ニ 表層/僻見 - 2/2

二 表層/僻見

 あどけない声に揺すぶられて陸奥守は目を開ける。ぼんやりとした視界の真ん中に案内役の心配顔が見える。
「おん。心配せんでもえいき、なんちゃあないぜよ」
 波にもまれている間に見えたもののことを、あえて言う気にはなれずに陸奥守は何でも無いと応えて立ち上がる。
「相変わらず海んなかじゃの」
 今度は道はなく、ただ水に囲まれた荒野といった様子であった。見上げれば遠くにきらきらと輝く海面が見える。
「さっきのとこよりは明るいねゃ」
「呪いは軽くなってるって話だったよなァ」
「かもしれん、じゃ。油断は禁物ぜよ。けんど、おまん聞こえちょったがかえ?」
 案内役の和泉守は白皙の顔を曇らせて溜息を付いた。
「オレは基本表層部にいたからよ。全部じゃねえが声は拾ってる。……迷惑かけちまってるな」
「かまんちや。迷惑らぁ思いゆう仲間はおりゃあせん。おまんが庇わんかったら主にかかった呪いじゃ」
 膝を突いて彼に目を合わせる。じっと見つめれば、彼は苦い顔で陸奥守の目に小さな手を当てる。
「もっと上手く避けてりゃなァ……こんなことしたく無かったンだ」
 はーと深々と呆れきった溜息。え、と思う間もなく小さな手の感触が消える。
 明るくなった目の前に広がるのは。

 

「──うちんくの畑?」
 ついこの間植えた夏野菜の畝もある。燭台切御謹製の例の堆肥の前の看板は以前鶴丸国永が作っていたものであるし、あの案山子はもう五年も前に自分が作ったものだ。畑から見える本丸は何処にも無いが、あちこちに陸奥守の本丸の思い出がある。
 そのど真ん中、水に差し込む揺らめいた光の中で野良着の刀が佇んでいる。辟易とした気分が背中からひしひしと感じ取れる。和泉守兼定に間違いなかった。
 いや、ここにいるのは自分以外は全て和泉守兼定の作り出したものなのだが。
「たまるか……うそじゃろ」
 頭を抱えながら畑の畦を走って行くと、胡乱な目をした和泉守が陸奥守を振り返る。むっとした顔で陸奥守を睥睨するのは、畑仕事に嫌気が差したいつもの顔だ。素直にふてくされている。
「……なァんで刀が畑仕事なんかよォ」
「おまん、それでえいがか」
「何がだよ」
 彼は首を傾げる。陸奥守は見慣れすぎた畦にしゃがみこんで呻くことしかできない。付いた手の横につい先日取り尽くした土筆がつんつんと生えている。歌仙兼定のつくしのおひたしと、小烏丸のつくしの卵とじは絶品であったなあ等と考えかけて、陸奥守はかぶりを振った。
「おまん、おまん……!」
 自分がどれだけ覚悟してきたのだと思っているのだろう。
 報告にあった事例は全て、他者に見せたくないような彼らのむき出しの心であった。彼を救うために彼の心に土足で踏み込むことに、陸奥守や他の本丸の仲間たちががどれだけ心を痛めたと思っているのだろう。
 ようよう立ち上がって、彼に問う。
「……畑仕事が嫌ながか」
「あったりめェだろォが。オレたちは刀だぞ。なんで刀が野良仕事なんざ……」
 口を尖らせて、彼は肩に担いだ鍬を下ろす。
「だいたい、なんでお前、いっつもそんな楽しそうなんだよ」
「らぁて、わしは戦より好きやきね」
「チッ、だいたいもう何振りだ? もうすぐ百振りだろうが。オレがやンねェでも好きなヤツにやらせろよ。桑名とかさァ」
 胡乱な目でぶつくさと文句をいう。桑名江は名誉畑当番なので、逆に当番には入っていない。陸奥守は深く深く溜息をついて、にこりと笑みを浮かべた。
「……ようわかった。わしから主に上申しちゃおわえ」
「えッ、マジで?」
 ぱっと彼の顔が明るくなる。
──一瞬で良い。気を逸らせば良い。
 施療院の大倶利伽羅の忠言を思い出す。
 呪詛によって増幅させられた彼の苦衷から、気を反らすこと──それがこの呪詛の解き方だという。
(……嘘も方便じゃ)
「おん。おまんがそがぁに畑当番を嫌がっちゅうがは知らんかったがよ。馬当番もわしが替わっちゃおき」
 意識的ににこにこと笑いながら──本丸の仲間達にはお前がそういう顔をしているときは要注意なのだと言われる──陸奥守は大仰に頷いた。
「お、おう……お前がそう太っ腹だと変な気分だな」
「なんちゃあない。わしとおまんは同じ打刀で、極めの刀じゃ。戦の経験もおんなじくらい積んじゅうろう。なぁーんちゃあ問題ないちや」
「お前は諫めるかと思ってたけどな」
「わしは適材適所っちゅう言葉を知っちゅうがよ。ああ、五月雨江も畑当番に興味ありそうやったき、勧めようと思いよったところじゃ」
「よっしゃ、言質とったからな!」
 万歳と鍬を放り出した和泉守が陸奥守の隣に腰を下ろす。
 風を感じぬことと、空を見上げれば水面が見えることを除けば、まるで本丸に居るような心地良さである。
 葉桜の時期、本丸であったらどれほど青々とした風が吹いていることか。
「戦に出なきゃ、此処に居る意味ねーもんなァ」
 せいせいとした顔で彼は水面を見上げる。細められた目に陸奥守は首を振る。
「……そがなことはないぜよ」
「あるぜ」
 すっと青い瞳が陸奥守を射貫く。
「あるんだよ」
 びゅう、と風か水流か分からぬ何かが吹き抜けた。水面に小石を投げ入れたように彼の姿が解けていく。初めから水に映った虚像に話しかけていたかのように、あとかたもなく彼の姿が消えた。
「和泉守!」
 思わず立ち上がって見回せば、ひょっこりと畦の向こうから幼い姿の案内役が手を振って現れる。
「おう。やっと終わったか」
「お、おん……」
「これで一件落着ってな。さ、帰ろうぜ」
「まっことこれで終わりながか?」
 陸奥守の疑問に、案内役は首を傾げる。
「おまんが起きる気配がないぜよ」
「……」
 顔をしかめた案内役が何か口を開こうとした途端だった。
 ごう、と畑の向こうからうなりをあげた水流が今まであった光景を押し流して自分たちに近づいてくる。
「っ! 陸奥の! オレから離れるな!」
 幼い手が陸奥守の腕を握りしめる。陸奥守は一瞬戸惑いながらも、その手を握り返す。
 水流は猛々しくうねりをあげて陸奥守と案内役を巻き込んで流れていく。