三 中深層/惜別 - 2/2

三 中深層/惜別

 自分が洗濯機でぬめりをとられるウツボになった気分の中、陸奥守は微かな声に耳をすませ、必死に目をこじ開けた。
 遠く、まだ遠く、深い場所にその気配がある。うねりはそこへと繋がっている。
 手を伸ばそうとすれば、ぎゅ、と自分にすがる幼い手が意志を持って水流から自分を引き上げた。

 

「……起きたか」
「わし、また寝ちょったがかえ?」
「ちょっとな」
 流石に二回目ともなると目の前に案内役の顔が迫っていても驚きは少ない。まろくなった頬を撫でてやれば疲れた顔の彼がふわりと手の平に懐く。そのまま上体を起こせば、まわりは暗く、繊月の夜のような淋しさだった。
「ここは……」
 見上げるが、最早水面は見えない。だが、暗闇の中に梅花の香りが満ちている。海の中だというのに、と一瞬思ったが詮無いことだ。心の中である。何でもありだろう。
「終わらねえ」
「ほじゃの、あれで終わったらわしはおまんをこたかすところじゃ」
「……この嘘つきめ」
「すがきいちゅうろう」
 舌打ちをした幼い案内役は先ほどよりも少々落ち着かない様子で周りを見回していた。
「……これで、終わる、はずだ」
「……そう願いゆうがよ、わしも」
 掌が伸ばされて陸奥守の目を塞ぐ。
 幼い小さな手が消えた視界に広がったのは夜よりも尚深い闇の中、むせかえるほど馥郁と薫る梅の中で踞る、一振りの刀の付喪神の姿だった。

 紅白に水が染まるような馥郁たる梅香を掻き分けて、陸奥守は彼に近づいた。
 水の中で咲き誇る梅林は夢幻の美しさであった。 
 白い花は蝦夷地の雪の如く振り、赤い花弁は戦場に散る紅血の如し。
 刀剣男士としての姿はしていない。
 よく休養日に着ているような簡素な袴姿である。刀剣男士となった姿ではないのだろうと陸奥守は直感した。刀剣男士となる前、付喪神としての彼だ。

 彼は長く美しい髪が汚れるのも構わず地面にべったりとつけ、膝が汚れるのも構わずに踞っていた。紅い梅の根元で彼は何をしているのだろう。
「……和泉守」
 和泉守は身じろぎひとつせず、その黒髪を地面に広げている。髪の隙間から小さな口が動いているのが見えた。どうして、と動く口元はかさかさに乾いている。
 こんな姿を、見たくは無かった。きっと彼も見せたくなかった。
 本来ならば陸奥守が見てはならぬものだというのははっきりとわかる。
 自然表情が歪む。 
──えずい呪いぜよ。 
 ますますこの呪詛への恨みが募る。舌打ちしそうになるのを押し込めて、陸奥守は彼に近づいた。
 梅の花。濡れた血のように美しい紅色の花は、かつての彼の主が愛した花だ。
「梅は梅……かえ」
 豊玉発句集などと認める程に風情を愛した男は、どういう思いで発句したのだろう。技巧的なものではなく、時につたないとさえ表される木訥な句の中に、陸奥守は彼の人の本当の人となりをみるような心地がする。
 鬼の副長と呼ばれ、隊士の粛正や倒幕派への拷問、討ち入りを行った苛烈な男と、梅を見ながら句をひねりだした男の姿が陸奥守にはあまり繋がっていない。
「和泉守兼定」
 彼の名を呼び掛けつつ、陸奥守は彼の横に跪いた。
 本当に、気が進まない。
 土方歳三の愛した梅の花の下で、前の主を悼む彼など、自分が一番見たくない。
──だが、このままでは和泉守兼定は目を覚まさない。
 陸奥守は意を決して彼の口元に耳を近づけた。
「どうして」
 やはりそう、彼は呟く。
「どうして連れて行ってくれなかった」
──ああ。
 陸奥守は下唇をきつく噛んで彼の思いを受ける。遠くの水面は雪中の結婚が如く、彼の嘆きの数だけ零れた花弁で染まっていた。
「どうして…………」
「和泉守」
 折れそうなほど細く感じる彼の肩に手を掛けて、引き上げる。顔に掛かる髪をそっと払えば、茫洋とした昏い目が焦点の合わぬまま陸奥守を見つめた。陸奥守が陸奥守であることを理解しているのかも分からぬほど憔悴した目だった。
「……お前、分かるか。お前に分かるか」
「分からんぜよ」
「分からねえよなあ。分からねえんだよ。どうしてオレはあの人と共にいけなかったンだろう」
 深い惜別の情と、悲しみに縁取られた声に陸奥守の胸が引き絞られるようだった。
「一緒にいきたかった。側に居たかった。……どうして」
「……若い命を、未来を生かすためじゃ……」
 陸奥守は絞り出すように彼に答えた。
 顔をあげた和泉守と初めて視線が合った。

