果ての朝
ぱちんと目を開くと見慣れた部屋の天井と、自分を覗き込む主と施療院の大倶利伽羅が見えた。彼がいるということはそれほど時間は経っていないのだろうか。
「……起きたか」
目の下に隈を作っている主が良かった良かったと騒いでいる傍らで、大倶利伽羅がてきぱきと陸奥守の熱や脈を測り、なにやら帳面を付けている。何時間も潜水して急浮上したときのような息苦しい倦怠感にくらくら眩暈がした。
気がつけば主と話終えた彼はボトルシップを受け取って帰るところだった。主が彼を労い、幕の内弁当やら団子やらと合わせてこの本丸の大倶利伽羅の好物を包んで持たせている。
陸奥守も慌てて身を起こして彼に頭を下げた。
「おおきに、大倶利伽羅さん。その船にも礼を言わせとおせ」
「かまわない。協力感謝する」
「おん」
「三日も眠っていたんだ、報告はすぐじゃなくてもいい。だがなるべく早く頼む」
去り際の大倶利伽羅の言葉に陸奥守はぎょっと目を剥いた。
主が言うには、この三日毎日様子を見に来てくれていたらしい。バイタルは安定していたから呪いが伝搬していたというわけではなく、夢渡りの逸話もないのに慣れないことをしたのが原因だろうということだ。それでも万が一がないようにと来てくれていたのだという。
問題の和泉守は術を開始した翌日には一振り目を覚まし、今は問題なく手合わせ等をしていつもの調子を取り戻しつつあるという。
「ちゃちゃちゃぁ……」
陸奥守は頭を抱えた。
無事に陸奥守が目を覚ましたことで上機嫌な主は、にこにこと微笑んで自分の頭を叩いて部屋を出る。みんなに報せなきゃ、と足取りも軽い。その言葉通り、すぐにピンポンと本丸放送が流れる。手慣れた愛らしい声は乱藤四郎だ。いつもよりさらに声が弾んでいて面映ゆい気分になる。
──緊急連絡です! 緊急連絡でーす! 陸奥守さんが目を覚ましました。お見舞いに行くときは順番に、台帳に名前を書いてからだよ。ボクもすぐ行くから、誰か書いておいてね!──
放送が終わらぬ内に、からりと障子が開いた。
ふわりと涼しい風が陸奥守の髪をからげて部屋の中に吹き込む。肺一杯に吸い込めば朝の匂いがする。暁を過ぎた淡い空が彼の結い上げた黒髪の向こうに広がっていた。
和泉守兼定であった。
「起きたか」
姿を見たくて堪らなかった相手が、しゃんと縁に立っている。彼の頭の先からつま先まで視線を巡らせて、無事を確かめる。いつもの凜として鯔背な刀は、仏頂面で陸奥守を睥睨している。
思わず笑み崩れると、彼はむっと口をへの字に曲げた。
「おまんも無事ながか?」
「……まァな」
もともとある傷を膿ませるような呪いだ。一度目を覚まさせてやればいつも通りになるだろうと聞いていたが、本当にちゃんと目覚めている彼を見れば安堵が胸を占めた。
仏頂面の和泉守は、そのままどっかりと陸奥守の枕元に座り込んだ。
振り返ろうとすると、肩を引かれて身体が崩れる。ぽすんと頭がおちたのは彼の膝の上だった。あの夢の最後とは逆だ。
「お、おお。なんじゃあ、いちゃいちゃするがかえ?」
思わず軽口を叩けば、和泉守は更に眉を寄せて不機嫌を露わにする。びりびりと肌を刺すような不機嫌さと、彼の膝を枕にしている状況のちぐはぐさに流石の陸奥守も少し混乱している。
彼が耳打ちするように身を屈める。
「なァ、ノーカンにしてやろうか」
彼が身を屈めるとぬばたまの帳が降りる。囁き声もそのそっぽを向いた横顔もぶっきらぼうだというのに、彼の耳の先は刷毛で塗ったように赤かった。
予想もせぬ提案にぱっと目を見開くと、いたずらっぽい光の弾ける瞳が、柔らかな慈しみを湛えて陸奥守を見つめている。
胸に鋭い槍でも刺さったような心地で、脈が忙しく拍を刻む。
「えっ、えいがか」
彼の頬に手を伸ばして、思わず上擦ってしまった声で尋ねれば、楽しげに瞳が細められる。
「……早くしねえと、他のヤツ来ちまうぜ」
「お、おん」
夢の中ではない、存在する彼の頬はあまり柔らかくはない。それでも何にも代えがたい現実の手触りと熱がある。鼻先が触れあうような距離で、視線が交わる。
「陸奥の」
「なんじゃ?」
微かな吐息が陸奥守の唇を掠めた。
「てめえは朝だなあ……」
なぜか彼はとろりと碧眼を細めてしみじみと呟く。和泉守の言葉の意味が分からず首を傾げるとくすくすと笑う。初めて見る柔らかな笑みに見惚れていると、にやりと彼は笑う。
「明日がいいか?」
「今がえい」
堪らず頬を引き寄せて啄んだ唇は柔らかく、心地よい。
「オレも好きだよ、陸奥の」
何度もついばむ唇から吐息のように囁かれる。彼の返答に、陸奥守は感極まって彼の首にかじりつくように抱きついた。
春の匂いのする瑠璃色の風と、障子の裏で息を潜めた仲間達の歓声が二振りを心から祝福していた。
呪いの海路の果ては朝 完