お前の知らないその癖は

──暑い。
 肥前忠広は辟易として空を見上げた。
 盛夏の折。連隊戦で海辺の戦場にかり出される刀たちに合わせ、本丸は真っ青な空の果てに入道雲が伸び上がっている。
 海辺も暑いのに、本丸でも暑いなんて馬鹿じゃねえの、冬にしろよと文句をつけたこともあるが、極端な寒暖差がある方が体を壊すと古参に言い返される。そう言う初めの一振も額の鉢巻きが色が変わるほどに汗をかいていたのだから、やせ我慢である。その上申はおそらく肥前以外の刀からも出ており、それでも盛夏の景趣は変更を見せぬので肥前も諦めた。しかし、そうはいっても暑いものは暑い。
 その上内番での相方は今は出陣中だ。
 普段使いのパーカーには袖を通す気にもならず、少しだらしないがアンダー一枚で通している。
「こんな日に畑仕事かよ……」
 ぶつぶつと文句は止まらぬが、厨連中に言われた通り茄子やら獅子唐やらオクラやらを収穫していく。
 いつもはこれが昼餉の天ぷらになるのだと思えば心がわずかに浮き立つが、この熱気ではそれどころではなかった。
 一時間もせずに首の包帯に汗が滲んで湿る。すると途端に首がかゆみを訴えるのだから人の身とは不便なものだ。
──暑い。……痒い。
 細くため息を吐いて首に伸びかけた指先を握り込む。あまり掻くと傷を作ると言ったのは誰だっただろうか。
 ようやく必要な分の野菜を収穫し、肥前は額の汗をアンダーで拭った。
 その流れでがり、と喉を爪で掻く。掻痒感が収まった安堵と、ぴり、と走る痛みに舌打ちする。
──陸奥守は連隊戦に出陣、先生は三ノ丸で馬当番。
 思わず頭に浮かんだ古なじみの状況に今度こそ深いため息がこぼれる。叱られる前の子供のような思考であることに気がついてしまった。
 籠を持ち直して畦に上がる。
 そのまま本丸に戻ろうとして、肥前はぎくりと足を止めた。予想外に後ろからアンダーの襟ぐりを惹かれて蹈鞴を踏む。籠を落とさずにすんだのは僥倖だった。
「肥前の」
 後ろから耳菜染みのある声が肥前の名を低く呼ばう。触れた戦装束が湿っているので、先ほど帰ったばかりなのだろう。
 見上げた陸奥守はむっつりと口を曲げている。あの水遊びのような模擬戦をこの刀は好いていたはずだが、何かあったのだろうか。
「……んだよ」
「こっちじゃ」
 妙に固い声のまま腕を引く刀に、反発心も削がれる。流れるように籠を奪われ、畦に枝を伸ばす木の陰に連れ込まれる。
 木陰には蒼い陰と木漏れ日が風に揺れている。
 隣を流れる用水路から風が吹いていた。本丸も見えず、用水路のせせらぎと風の音ばかりが耳を打つ静かな場所だった。
──こんな場所があったのか。
 驚く肥前を置き去りに、さっさと陸奥守が木陰に腰を落とす。
「ん」
 陸奥守にせかされるまま木の根元に座り込めば陸奥守の顔がようやく肥前の目に映る。不機嫌そうだと思った顔は、不安に揺れていた。
 それでもう、肥前は抵抗を諦める。
 この顔をされてしまうと、もうだめだった。共に坂本家にあった頃から何一つ変わらない。
──不安なときに、言葉が少なくなる。
 ゆっくりと伸ばされた彼の手が肥前の腹あたりに垂れる包帯を持ち上げる。そのままするすると包帯をたぐって首に触れる。創傷が出来てしまっていたのだろう、自分よりも痛そうな伏せた目が首元を見つめている。
「……首、また掻きよったきに」
「ああ……、暑くてよ」
「おまんが搔いたら傷になるき、搔かされんち言いゆうが」
「癖になっちまってんだよ。そんなに傷も深くねえだろう」
「けんど血が出ちゅうが」
 叱りつけるような陸奥守に肩をすくめる。
 そうは言ってももう顕現した頃からの癖なのだから仕方ない。
「まだ天花粉在庫あるかえ?」
「あるよ」
「痛くはないがか?」
「ねえ。あんまり搔くなっててめえが言ったんだろ。一応、搔かねえようにしてんだよ……」
 普段はあまり搔かないようにしている、と良いわけをすれば思いのほか陸奥守の張り詰めた空気が緩む。それどころか、少し嬉しげですらあった。
「ほうか。……本丸帰ったら傷薬つけんといけんにゃあ」
「おう、帰るか」
「ん、んー」
 ふと気がつけば陸奥守の指先が無意識に包帯に絡み、くるくると包帯をもてあそんでいる。
「ここにゃあ、夏場はまっこと気持ちえい場所ながよ」
 いつからこの刀にその癖が付いたのか、肥前は覚えていない。
 けれど、刀剣男士として再会し、情を交わす間となってから生まれたその癖を陸奥守は知らないままだ。
──この刀はわかっているのだろうか。この物語の刻まれた醜い首をお前に許す意味を。お前が癖付くほどこれに触れることを許す意味を。そしてお前がそれをする時を。
「何笑っちゅう」
 睨め付けられて、自分が笑っていることに気づく。
「いや?」
 包帯に触れている陸奥守の手を引いて木陰に仰向けに倒れる。そのまま上に乗り上げた陸奥守の口を吸う。
「は!?」
 ぎょっとした顔に、今度こそ喉を鳴らしてくつくつ笑う。
「お前が口吸われてえって言うから面白くてな」
「言いよらんけんど!?」
 言ってるんだよ。とは肥前は告げなかった。自分だけの知る癖があってもかまうまい。
 他の誰にも見せるつもりなどないのだから。

2022/08/21 #ひぜむつ版真剣60分一本勝負 参加作品