 あれはいつの話だっただろう。
 まだ本丸が発足して間の無い頃の話だ。その頃はまだ自分たちは険悪で、漸くやってきた堀川国広との函館出陣での彼の姿に自分は動揺した。色々とあって彼に直接尋ねたのだ。歴史を変えたいと思わなかったのかと。
 ぶん殴られて抜刀騒ぎになった。
 今思えばなんともお粗末な話だ。今ならばもっと互いに傷つかぬように会話出来ただろう。何度も何度もぶつかり合って、あの時が一番大きな諍いになった。
 止めてくれた歌仙や、当時唯一の太刀であった燭台切には頭が上がらない。互いに互いを傷つけ合う口論となり、誰よりも堀川自身が仲介してくれなければ取り返しのつかない事になっていたかもしれぬ。
 殴られて吹っ飛んだ陸奥守に向かって彼は叫んだ。
──オレァな、あの人と最後まで共を出来なかったことだって良く考えてンだよ! てめえに言われなくてもこの300年以上! あの人がアイツにオレを託したのは、まだ若いアイツを戦場から離す為、未来を救う為だ! あの人の魂をオレは託された!
 血反吐を吐くような叫びだった。
 後にも先にも、ただ一度きりの彼のむき出しの本心だった。 
 函館より遺品として届けられたとも、路銀として質屋から彼の本家へ流れたとも言われるが、彼が彼の人の最期に共を出来なかったことは確かだった。それを無遠慮に踏み込んでしまったのは陸奥守の過ちである。
 あれをきっかけに自分の新撰組の刀への偏見にも気付いた。直後に来た加州清光とぶつからなかったのはそのおかげだろう。
 それ以来、陸奥守にとって和泉守は特別な一振りだった。

「おまんがそう言うたやいか」
 思いの外湿った声になって唇を噛む。
 和泉守は真っ直ぐに陸奥守を見つめたまま、言葉に耳を傾けてくれていた。
 自分が、維新の立役者である龍馬の佩刀で最期まで共をした自分が言うのは皮肉がすぎる。だが、ここへ来ることを志願したのは自分だ。
 ここには自分の他に彼にそれを告げられるものはいない。
 酷い顔をした自分が彼の開かれた青い目に映っているのが見えた。
 彼の顔がくしゃりと歪んで笑う。
 驚く陸奥守に、和泉守が苦笑いで応える。
「……ふ、は。なんでお前がンな顔してんだよ」
「和泉守」
「悪ィ。忘れてたわ。……覚えてたンだな」
 和泉守はすっくと立ち上がって陸奥守に手を伸ばす。その手を取って立ち上がれば、彼はがしがしと項を掻いた。
「あの人がオレを人に託したこと。一度は納得したことだッつーのにこうしてまだ迷う。情けねェことだ」
「当たり前のことじゃ。なんちゃあ可笑しいことやない」
「……そうかね」
 彼はふ、と息を吐くと水面を見上げた。
「ああ──お前が言うならきっとそうだな」
 彼が瞑目して動きを止める。
 ぶわりと、先ほども感じた水流のような風のようなうねりが吹き荒れる。人形のように固まった彼の指先から、身体が梅の花弁となってほろほろと零れて崩れる。
「和泉守!」
 思わず取りすがろうと手を伸ばせば、木の陰から飛び出してきた案内役が止める。
「止せ。これでいいんだ」
「和泉の」
 動きを止めた紅梅の下の和泉守は水の中に解けていく。案内役は辟易とした顔で溜息を吐いた。
「……あんまりオレに釣られンな。ここにいるのは呪いで増幅された虚像でしかねェ。虚像が崩れンのは成功だ」
「そ、そうながか」
「オレが言ってンだからそうなんだよ。だいたい、さっきの畑もそうだったろう」
「じゃあ、こんどこそこれで……」
 和泉守は目を覚ますのだろうか、と続けようとした瞬間にまたもや水流が陸奥守を攫う。
「チッ」
 案内役が腕に取りすがる。
「次から次へと」
 忌々しげな声と共に目の前が昏くなる。
 また何処か遠くでで声が聞こえる。その声に耳を澄ませば、やはり彼の声だった。