肥前忠広殿、お慕い申し上げております

※ひぜむつ

 戦場は常に生きている。停滞した戦場など存在せず、ゆめゆめ油断を覚えてはならない。
 そう心がけていたというのにこうして息も絶え絶えに肺を痛めながら呼吸をしているというのは全くもって、陸奥守の不徳の為すところなのかもしれなかった。
「おおの、動けん……」
 動かない上体をどうにか土塀に預けて、陸奥守は空を見上げる。修行を経て、いくら強くなったと思っていてもこうして呆気なく生と死の境目を彷徨う羽目になる。
 京の夜はとうに更け、見上げれば現代ではなかなか見れぬ美しい天の川が町屋の屋根近くにたゆたっていた。戦塵と血にまみれた己を見下ろすような雄大な光景にふと思い出すものがある。
──ああ。わしの短冊、吊せんかった……。
 本丸に流れる時の中では今日は七夕祭りの夜だ。
 本丸が始まったときから毎年、ささやかながら笹に七夕飾りや短冊を飾っていた。夕涼みがてらにそれを見るのが陸奥守の季節の楽しみになっていた。
 それに──今年は、肥前忠広と南海太郎朝尊が来て初めての七夕だ。
 彼らは何を掛けたのだろう。何を願ったのだろう。二振りに短冊を渡したが、それに何を書いたかは知らぬ。
──世界を掴む!
 常日頃の決意表明に吊した願いを眺める肥前は呆れたように息を吐いた。

 だが、彼は知るまい。
 もう一枚。紅葉のように赤い短冊に込めた祈りは誰にも見せられぬものだった。届けぬ付け文であり、星に願うような幼いそれは陸奥守の何よりの秘か事であった。
 これをもって折れるならば、それはそれで幸せなことだろう。
 懐を探って、ふと陸奥守の顔色が変わる。
「な、ない」
 ざっと余計に血の気が失せる。
「わ、わしの短冊……」
 密かに懸想する相手の名を綴り、思いの丈を込めた小さな紙は陸奥守の懐にない。
 陸奥守は呆気にとられたあと、ふ、と息を吐いた。荒い息の合間に、愉快げな笑い声が混じる。
「っ、ははは、めった……! 部屋に忘れちゅう!」
 土塀に背を預け、己自身である刀に縋るように陸奥守はずるずると立ち上がる。
 痛みに歯を食いしばりながらも、顔は獣のように笑っている。
 ほんの数秒前には今にも折れるばかりであったはずの刀は、今やぎらぎらと朝焼けの目を輝かせて這いずるように本丸を目指す。
 ほんの些細なきっかけだ。奮起する小さな、一つのきっかけに過ぎない。
 けれどまだ折れてはならぬと、叱咤されたような気分であった。
「わしが折れた後に、見られたらおおごとやきね……。にゃあ、肥前の」
 手をつく土塀には、血擦れの跡が残るばかりである。
 

「──もんてきたぜよ」
 門から、這いずるように出てきた刀剣男士を、風のように飛び出した男士が支える。小さくとも、しっかりとした支えに陸奥守は頬を緩める。張り詰めていた気が緩む。
──この声。この匂い。
 本丸の空気に混じる懐かしく、愛おしい刀の気配が陸奥守の意識を解かしていく。
「この、べこのかが……!」
 耳元の張り詰めた叱責に陸奥守は僅かに頷く。
「おん、もんてきてしもうた……」
「当たり前だ! 戻ってこなけりゃ、俺が折ってやる」
 珍しく真剣に荒げられた声に、陸奥守は鉛よりも重い体を預ける。
「部屋に行かんと」
「先に手入れだ!」
「いけん……」
 掛けられた自分の体重に呻く声が聞こえたが、彼が陸奥守を落とすことはないのを知っている。
「肥前のに、見せとうないき……もんてきたがじゃ。わしの短冊……、ちゃんと燃やさんと……」
「は? テメエのいつもの短冊はちゃんと吊してるだろうが」
 動かない体をずるずると引きずられる。手入れ部屋へ向かう道すがらなんとか部屋に戻ろうとする体を彼が引き留め、俵のように担がれる。彼の細い体のどこにそんな力があるのだろう。
「わしが折れた後……、肥前のが泣いたらおおごとやきね……」
「泣かねえよ」
「こがあな形で伝わったら最悪じゃ……」
「あァ?」
 低い声が耳元で険しくなる。
 ふと自分を担いで立ち止まった彼をのぞき込めば、彼は苛立ちと他の感情で奇妙に歪んだ顔で陸奥守の血に汚れた髪をかき混ぜる。その手が優しくて一層頭がぼんやりとする。
「クソ、テメエ俺のことわかってねえな? ずたぼろになりやがって……」
 低い舌打ちのあと、打って変わった穏やかな声で耳元に囁かれる。
「──分かった。それどこにあンだ。俺が捨てといてやるよ」
「まことかえ?」
「おう」
「わしの部屋の、肥前のに貰うた菓子箱の中じゃ……赤うて、肥前のの髪みたいじゃった」
 残してンじゃねえよそんなの……と呟かれた気がする。
 短冊を託せた安堵で、陸奥守の一筋残っていた緊張の糸も何もかもが熔けてしまっていた。
「起きたら覚えてろよ、陸奥守」
 笑い混じりの声が聞こえる。
──あれ、わし、誰に担がれちょったがかえ。
 それを考える間もなく、意識は薄れていった。

 赤い短冊を手にして勝ち誇る肥前忠広と、全てを思い出した陸奥守が本丸中を舞台に大捕物が始まるのは明日の朝になるだろう。
 無論、脇差の機動に打刀が勝てるわけもないのは、誰もが知るところである。

2022/07/10  #ひぜむつ版真剣60分一本勝負 参加作品