あの日々の土佐の空はいったいどんな色をしていただろうか。
肥前忠広は覚えていない。
脇差に打ち直されたばかりで、いったいどこに居たのかさえも曖昧だ。彼の苦鳴が聞こえる生家か、それともあの獄か、どこかの蔵にいたのか──。
主たちの受ける責め苦の苦鳴が耳に張り付いて未だに残っているような気もする。何もかもは苦しみと痛みと怒りの混ざった声にかき消されて、あの頃は獄舎の色の無い情景ばかりが肥前にすり込まれている。
──どういて、人を斬り続けた、以蔵……。
子どもの頃から知っている主だった。長く家宝として大切にされた家の末の子の弟分のような、友人のような、素直な男だった。龍馬から己を譲られて、輝かんばかりの目で己を見た。
その刃文に写った澄んだ目を、肥前は忘れることはできない。
半平太に心酔して、それが正しいと思って、半平太の為に、攘夷のために、世のためにと人を斬って斬って、斬りまくった。けれど人からは認められぬ。軽んじられ、酒と女と博打に逃げて、身代を持ち崩してついに、墨が入った。
肥前はこれでも長く在った刀だったから、人を斬る度に悪い方に主が進んでいくのを悟った。
──やめえや、以蔵。主、もうやめえ……。土佐に帰れんなるがぞ……。
刀の憑き物の声など、人に聞こえるはずも無い。付喪神など、無力なものだ。
肥前には何も出来ない。刀の付喪神などには何も出来ない。
主の首が獄中に転がり落ちる。
──澄み渡る空? そがなものがどこにあるがかえ、主。主、見えんちや。どこにも、どこに……。
そのときの空を主とともに見たような気がするのだけど。
その空の色を、肥前忠広は覚えてやしないのだった。
「肥前の。……肥前!」
切羽詰まったような声が肥前をたたき起こす。いつもの天井、自分に覆い被さるような形で、昔なじみの刀が今にも泣き出しそうな顔をしていた。戦装束は帷子までそのままで、戦の血と埃の匂いが肥前の鼻を突く。
「……陸奥守、か」
絞り出して呼んだ名は酷く擦れていた。
酷く汗ばんだ身体と、冷え切った身体の先。早鐘を鳴らす心臓、体中から吹き出しそうな掻痒感にも似た感情が焦燥感を掻き立てている。
陸奥守を押しのけるように身を起こす。低くため息を吐いて、肥前は額に手を当てた。
──こういう日にこいつと鉢合わせたのは初めてだった。
南海太郎朝尊は知っているが、彼はそんなとき肥前に起こしたことを悟らせぬように寝たふりをしている。彼もまた今日は良くない日だから。
彼が開けっぱなしにしたらしい障子から庭が見える。陸奥守の肩越しに覗けば、まだ薄明にも満たぬ暗い夜が本丸に広がっている。色の無い夢と似た、色の無い夜だ。
「肥前の、水じゃ」
「……おう」
甲斐甲斐しく差し出されたグラスのぬるい水を飲み干す。
「起こしてすまん。えろう魘されちょったき」
「……聞き苦しくて悪かったな」
そんなつもりはないことなど分かっていながら吐き捨てる。予想通り眉を下げて僅かに俯く顔に、じんわりとした罪悪感が覗く。
陸奥守にグラスを渡してもう一杯飲み干し、もう一度ため息を吐く。
「戦帰りに何の用だ」
「ようよう戻んてきたき、肥前のはもう起きちゅうかと思うて。けんど……」
夜戦帰りにわざわざ顔を覗きに来て、魘された己を見てしまったらしい。この刀にしては間の悪いことだった。
「おれァ何か言ってたか」
「……空が見えん、ち……」
言いにくそうに伝えられ、肥前は三度ため息を吐いて、後ろ頭を掻いた。
布団の横で膝を揃える陸奥守が、肥前の一挙一動を窺うような視線を向けている。それがまるで思春期の子どもの仕草のようで、肥前の眉間に皺が寄った。
ちがう。彼にそういう顔をさせたかったのではない。
「……そうかよ」
布団の上に胡座をかいて膝に頬杖をついて彼を見上げる。陸奥守の強ばった顔に片方の手を寄せて、かりそめの肉体の熱を感じる。
丸くなった目を覗く。暗がりではその色を識ることは出来ないが、目を眇めるようにして肥前は陸奥守の瞳をのぞき込んだ。
「陸奥守、お前、あの頃の空の色を覚えてるか」
「……空の色?」
「格子の隙間から見えてたのか……。身も世も無いくらいに泣き叫んでさァ、情けないっつって罵られてたけど、あいつは格子の隙間からでも、見ることくらいはできてたのかねェ」
「肥前の?」
「覚えてねえんだ。何も」
ほとんど独り言めいた言葉が、肥前の口からぽろぽろと零れていく。目尻が濡れているような気さえする。
「あのときの空は澄んでいたのか……どこかに見えちょったがか……」
そっと寄せられた陸奥守の手のひらが、彼の頬に添えられた肥前の手に重ねられる。陸奥守の頬に触れていてもなお冷たい肥前の手を温めようとするかのように。
彼の熱は肥前の手を通して、まるで腹の中にまでその手が伸びてくるような心地がした。
──ああ、ぬくいな。
伏せられた陸奥守の瞼が僅かに震えてまつげが揺れる。
いつも饒舌に回る彼の口は動かぬまま、引き結ばれている。
焦点が合わぬほど、彼の肉の熱が肥前に届くほど近い場所にいる陸奥守を肥前は見つめる。
伏せられた瞼の内側から、大きな水の粒が盛り上がって迫り上がっていく。それが彼の目頭から目尻からはらはらと雨のごとく降りしきるのを見る。啜り上げた鼻の音と共に、彼の太くなった腕が肥前を抱え込むように抱きつかれる。肥前の寝間着の肩口が暖かく濡れる。
涙に濡れた瞳が肥前を見る。
「……土佐の空は綺麗じゃ……いつでも」
丁度、その顔に白々と薄明が差した。暁を払う色の瞳が、肥前をまっすぐに見つめて、その痛みを分け合おうとしていた。
それは夜明けであった。
澄み渡った夜明けの空と、海。帰りたい故郷の空の色。
ああ、そうかもしれない。あんな狭い格子の向こうなどではなく、きっと自分たちが見ていたのは。
「ああ」
肥前は僅かに目を伏せる。
「そうだったなぁ」
了
2025/05/11 #ひぜむつ版真剣60分一本勝負 思春期/澄み渡る空
※岡田以蔵の辞世の句と伝わるもの
君が為 尽くす命は水の泡
消えにし後は 澄み渡る空