「どこで寝てんだこいつ」
自分で思ったよりも呆気にとられた声が肥前忠広の口から零れ落ちる。
手入れ部屋から食堂に繋がる、肥前のお気に入りの金気のない濡れ縁に陸奥守吉行が落ちていた。
この縁側は本丸の増改築で隠れてしまった抜け道のような場所で、肥前はほかにここを通る刀を知らない。
既に夜も更けて月が昇り、夏の夜の柔らかな夜風が縁側を吹き抜けるばかり。景趣の庭からはぐれた蛍が二つ三つほど舞う静かな夏の夜である。
肥前のいる方に背を向ける刀の涅色の結い髪が甲板に散らばっている。
戦装束の軍外套が掛け布団代わりなのか彼の腹におざなりに掛けられていた。その腹が規則正しく上下するので眠っているらしい。
しかし、彼自身である刀が縁側の柱に無造作に立てかけられているのが、どうにも肥前には不快だった。
風に吹かれて庭に落ちたらどうするつもりなのだろうか、この馬鹿は。
縁側を塞ぐ体躯を不機嫌にじっとりと見下ろして肥前忠広は苦々しくも声をかける。縁側を軍外套ですっかり塞いでしまっているので、飛び越えるのは面倒だった。
「おい、でかい図体で転がってンな」
軍外套からはみ出した足を軽く蹴るとむずがるように陸奥守が寝返りをうつ。起きる気配のない陸奥守に肥前は深々とため息を吐いた。
「テメエなァ……」
本気で叩き起こそうとしてふとこちらを見た顔が目に入る。
──あ。
頭の中で火花がはじけるような感覚が起きる。肥前はその顔をまじまじと見つめた。
本丸に配属になってこちら、本丸を支える古参の一振りたる彼が眠っている顔など見たことがなかった。けれど、子どものように幼い顔で眠っている刀を、肥前忠広は知っている。知っていた。
同じ蔵の中で幾度となく見知っている。
──吉行だ。
かつて共に坂本家の蔵に宝蔵されていた刀と同じ寝顔をしている。
無論、同じ刀には違いないのだが、今の今まで、この刀剣男士とあの若い刀の付喪神が同じ刀だと肥前は心のどこかで腑に落ちていなかったのかもしれぬ。
今初めてこの刀にあったような新鮮な心地で、肥前はその場に膝をついて顔にかかる陸奥守の涅色の髪をそっと払った。
自分が先行調査員として配属された肥前故、この本丸の陸奥守が修行に至る前の姿を知らない。
文久土佐藩特命調査の渦中。はりまや橋で再会したときには、陸奥守吉行は既に極に至った刀剣男士であった。長身と言うほどではないが、思い出よりも厚みを増した体躯に重たげな黒い軍外套を羽織り銃を操る姿は、益荒男の付喪神である。
最後の大敵を前にしてその刀はようやく鞘を払った。
現れた刀身を見てさらに困惑は深まった。反りの殆ど無い直刀にみえるその姿と、華やかだった拳丁字はどこにも見えぬ直刃の刃文。
かつて別れた若い付喪神とこの雄々しい付喪神が肥前の中で結びつかぬまま、特命調査が終わる。
──これがあの陸奥守吉行なのか。
とさえ思った。
困惑を拭えぬまま肥前は南海太郎朝尊とともに本丸へと配属された。二振りを迎えたのは、特命調査を傷一つなく終えた白刃部隊隊長であった。
「よく来たにゃあ!」
自分たちに鷹揚に笑いかけ、それなのに妙に計算高いまなざしをする歴戦の刀剣男士。
──まるで別の刀の付喪神ようではないか。
彼とかつての姿が重ならぬまま、時は過ぎていく。
幾度となく話しかけてくる陸奥守を寄せ付けぬ自分に、陸奥守もまた何かを感じたらしく、すぐに近づくこともなくなった。
南海が気をもんでいることは気づいていたが、もしやここを教えたのは彼だろうか。
ならば、上策にもほどがある。
「チッ……」
白い夜着の合わせから吹き込んでくる夜の風が、妙にすうすうとした落ち着かない気分を煽った。
何でここに居るんだ。
──まるで、俺の手入れが終わるのを待っていたような、戦装束のままの姿で。あの頃、蔵で俺を待っていた時の顔をして。
頬に拭いきれなかったらしい茶色い汚れが見える。軽く擦り落とせば、それは血であった。おそらくは己の。
「馬鹿がよ……」
肥前忠広は肺の底の空気が抜けていくようなため息を吐いて縁側に腰掛けた。頭を膝に乗せてやったのは癖のようなものだった。
今日、肥前は新しい戦場で重傷を負い、あまつさえ戦線を離脱した。この数年で初めてのことだった。
新しく開かれていく戦場の敵は強さを増し、こうして修行を待つばかりの刀であっても破壊寸前に追い詰められる。敗走こそしなかったものの、部隊長に担がれて帰参したのを覚えている。
部隊長は陸奥守吉行であった。
待っていたのは、部隊長としての責任か、それとも──。
「それで寝こけてりゃ世話ねえなァ、おい」
汚れたままの頬を袖で拭いながらつぶやいた声が、己でも驚くほどに穏やかに和いでいた。
むずがる陸奥守が肥前の腹に額を付け、長く伸びた腕が腰に巻き付く。ずり落ちかけた外套を彼に掛け直して、息をついた。
柱に立てかけられていた彼自身の刀を手にとって鞘をそっと払った。
まっすぐ、ほとんど反りのない二尺二寸は、釧路で焼けたのだという。それでもなお研ぎ直されたが故の直刃。
自分の知る時代の彼とは違う姿。
それでも月明かりに目を凝らせば、懐かしく見慣れた拳型丁字がうっすらと透けて見えた。
──ああ、陸奥守吉行だ。
目を凝らすことを怠っていたのは自分自身だった。
「……吉行」
久しぶりに呼ぶその銘は舌によく馴染む。鞘に納めて癖毛の髪を指に絡めて少し引っ張る。
「起きてんなら、一杯つきあえよ」
囁けば耳の先が真っ赤に熟れ、僅かな沈黙の後、小さく頭が動く。ゆっくりと朝ぼらけの目がこちらを窺う。
こうして見れば、あの頃と何も変わらぬ刀だと、早く気づいてやればよかった。
「ンだよ」
「おまん……なんちゅう顔しゆうがよ……」
陸奥守が顔を逸らしたまま呻く。けれど腕は肥前の腰から離れることはなく、首筋さえも真っ赤になっていた。
腹のあたりから珍しくぼそぼそとした声が聞こえる。
「おまん……わしのこと嫌いになったがと違うがか」
「そういうわけじゃねえよ」
「ほ、ほんまなが?」
頷いてやれば、ほっとしたように顔がほころんだ。
「それだ。そういう顔とか、しなかっただろう。テメエが別の刀になっちまったみてえで──」
気づいたことを口にすれば、陸奥守はばっと身を起こして愕然とする。
「こ、こういうことやったがか……!」
首を傾げれば、陸奥守はへなへなと崩れ落ちた。
「なんだ、飲まねえの?」
「飲む! そこでその話もさせとおせ……」
その酒の席で、この刀が昔なじみにいいところを見せようとするあまりに気負いすぎていたという告白を聞いたのはもはや笑い話で。実はこの本丸はそんな刀ばかりが顕現するというのもまた、笑い話で。
今も昔も変わらぬ間柄から、一つ進む日が巡り来る日が近いのは、また別の話である。
すぐはみだればいまむかし・完
2022/07/24 #ひぜむつ版真剣60分一本勝負 参加作品
※見栄っ張り本丸