。
 本当なら帰ってからこっそりと主に申し出て手入れを受けるつもりだったのだ。実力の差や刀種の差で滅多に同じ部隊にならない陸奥守や肥前と一緒の部隊に配属された戦だったのだから。
 特に陸奥守は最古参の刀として日々忙しげに、楽しげにいろんな刀と話をしている。肥前は肥前で最近では三条大橋での夜戦が続き、最近では部隊が離れている。
 もう少し共に戦いたくて、意地を張ったのが裏目に出てしまったようだ。
「……怒られるかな」 
 おぼろげながら覚えていることがある。懐かしい二振りの背中だった。凜と張り詰めた大きな背中に、深い安堵を覚えて眠るように気を失った。
──しかし、彼等は無茶をして足を引っ張ってしまった自分にご立腹だろう。
 ごおんごおんと本丸の方から力強い暮六つの鐘が聞こえる。そろそろ夕飯の時間だろう。
 手入れ中の男士には誰かしらが夕飯を持ってくる。肥前や陸奥守に朝尊が持って行ったこともある。朝尊の予想が正しければ、朝尊に夕飯を持ってきてくれるのは所縁の二振りのどちらかか、もしくはどちらもだ。
「あっ、蜂須賀くんにはお礼を言わないといけないね」
 手を叩いて朝尊は掛け布団から抜け出す。
 いそいそと浴衣を整えて枕元の眼鏡を手探りで掛ける。
「何、刀さえここにあれば人の身体は動いても大丈夫だからね。礼は何事も早いほうが良い。早速蜂須賀くんを探してお礼を言うことにしよう。蜂須賀くんが食堂棟に行ってしまったら大変だからね」
 障子に膝行り寄って指一本分ほどの隙間から覗き込む。手入れ部屋の前の縁には誰も居る様子はない。空は橙色に染まり、向かいの屋根の向こうの山々は柔らかな黄金色に輝いている。手入れ部屋は二ノ丸の中でも特に喧噪から外れた場所にあるため、鐘の余韻も消えればしんと静かだった。
 浴衣の合わせを押さえながら障子戸を開けて縁に出る。左右を確認して息を吐く。
 足音を忍ばせて、角を曲がろうとした時だった。
「さて……」
「何がさてじゃ、先生」
「先生」
「……めった」
 つい悪態が口を吐いて出る。
 案の定な二対の視線が朝尊を睨め付ける。梅雨時の湿った縁の下よりもさらにじっとりとしている。肥前の持つ暖かなおじやの匂いに心を楽しませる余裕もない。
「こがなことじゃろうと思うたがよ。にゃあ、肥前の」
「変わんねえなあ先生。手入れ時間中は極力部屋から出るなって何度言えば分かるんだ、アンタは」
「いや、その、違うんだよ」
「何がじゃ? ん?」
 陸奥守の柔らかな微笑みに、朝尊は及び腰になる。非常に怒っている。見えはしないが、額に青筋が浮いているような気がする。
「ほらその、いや、別に逃げようとしたわけじゃなくてね」
「ほう、逃げようとしちょったがか」
 余計なことを言った。非常に不味い流れである。
「その、蜂須賀くんにお礼をと」
「終わるまで後半刻もねえのにか? 夕飯の後でも良いだろう」
 淡々とした肥前の声も、いつもより少し刺々しい。
「小夜くんにも……」
「お小夜は配膳当番じゃき、今は手が離せんぜよ」
「それで、何処に行こうって?」
「なんでこんな時ばっかり息が合うんだい!」
 朝尊は深いため息を吐いた。最早逃れようもない。気分は白砂で沙汰を待つ盗人である。連行されるように朝尊は手入れ部屋へと舞い戻った。

「ほいたらまずわしらぁに言うことは?」
 布団の中に押し込められ、枕元に二振りが座る。朝尊はなんとか先におじやを頂こうかと口を出してみたのだが、残念ながら要望は却下された。
「迷惑を掛けたのは謝るよ」
「ほんで?」
 陸奥守が続きを促す。
「手入れ部屋を抜け出そうとしたのも僕が悪かった」
「で?」
「えっ、他にないだろう?」
「俺等が一番謝って欲しい所が入ってない。やり直しだ」
 肥前が鼻で笑う。
「ええ……」
 朝尊は頭を抱えた。迷惑を掛けたことと、手入れ部屋を抜け出そうとした事以外に何かしでかしたことがあっただろうか。
 気づかぬうちに不興を買っていたのだとしても、彼等が自分に底意地の悪いことをする筈がない。 
 黙りこくった朝尊に、二振りは目を合わせる。肥前の零したため息に、朝尊はびくりと掛け布団を握った。 
「あのな、先生」
 肥前が朝尊の額を小突く。
「別に迷惑なんて思ってねえよ。戦してンだから、怪我ぐらいするだろ」
「けんど、黙っちょったら分からんぜよ。もし誰も気づかんで先生が折れてしもうたら?」
「刀なんて、折れるときは本当にぽっきり折れちまうんだぜ。先生、知ってるだろう?」
「……それは」
 知っている。これでも幕末の動乱期を駆け抜けた男の腰にあった刀だ。
「こいつなんて、先生が重傷でぶち切れてるからな」
「きっ、切れとらんちや」
「嘘吐け」
「本当じゃ!」
「図星だからって吠たえなや」
 肥前が珍しくけらけらと笑っている。陸奥守は唇を尖らせて隣の肥前を小突く。
「なんじゃあ、おまんも怒っちょったくせに。人んことばっかり言いよって」
「俺は冷静ちや」
「はー、おんしゃてんご言いなや」
「言っちょらん」
「ははっ」
 言った言ってないの言い合いになった二振りに、朝尊は思わず吹き出した。眼鏡の奥の瞳が猫のように細く笑む。
「おんちゃんらあ、変わらんにゃあ」 
 その言葉に、彼等は目を合わせて首を傾げる。朝尊は肩の力を抜いて、彼らに微笑んだ。
何百年経とうと、どれほど立場が変わろうとも、三振りは土佐の潮風に育った刀だった。たとえ、深い溝が露わになる日が来たとしても、今日という日があった事実は変わらない。
「心配をかけて、すまなかったね」
そうして共にご飯を食べよう。

 

 

南海先生と二振りのおんちゃん  完